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第四十一話:龍の告白

第四十一話:龍の告白

名君・孫権が崩御し、皇太子であった孫登が「景帝(けいてい)」として即位してから、十数年の歳月が流れた。

呉王朝は、安定した治世を続けていた。

しかし、その水面下では、かつて呂蒙が抑え込もうとした江南豪族たちの力が、再び、静かに、しかし着実に勢いを増していた。


かつて「呉下の阿蒙」と揶揄された呂蒙もまた、今や、丞相の職を陸遜に譲り、名誉職である大司馬として、洛陽の屋敷で、静かにその最期の時を迎えようとしていた。

彼の身体は、長年の心労がもたらした癒えぬ病に深く蝕まれ、もはや起き上がることすら、ままならなかった。

だが、その瞳の光だけは、老いてもなお、衰えてはいなかった。


ある雪の降る日、呂蒙は、ただ一人、陸遜を病床に呼び出した。

部屋には、他の誰もおらず、暖炉の薪がぱちぱちと爆ぜる音だけが、響いていた。

呉を支え続けた二本の柱。生涯をかけて対立し続けた二人の天才の、最後の対話が、始まろうとしていた。


陸遜は、骨と皮ばかりに痩せこけた呂蒙の姿を見て、言葉を失った。

呂蒙は、途切れ途切れの息の下から、力なく、しかし確かな声で語り始めた。

「…来たか、伯言。…雪が、降っているな」

「はい、大司馬殿。積もりそうです」

「そうか…」


しばしの沈黙の後、呂蒙は、懺悔するように言った。

「伯言…俺は、間違っていた」

陸遜は、驚いて顔を上げた。

「俺はな、荊州で、己の策が兵の激情の前に脆くも崩れ去るのを見た。あの時からだ。俺は、全てを、人の心すらも、自分の意のままに制御できると信じこんでしまった。いや、そう信じなければ、己の無力さに耐えられなかったのだ…」


「民が俺を英雄と祭り上げた時、俺はその神話を、自分の無力さを隠すための、都合の良い鎧にした。会稽で、俺が殺したのは反乱軍ではない。俺の完璧な神話を汚そうとする、不都合な現実そのものだったのだ。俺は、神を演じるために、鬼になった…。その結果、多くの血を流し、そして、お前という、唯一無二の友の心まで、凍らせてしまった…」

呂蒙の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。それは、英雄の涙ではなく、過ちを犯した、ただの一人の人間の涙であった。


「…私の理想は、正しく、そして空虚だった。これが、俺の限界だ」

呂蒙は、か細い指で、枕元に置かれていた一つの、黒漆の木簡を指さした。

「…これを、お前に授ける」


陸遜は、その木簡を、恐る恐る手に取った。

そこには、江南の主要豪族たちの系譜、姻戚関係、隠し持つ財産、そして過去の裏切りや密約といった、決して表に出ることのない「闇」が、呂蒙の几帳面な筆致で、克明に記されていた。

それは、呉の歴史そのものであり、同時に、豪族たちの喉元にいつでも突きつけることができる、恐るべき「毒の刃」であった。


「…戦え、伯言」

呂蒙の声は、もはや囁きのようであった。

「だが、決して、俺のようになるな。この毒は、敵を斬るためのものではない。彼らと『対話』するための、最後の切り札だ。彼らの力を認め、利用し、少しずつ、時間をかけて、この国を導いてくれ。清濁併せ呑む、真の強さ…それは、俺にはなかったが、お前になら…あるはずだ…」


呂蒙は、最後に、力を振り絞るように言った。

「頼む…伯言。俺を、ただの呂子明として、死なせてくれ。丞相でも、大司馬でも、ましてや神でもなく…。ただ、姉婿殿の背中を追いかけた、廬江の腕白坊主として…」

呂蒙の瞳から、一筋の光が、すうっと消えていった。


陸遜は、その木簡を、震える手で握りしめた。

その重さは、あまりにも重かった。それは、一人の英雄の、理想と、絶望と、そして最後の人間性、その全てが詰まった、魂の重さであった。

彼は、言葉なく、ただ深々と、呂蒙の亡骸に頭を下げ続けた。

呂蒙の痩せこけた手を握りしめると、その手は、窓の外で降りしきる雪のように、驚くほど冷たかった。

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