第三十五話:新王朝の誕生
三十五話:新王朝誕生
魏帝国の滅亡により、中華の覇権を巡る長き争いは、ついに決着を見た。
天下の趨勢は、完全に、呉の孫権の元へと傾いていた。
西方の蜀漢は、夷陵での大敗から国力は完全には回復しておらず、また、諸葛亮も、これ以上の戦乱は民を苦しめるだけであると判断していた。彼は、劉備の遺志である「漢室復興」という大義名分を胸に秘めつつも、現実的な選択として、孫権の皇帝即位を事実上容認する姿勢を示した。それは、苦渋の決断であったが、天下の安寧を最優先する、偉大な丞相としての最後の務めであった。
呉の国内、そして、新たに版図に加わった中原の地から、孫権への推戴の声が、燎原の火のように巻き起こった。
「孫権様こそ、この乱世を終わらせ、新たな天子となるべきお方!」
「我らは、新しき御代を望みます!」
内外からの熱烈な推戴を受け、孫権はついに、洛陽の宮殿において、中華の新たな皇帝として即位する、歴史的な決断を下した。
国号は、その原点である「呉」。
元号は、新たなる時代の興隆を願い、「大興」と定められた。
ここに、後漢末期の黄巾の乱以来、百年にわたって続いた分裂と戦乱の時代は終焉を迎え、呉王朝による新たな統一国家が、産声を上げたのである。
即位の大典は、荘厳かつ盛大に執り行われた。
洛陽の民衆は、新たな時代の到来を祝い、街は祝祭の熱気に包まれた。
孫権は、皇帝のみがまとうことを許される、龍の刺繍が施された豪奢な礼服(袞龍袍)に身を包み、玉座へと昇った。その姿は、かつて江東で旗揚げした、若き君主の面影はなく、天下をその手に収めた、威厳あふれる覇王のそれであった。
居並ぶ文武百官を前に、新皇帝・孫権は、まず一人の男を、その傍らに呼び寄せた。
丞相・呂蒙子明。
孫権は、玉座から降りると、居並ぶ群臣の前で、呂蒙の手を固く、固く取った。そして、万感の思いを込めて、心からの感謝と称賛の言葉を述べた。
「朕が今日、この玉座に立てるのは、ただ一人、丞相・呂蒙子明、そなたがいてくれたからに他ならぬ」
その声は、感極まって、わずかに震えていた。
「かつて、朕は、無学な若武者に過ぎなかったそなたに、一つの『賭け』をした。そなたは、その賭けに、見事すぎるほどに応えてくれた。そなたの比類なき知勇と、揺るぎない忠誠心なくして、この大業は、決して成し遂げられなかったであろう。そなたこそ、我が新生呉王朝の、至宝中の至宝である!」
呂蒙は、平伏し、その身に余る言葉に、ただ涙を流すばかりであった。
この新たなる呉王朝において、彼は、文武百官の筆頭である丞相、そして軍事の最高責任者である大司馬の職を兼任することになった。文字通り、一人を除き、万人の上に立つ存在となったのである。
彼の双肩には、この誕生したばかりの呉王朝の未来を築き上げ、民に真の平和と安寧をもたらすという、壮大にして崇高な使命が、改めて託された。
誰もが、彼の輝かしい未来を信じて疑わなかった。
だが、万雷の拍手と、歓声の渦の中で、呂蒙の胸には、あの日の、司馬懿の言葉が、冷たい楔のように、重く、深く突き刺さっていた。
『私が記すのは、呉の建国史ではない。貴殿が命を懸けて築いたこの国の、「崩壊の序章」やもしれぬな』
栄光の頂点で、彼は、誰よりも深い孤独と、そして誰よりも暗い未来への憂いを、ただ一人、その胸に抱えていた。
龍は、天の頂に昇り詰めた。
だが、その頂から見下ろす世界は、彼が夢見ていたほど、光に満ち溢れてはいなかった。
彼の、本当の戦いは、これから始まるのであった。




