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第三十六話:英雄という名の怪物

第三十六話:英雄という名の怪物

新たなる呉王朝が始まり、呂蒙は丞相として、その卓越した行政手腕を、今度は天下万民のために振るい始めた。

彼が希求したのは、戦乱の傷跡を癒やし、全ての民が、その出自や身分に関わらず、公正な社会の中で幸福を追求できる、理想国家の実現であった。彼の脳裏には、かつて学んだ法家の思想があった。――情やしがらみを断ち切り、信賞必罰を徹底し、万民の前に平等な「法」を置くこと。それこそが、国を富ませ、真の安寧をもたらす唯一の道である、と。


そして、その理想の実現を後押しする、強力な力が彼にはあった。

民衆が作り上げた、「呂蒙神話」である。

白衣渡江の奇計、石亭の偽降、そして中原決戦の大勝利。彼の功績は、吟遊詩人によって歌われ、講釈師によって語られ、それはもはや彼自身の手を離れ、民衆の間で神格化されていた。

「呂蒙丞相は、戦に負けたことがない」

「丞相は、千里眼を持ち、全てを見通しておられる」

「彼こそ、この乱世を終わらせるために天が遣わした麒麟児だ」

民衆は、呂蒙という一人の人間ではなく、自分たちが作り上げた「完璧な英雄」という虚像を、熱狂的に信奉していた。


呂蒙は、この熱狂を、自らの改革を推し進めるための追い風として利用した。

「丞相様がお決めになった法ならば、間違いはない」

民衆の圧倒的な支持を背景に、呂蒙は官吏登用制度の改革や、均田制の導入といった、急進的な政策を次々と断行した。

だが、そのやり方は、呉という国家の権力基盤そのものである、陸氏、顧氏、朱氏、張氏といった、江南の門閥豪族たちとの間に、深刻にして、修復不可能なほどの亀裂を生じさせた。

彼らにとって、呂蒙の改革は、自分たちの土地と、財産と、そして何よりも先祖代々受け継いできた「誇り」そのものを、根こそぎ奪い去る、許しがたい暴挙であった。


ある日、大都督・陸遜が、それらの豪族たちの代表として、丞相府を訪れた。

その表情は、かつて共に戦った友に向けるものではなく、呉の未来を憂う、一人の政敵として、厳しいものだった。

「呂蒙殿。いや、丞相。貴殿の改革は、あまりに急進的に過ぎる。これでは、国を内側から引き裂くようなものだ」

陸遜は、静かに、しかし強い意志を込めて言った。

「あなたは今、民衆が作り上げたあなたの『影』に頼りすぎている。その影は、いつかあなた自身を飲み込みますぞ。民の熱狂は、明日には憎悪に変わる、最も移ろいやすいもの。その熱狂を礎にした改革は、あまりにも脆い」


呂蒙は、山と積まれた書類から顔を上げた。その瞳は、病と心労で、深く窪んでいた。

(荊州での失敗を、繰り返すわけにはいかぬのだ…)

あの時、兵士たちの激情をコントロールできなかったトラウマが、彼を「全てを完璧に管理しなければならない」という強迫観念に駆り立てていた。

「陸遜殿。君には分かるまい。一度失った信頼を取り戻すことの難しさが。一度緩んだ(たが)を締め直すことの困難さが。今、この熱狂を逃せば、この国を変える好機は二度と訪れぬ。私は、民が信じる『呂蒙』という名の英雄を、演じ切らねばならぬのだ。たとえ、この身がどうなろうとも」


「それは、もはや為政者の姿ではありませぬ!神を演じる道化にございます!」

陸遜の声が、鋭くなった。

「呂蒙殿、あなたは戦場で敵を討つように、国を治そうとしている。だが、国とは、斬り捨てられない無数の人の繋がりと、土地に根差した歴史で出来ているのです!あなたの法は、正しく、そして冷たすぎる。その冷たい刃は、民を救う前に、この呉を支えてきた我々の心を、凍らせてしまうでしょう!」


二人の思想は、もはや交わることはなかった。

叩き上げの理想家と、名門出の現実家。

法による平等を説く者と、秩序と伝統を重んじる者。

どちらもが、呉を思う心に偽りはなかった。だが、その思う道のりが、あまりに違いすぎていた。


呂蒙は、自らの正義が、かつての戦友をも敵に変えてしまう、深い孤独を痛感していた。

彼の治世は、表面的な安定と発展の裏で、江南豪族たちの、深い、深い恨みと憎悪を、まるで(おり)のように、静かに蓄積させていく「恐怖政治」の側面を、色濃く帯び始めていた。

彼は、民衆が作り上げた「英雄」という名の怪物に、自ら喰われていく道を、突き進むしかなかった。

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