第四十話:名君の治世
第四十話:名君の治世
呂蒙という、比類なき知勇を備えた補佐役を得て、呉の初代皇帝・孫権の治世は、後世の歴史家たちから「大興の盛世」と称えられるほどの、輝きを放つこととなる。
かつて、江東の片田舎で旗揚げした若き君主は、今や、天下に覇を唱える、威厳と、そして深い慈愛に満ちた名君へと成長していた。
彼は、かつて呂蒙から受けた、あの命懸けの諫言を、片時も忘れることはなかった。
勝利に驕らず、権力に溺れず、ただひたすらに、天下万民の幸福と安寧のために、その生涯を捧げた。
国内においては、呂蒙が築き上げた法制度と統治システムが、効果的に機能した。
中央から派遣された官吏たちは、公正な法に基づき地方を治め、豪族たちの専横を許さなかった。農業生産力は向上し、民は飢えることなく、商業は長江の水運を利用して大いに栄え、都・洛陽や、呉の旧都・建業は、活気に満ち溢れた。文化もまた華やかに花開き、多くの詩人や学者が、この平和な御代を讃える作品を生み出した。
孫権はまた、呂蒙から厳しく指摘された、あの後継者問題についても、その教訓を深く胸に刻み、慎重かつ公正に対処した。
彼は、皇太子・孫登に、帝王学の粋を集めた最高の教育を施し、その賢明さと人格の高潔さを、臣下や民衆に広く示した。
そして同時に、他の皇子たちにも、それぞれの才能に応じた活躍の場を与えつつ、決して皇太子と競い合うような野心を抱かぬよう、巧みにバランスを取り続けた。
父の愛が、無用な競争心と、国を揺るがすほどの内紛を生むことを、彼は呂蒙の言葉から学んでいたのだ。
その結果、彼の治世において、史実の呉を傾かせた「二宮の変」のような、血で血を洗う後継者争いが起こることは、ついに無かった。孫権から孫登への権力移譲は、驚くほど円滑に進められることとなる。
外交面でも、その手腕は冴え渡った。
西方の蜀漢とは、「白帝城の盟約」を遵守し、対等な友好関係を良好に維持し続けた。諸葛亮亡き後も、その信頼関係が揺らぐことはなかった。
また、北方の鮮卑や、南方の山越といった周辺の異民族に対しても、いたずらに武力で制圧するのではなく、交易を通じて互いの利益を分かち合い、徳と信義をもって接することで、長期的に安定した関係を築き上げた。
その全てを、丞相・呂蒙は、病床から、あるいは政務の合間から、静かに、そして満足げに見守っていた。
(若君は…いや、陛下は、真の天子となられた…)
自分の信じた主君が、天下の名君として、万民から慕われている。その事実は、彼の心を、何物にも代えがたい喜びで満たした。
呂蒙は、その生涯を通じて、呉の国家と、主君・孫権のために、文字通り、全てを捧げ尽くした。
しかし、その彼の身体は、荊州で負った「魂の傷」に、静かに、しかし確実に蝕まれていった。彼の命の蝋燭は、この呉の国の輝きと引き換えに、その光を少しずつ、失っていったのである。
やがて、孫権は、七十歳を超える天寿を全うした。
その崩御の報に、呉の国の民は、身分を問わず、誰もが涙を流し、その死を惜しんだという。
彼の名は、分裂の時代を終焉させ、万民に平和と繁栄をもたらした、歴史上屈指の「名君」として、後世の歴史書に、燦然と輝きながら記されることとなる。
そして、その偉大なる治世を、影となり、日向となり、支え続けた最大の功労者として、丞相・呂蒙子明の名もまた、主君の名と共に、永遠に語り継がれる運命にあった。
「呉に孫権あり、そして、孫権に呂蒙あり」と。
二人の英雄の物語は、一つの理想的な形で、その頂点を迎えたかに見えた。
だが、物語は、まだ終わってはいなかった。
偉大なる王の死は、常に、新たな時代の、そして新たな対立の、始まりを告げるものだからである。




