第五話:士別れて三日、刮目すべし
第五話:士別れて三日、刮目すべし
合肥での苦杯から、数年の歳月が流れた。
あの敗北を、呂蒙は片時も忘れたことはなかった。夜ごと、夢に張遼のあの神速の槍筋が現れ、うなされて目を覚ます。その度に、彼は寝台から起き上がり、蝋燭の灯りを頼りに、墨の匂いが染みついた竹簡を広げるのであった。
彼の学びは、もはや書物の中だけに留まらなかった。
彼は、かつて自分が軽んじていたものを、一つ一つ拾い集めるように学び始めた。兵卒に混じって訓練に汗を流し、彼らの目線で陣営の欠点を探した。地方の役人と膝を突き合わせて民の声を聞き、その土地の本当の力を知った。商人から各地の情報を集め、銭の流れが戦を左右する理を学んだ。
彼の知は、血肉を伴い、生きたものへと変わりつつあった。それは、合肥の敗北という、あまりに大きな代償を払って得た、尊い学びであった。
今や彼は、長江中流域の要衝・尋陽の太守を任されるほどの地位に昇っていた。
そんなある日、大都督・魯粛が、荊州との国境地帯である陸口へと赴任する途次、尋陽の呂蒙の元を訪れた。
魯粛にとって、呂蒙は今もなお「武勇は確かだが、学問は始めたばかりの、真っ直ぐすぎる若者」という印象のままだった。彼は、あの呂蒙がその後どうしているか、気にかけていたのである。
「子明殿、久しぶりだな。尋陽の守り、大儀である。学問は、続けておるか」
魯粛の挨拶には、どこかまだ呂蒙を若輩者として扱うような、鷹揚な響きが残っていた。
呂蒙は魯粛を丁重に迎え、ささやかながら酒宴を設けた。
やがて話題は、呉の最大の懸案である荊州の関羽について及んだ。
「関羽は、まことに勇猛比類なき将だが、いささか傲慢な気がある」
魯粛が、憂慮を込めて呟いた。
「かの者は、我が君と劉備殿との同盟を軽んじ、常に江東を見下しておる。あの男の矜持が、いつか呉にとっての脅威とならねば良いが…」
すると、それまで静かに杯を傾けていた呂蒙が、ふっと息を吐き、確信に満ちた声で口を開いた。
「魯粛殿のご懸念、ごもっとも。ですが、彼の矜持こそが、我らにとって最大の好機となり得ましょう」
「ほう?」
魯粛は、杯を持つ手を止めた。
「と、申すは?」
呂蒙は、指で卓に川の流れを描きながら、淀みなく語り始めた。
「関羽は、自らの武勇を恃むあまり、兵站や後方の守りといった地道な務めを軽んじる癖がございます。彼の眼は常に北、中原の曹操にのみ向いております。もし彼が、我らを侮り、北伐などに乗り出して荊州の守りを手薄にするような事態が生じれば…」
呂蒙は、卓上の一点を、指で強く叩いた。
「――それは、我らが荊州を奪還する、千載一遇の好機となりましょう。彼の本拠である江陵と公安の二城を、電光石火の奇襲で落とすのです」
魯粛は、呂蒙の言葉に驚いた。以前の彼であれば、せいぜい「関羽は気に食わん、一戦交えるべきだ」と息巻くだけだったはずだ。
「面白いことを言う。だが、劉備殿との同盟を破ることになるぞ。それはあまりに危険な賭けだ。それに、関羽は百戦錬磨の将。奇襲など、そう易々と成功するものか」
「危険なのは承知の上」呂蒙は、静かに首を振った。「しかし、関羽という虎を、常に隣に置いたまま中原を目指すことと、一時的に蜀との関係が悪化すること、どちらが呉の百年にとって危険か。我らは常に、その秤に手をかけておくべきです。
奇襲については、策がございます。まず、私が重病と称して前線を退き、まだ名も知れぬ若輩の将を後任に据える。関羽の油断を誘うのです。その間に、精鋭部隊を商人に化けさせ、夜陰に乗じて長江を渡り、烽火台を全て無力化した上で、江陵を直接衝く。兵は詭道なり、にございます」
呂蒙は、関羽の性格、荊州の地理、兵站線の確保の困難さ、そして有事の際の具体的な奇襲策に至るまで、まるで見てきたかのように語った。その弁舌は理路整然とし、史書や兵法からの適切な引用を交え、聞く者を唸らせるに十分な説得力を持っていた。
魯粛は、目の前の男が、もはや自分が知っている「呉下の阿蒙」ではないことに気づき、愕然とした。そして、その背筋に、畏敬の念からくる戦慄が走った。
あの無骨な若者が、いつの間に、これほどまでの見識と、恐るべき深謀遠慮を身につけたというのか。
合肥の敗北は、この男から猪の牙を奪い、代わりに龍の智恵を授けたというのか。
魯粛は、しばし呆然と呂蒙を見つめていたが、やがて、はっ、と我に返ると、卓を強く叩いて快活に笑った。
「いやはや、子明殿!参った!全くもって、この魯子敬、完膚なきまでに打ちのめされたわ!」
彼は立ち上がると、呂蒙の手を取り、心からの称賛の言葉を贈った。
「『士、別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし(教養ある者が三日も会わずにいれば、次に会うときには目をこすってよく見て、その成長ぶりに期待すべきである)』とは、まさにこのこと!今日の議論、この魯粛、実に有益であった。もはや、そなたを呉下の阿蒙などと呼ぶ者は、この江東にはおるまい!」
呂蒙は、少し照れたように、しかし誇らしげに微笑んだ。
「魯粛殿にそう言っていただけるとは、光栄の至り。これも全て、若君のあの一言と、合肥でのあの敗北のおかげにございます」
二人の間には、確かな信頼が芽生えていた。
だが魯粛は、呂蒙の瞳の奥に、合肥の敗戦以来宿ったままの、どこか焦燥に似た影があることにも気づいていた。この男は、何かを追い求めるあまり、道を急ぎすぎているのではないか。その知恵の刃は、あまりに鋭すぎて、いつか敵だけでなく、味方や、そして彼自身をも傷つけるのではないか。
その一抹の不安が、魯粛の胸を、かすかな痛みと共に、よぎったのであった。