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第六話:二つの柱

第六話:二つの柱

尋陽(じんよう)での会談は、魯粛の心に大きな波紋を広げた。彼は陸口(りくこう)に着任すると、劉備との同盟を堅持するという表向きの方針は崩さずも、水面下で、呂蒙が語ったあの恐るべき荊州奪還策に備えた準備を、密かに怠らなかった。

そんなある時、魯粛は呂蒙を陸口の都督府に招いた。茶を酌み交わしながら、魯粛は真剣な面持ちで口を開いた。

「子明殿、そなたの荊州奪還策、実に理に適っている。考えれば考えるほど、成功の絵姿が浮かんでくるようだ。だが…」

魯粛は、言葉を切った。

「一つだけ、懸念がある。それは、その策を実行する『将』だ。そなた自身が動けば、いかに病と偽ろうと、関羽は必ず警戒する。さりとて、あの関羽の目を完全に欺き、大軍を率いて電光石火の奇襲を成功させ、かつ奪取した後の荊州を治められるだけの器量を持つ者など、この呉にいるだろうか…」

魯粛の問いは、呂蒙が密かに抱えていた課題の核心を突いていた。この大任を託せる者。それは、単なる勇将では務まらない。戦場の流れを読むだけでなく、人心の機微を理解し、敵を欺き、味方を統率する、冷静沈着な知将でなければならなかった。

呂蒙はしばし考え込んだ後、ふと、一人の若者の名を挙げた。

「…陸遜(りくそん)伯言(はくげん)という者がおります」

「陸遜?」魯粛は、眉をひそめた。「ああ、呉郡陸氏の若造か。まだ若輩の、ただの書生ではないのか?戦の経験など、無きに等しいであろう」

陸遜は、呉郡陸氏という、何代にもわたって江南に根を張る名門豪族の出であった。その知謀は一部で知られてはいたが、軍事的な実績は皆無に等しい。歴戦の勇将たちから見れば、まさに「書斎の中の若造」であった。

「彼は、ただの書生ではございません」

呂蒙は、静かに、しかし力強く言った。

「その知謀は深く、何より、いかなる状況でも感情に流されぬ氷のような冷静さを持っております。彼の眼は、戦場の流れだけでなく、人の心の機微までも見通します。一度、お引き合わせ願えれば幸甚に存じます」

呂蒙が、あの呂蒙が、ここまで高く評価する若者とは一体何者か。魯粛は、強い興味を抱いた。

後日、陸口の都督府に、呂蒙と共に陸遜が訪れた。

現れた陸遜は、魯粛が想像していたよりもさらに若く、そして優雅な青年であった。その物腰は柔らかく、一見すると武人らしからぬ、どこか公家のような雰囲気を漂わせている。

(なるほど…これでは、関羽があの男を若輩と侮るのも無理はない)

魯粛は内心で頷いた。

彼は、陸遜の実力を試すように、いくつかの難問を投げかけた。

「陸遜殿、関羽がもし北上せず、荊州の守りを固め続けたら、我らに策はあるか?」

すると陸遜は、少しも臆することなく、微笑さえ浮かべて答えた。その声は、静かだが、水底の石まで見通せるような、澄んだ響きを持っていた。

「その時は、待つしかございません。ですが、ただ待つのではありません。北の魏と密かに連携し、関羽が動かざるを得ない状況を作り出します。例えば、魏に関羽の背後にある襄陽(じょうよう)を攻めさせるといった偽の情報を流し、彼を焦らせるのです。人は、焦れば必ず隙を見せるもの。特に、関羽殿のように矜持の高いお方ならば、なおさらのこと」

その答えは、大胆不敵でありながら、極めて冷静な計算に基づいていた。魯粛は、この若者の非凡な才覚を認めざるを得なかった。この男は、戦を算術のように捉えている。そして、人の感情すら、その計算式の一部に組み込んでいるのだ。

会談の後、呂蒙と陸遜は二人きりで、長江を見下ろす回廊を歩いていた。

「陸遜殿、見事な答えだった。魯粛殿も感服しておられたぞ」

「いえ、これもひとえに、呂蒙殿が私を推挙してくださったおかげ。それに、私の策も、呂蒙殿の武威あればこその策にございます」

陸遜は、謙虚に頭を下げた。だが、その胸の内では、呂蒙という男に対して、畏敬と共に、ある種の危うさを感じ取っていた。

(この呂蒙殿は、才覚のみで人を評価する。それは美徳だが、我ら江南に根を張る者の、土地と血の繋がりを軽んじる危うさも孕んでいる。このお方の清濁併せ呑まぬ正しさは、いつか、この呉に大きな波紋を呼ぶやもしれぬ…)

互いに才を認め合う二人の間には、爽やかな空気が流れていた。まるで、呉の未来を照らす、二つの新しい光が出会ったかのようであった。

だが、その根底には、決して交わることのない価値観の違いもまた、この時から、静かに存在していた。

呂蒙は、武勇と努力だけを頼りに、泥の中から這い上がってきた叩き上げだ。彼にとって、国とは己の才覚と力で切り開くもの。古いしきたりや家柄など、彼の前では何の意味も持たない。

一方、陸遜は、代々この江東の地を治めてきた名門豪族の生まれ。彼にとって、国とは、先祖から受け継ぎ、守り育て、子孫へと伝えていくべきものだ。その秩序を乱す者は、たとえ英雄であろうと許しがたい。

呉の未来を担う二つの光は、この日、初めて交錯した。

そして、互いの輝きを認め合いながらも、それぞれが異なる軌道を描き、それぞれの道を歩み始めたのである。

その先にあるのが、栄光か、それとも破滅か。それはまだ、誰にも分からなかった。

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