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第四十二話(最終話):刮目すべきは

第四十二話(最終話):刮目すべきは

大司馬・呂蒙の死は、呉王朝に、静かだが、大きな衝撃を与えた。

ある者は、国の巨星が墜ちたことを深く悲しみ、またある者は、自分たちを縛り付けていた重石がなくなったことを、密かに喜んだ。

だが、誰もが、一つの時代の終わりを、肌で感じていた。


洛陽の宮殿の書庫で、その報を聞いた司馬懿は、編纂していた史書の筆を止め、しばし天を仰いだ。

「…逝ったか、我が好敵手よ」

彼は、ふっと、まるで悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

「最後の最後で、人間に戻るとはな。厄介なものを、陸遜に遺してくれたわ。これでは、呉の崩壊を見物する楽しみが、少しばかり、先延ばしになりそうだな」

その呟きには、敗者の悔しさではなく、盤上の好敵手を失った棋士のような、一抹の寂しさと、そして、これから始まるであろう陸遜の苦闘を「歴史」として記録することへの、不謹慎な喜びが滲んでいた。


西方の成都で、報せを受けた諸葛亮は、静かに目を閉じ、呂蒙との短い交流を思い出していた。

(英雄の務めとは、完璧な答えを出すことではない。自らの過ちを認め、次代に、より良き『問い』を遺すことなのかもしれぬな…)

彼は、呉の方角の空を見上げ、遥かなる地に眠る、もう一人の天才の冥福を、静かに祈った。


そして、呉の丞相府。

陸遜は、呂蒙の位牌と、彼から託されたあの黒漆の木簡の前に、一人座していた。

数年後。

呉の朝議の席で、豪族たちが、ある法案を巡って、陸遜に激しい突き上げを食らわしていた。

「丞相!これ以上の増税は、我ら江南の民を殺すも同然!」

陸遜は、その罵声を静かに聞き流した後、やおら懐から、あの黒漆の木簡を取り出した。

議場は、水を打ったように静まり返る。

陸遜は、その木簡を、ゆっくりと開き、最も声高に反対していた豪族の名を呼び、そこに記された一節を、静かに、しかしはっきりと読み上げた。

「――張氏。先帝の御代、魏の曹休に内通を約せし書状、ここにあり」

張氏は顔面蒼白となり、その場に崩れ落ちた。

だが、陸遜は、それ以上、何も言わなかった。ただ、静かに木簡を閉じると、こう言った。

「過去は、過去だ。私は、この国の未来の話をしている。この法案が通れば、呉は、さらに富み、強くなる。それは、巡り巡って、諸君らの利益ともなるはずだ。…異論のある者は?」

もはや、誰一人として口を開く者はいなかった。

恐怖と、寛容。アメとムチ。陸遜は、呂蒙の遺した「毒」を、自らの「薬」として、巧みに使いこなしていた。


その夜、陸遜は、呂蒙の死後初めて、彼が編纂を監督している公式の国史、『呉書』の呂蒙伝の草稿に目を通した。

そこには、彼の輝かしい功績が、美辞麗句と共に綴られていた。

陸遜は、筆を取ると、その草稿に、静かに朱を入れた。

彼は、呂蒙の功績はそのままに、荊州での兵の暴走という「失敗」、そして会稽での苛烈な鎮圧という「過ち」を、事実として、淡々と追記させた。

部下が、驚いて問うた。

「丞相!なぜ、建国の英雄の伝記に、あえて汚点を記されるのですか!これでは、丞相の威光が損なわれます!」

陸遜は、窓の外の月を見上げながら、静かに答えた。

「英雄を、神にしてはならぬのだ」

彼の声には、深い確信がこもっていた。

「彼の真の偉大さは、完璧だったことにあるのではない。数多の過ちを犯し、理想と現実に引き裂かれ、それでも最後まで、この国の未来を案じ続けた、その『人間性』にあるのだから。それこそが、我ら後進が、真に刮目すべき姿なのだ」


『士、別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし』


かつて、魯粛が若き日の呂蒙に贈った言葉。

呂蒙は、その生涯をかけて、自らを、そして天下を刮目させた。

だが、その英雄が最後にたどり着いた答えは、そして彼の親友が後世に伝えようとした真実は、もっと、静かで、深い場所にあった。

刮目すべきは、完璧な英雄の功績ではない。

不完全で、過ち多き一人の人間が、それでもなお、より良き明日を信じて足掻き、苦しみ、そして次代に希望を託そうとした、その魂の軌跡そのものである、と。

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