第三十九話:龍の見る夢
第三十九話:龍の見る夢
秋が深まり、洛陽の宮殿の木々が赤く色づく頃、丞相・呂蒙の病は、誰の目にも明らかなほど重くなっていた。
彼はもはや、朝議に出ることもままならず、丞相府の奥にある寝所で、ただ静かに横たわる日々を送っていた。政務のほとんどは、陸遜が代行していた。
その夜、呂蒙は夢を見た。
故郷、廬江の風が吹いている。年は十代半ば。姉婿である鄧当の部隊に、初めて身を寄せた頃の夢だ。
「子明!突出するな!」
後方から響く鄧当の怒声。だが、若き日の呂蒙は、ただ目の前の敵の首を獲ることしか考えていない。返り血を浴び、功を誇る自分。そんな自分を、鄧当が悲しそうな目で見ている。
――場面が変わる。
主君・孫権から『孫子』を授けられ、がむしゃらに書を読み漁る自分。魯粛に教えを乞い、世界が色鮮やかに見え始めた、あの喜び。
――場面は、また変わる。
荊州、麦城の戦場。潘璋が、制止を振り切って関羽の首を掻き切る。兵士たちの狂乱の鬨の声。自分の策が、制御不能な激情の前に崩れ去った、あの無力感。
――そして、会稽。
血に染まった大地に、女子供の亡骸が転がっている。彼らが、虚ろな目で、呂蒙をじっと見つめている。
『なぜ、私たちを殺したのですか…』
「――うわぁっ!」
呂蒙は、絶叫と共に目を覚ました。全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、心臓が激しく脈打っている。傍らで控えていた侍医が、慌てて駆け寄ってきた。
「丞相!また、悪夢を…」
「…下がれ。一人にしてくれ」
呂蒙は、荒い息を整えながら、侍医を下がらせた。
(俺は、一体どこで道を間違えたのだ…?)
闇の中で、彼は自問自答を繰り返す。彼の「魂の病」は、もはや薬では治せぬほど、深く、重くなっていた。
同じ夜、陸遜は、丞相府の執務室で、山と積まれた書類の処理に追われていた。
そこへ、彼の腹心が、一枚の密書を差し出した。それは、会稽郡の役人から、陸遜個人に宛てられたものだった。
『…先の反乱で官奴とされた周氏の遺児らが、過酷な労働により、次々と病に倒れております。このままでは、冬を越せぬやもしれませぬ。丞相(陸遜)の御温情を、伏してお願い申し上げる次第にございます…』
陸遜は、密書を読み終えると、深く、深くため息をついた。
呂蒙の苛烈な処置が遺した、癒えぬ傷跡。それは、今もなお、呉の地の片隅で、静かに膿み続けている。
(呂蒙殿…あなたの正しさは、あまりに多くの涙を流させる。だが、その涙を拭うだけでは、この国は立ち行かぬことも、私は知っている…)
陸遜は、筆を取ると、私財の中から金銭を捻出し、会稽へ送るよう手配した。それは、公の命令ではなく、彼個人の「情け」であった。
『薬と、温かい食事を与えよ。だが、決して、彼らを赦したと誤解させてはならぬ。法の厳しさと、人の情けは、両立させねばならぬのだ』
彼のやり方は、呂蒙のように鮮やかではなかった。矛盾を抱え、常に薄氷を踏むような、地味で、苦しい道であった。
陸遜は、ふと、窓の外に広がる洛陽の夜景を見つめた。
この平和は、あの人の、身を削るような孤独と、非情な決断の上に成り立っている。
(あなたの背負った闇は、あまりに深い。だが、その闇ごと、この国を引き継いでいくのが、私の務めなのだろう)
彼は、呂蒙の寝所がある方角を、静かに見やった。
そこには、友への憐憫と、政敵への対抗心と、そして呉の未来を共に担う者としての、言葉にならぬ複雑な想いが渦巻いていた。
二人の天才は、それぞれの場所で、それぞれの孤独を抱えていた。
龍は、自らが犯した罪の夢にうなされ、
もう一人の龍は、その罪の後始末を、静かに引き受けようとしていた。
呉の夜は、平和であったが、どこまでも深く、そして静かであった。




