第三十八話:英雄の孤独
第三十八話:英雄の孤独
呂蒙の苛烈な改革と、それに続く会稽での血の鎮圧は、呉の国内に、静かな、しかし確実な亀裂を広げていた。
江南の豪族たちは、恐怖によって沈黙していた。だが、それは水面下に押し込められただけであり、その下では、マグマのような憎悪が、ぐつぐつと煮えたぎっていた。
呂蒙は、もはや呉の英雄ではなかった。多くの豪族にとって、彼は、自分たちの全てを奪い去る、恐怖の独裁者そのものであった。
そんなある日、丞相府を、一人の女性が、何の予告もなく訪れた。
呂蒙の姉、鄧当の妻である。
呂蒙は、多忙を極める政務の合間を縫って、彼女を私室へと通した。
「姉上、どうかなされたのですか。急なご来訪とは、珍しい」
呂蒙は、疲れた顔に、無理に笑みを浮かべた。
だが、姉の顔に、笑みはなかった。その瞳は、涙で潤み、怒りに燃えていた。
彼女はもはや、ただ弟の身を案じる肉親ではなかった。江南豪族社会の一員として、その存亡の危機を、身をもって感じている当事者であった。
「子明!お前のやっていることは、我ら江南の者たちを、根絶やしにする気なのか!」
その声は、悲痛な叫びであった。
呂蒙は、驚いて筆を置いた。
「姉上、何を仰るのです。私は、ただ、この国をより良くしようと…」
「黙りなさい!」
姉は、弟の言葉を、鋭く遮った。
「お前の言う『良い国』とは、一体誰のための国なのだい!?お前が会稽で何をしたか、知らぬとでも思っているのか!あの周氏の一族、何の罪もない女子供まで皆殺しにされたのだよ!あれは反乱ではあったが、元はと言えば、お前の苛烈な改革が招いたことではないか!」
その言葉に、呂蒙は息を呑んだ。
姉は、涙ながらに訴え続けた。
「鄧家もまた、古くからの豪族との繋がりで、この地で生きてきた。それが、どうだ!懇意にしていた陸家の分家の娘の縁談が、鄧家と繋がりがあるというだけで、お前の改革を恐れて、先方から破談にされてしまったのだよ!お前のせいで、私たちの日常が、どれほど脅かされ、どれほどの人々の涙が流れているか、お前には分かっているのか!」
呂蒙は、言葉を失った。彼は、書類から顔を上げ、疲れた目で姉を見つめた。
「姉上まで…陸遜殿と同じことを、言うのか…。私は、ただ、全ての民が、法の下に等しく生きられる国を、創りたいだけなのだ…」
「お前は、ただ、お前の信じる正義を、力で振りかざしているだけだ!」
姉の瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「お前はもう、昔の、あの腕白で、不器用で、でも誰よりも優しい子明では、ないのかい…。洛陽で人質を取ったと聞いた時、私は我が耳を疑った。お前は、一体いつから、そんな恐ろしい人間になってしまったのだ…」
その言葉は、呂蒙の胸に、最も深く、そして最も痛い傷となって、突き刺さった。
最も近しい肉親からも、理解されない。
自分の信じる正義が、愛する姉を、これほどまでに苦しめている。
その、あまりに大きな矛盾。
夜、一人になった丞相府で、呂蒙は激しい咳と共に血を吐いた。彼の脳裏には、洛陽で檻に入れられた司馬懿の妻子の顔、そして会稽で殺された者たちの顔が、走馬灯のように駆け巡っていた。
(俺の理想は、間違ってはいない。全ての民が、法の下に平等な国…。それを創ることこそが、真にこの国を救う道なのだ…)
彼は、心の中で必死に叫んだ。
(だが、理想を実現するには、かくも多くの憎しみと、涙を生むのか。ならば、憎まれようとも、この道を貫き通すしかない。俺の、この命が尽きる前に、誰にも覆せぬ、揺るぎない礎を、築き上げねば…!)
彼の法家的な思想は、病による焦りと、絶対的な孤独によって、より苛烈な、そして他者を顧みない、純粋な結晶へと昇華されていく。
それは、彼を英雄たらしめると同時に、彼を破滅へと導く、諸刃の剣であった。
姉は、もはや何を言っても無駄だと悟った。目の前にいるのは、自分の知っている弟ではない。理想という名の、恐ろしい神に憑かれた、見知らぬ男であった。
彼女は、弟の背中に、寂しげな、そして憐れむような視線を送りながら、静かに、音もなく、丞相府を去っていった。
残された部屋には、墨の匂いと、そして、英雄の、底知れぬ孤独だけが、満ちていた。




