第三十三話:民を人質に
第三十三話:民を人質に
中原決戦に勝利した呉蜀連合軍は、破竹の勢いで、魏の最後の牙城、古都・洛陽へと進撃した。
その威容は、天を衝くばかりであったが、彼らを待ち受けていたのは、固く閉ざされた城門と、城壁にずらりと並んだ魏軍の旗指物であった。
司馬懿は、官渡で敗れた数万の敗残兵をかき集め、この洛陽城に籠城し、最後の、そして絶望的な抵抗を試みたのである。
連合軍からの降伏勧告の使者に対し、司馬懿は、城壁の上から、静かに、しかし毅然として答えた。
「この司馬仲達、魏より大恩を受けし者。たとえこの洛陽が我が墓標となろうとも、断じて降伏はあり得ぬ。攻めたくば攻めるが良い。この城、そう容易くは落ちぬと知るであろう」
その言葉には、敗軍の将とは思えぬ、凄まじいまでの意地と覚悟がこもっていた。
呉蜀連合軍は、洛陽城への総攻撃を開始した。
三国時代の最終局面を飾るにふさわしい、壮絶な攻防戦の始まりであった。
呂蒙は、これまでの経験と知識を総動員した。
「坑道を掘れ!城壁の真下まで掘り進み、その支柱を焼き払うのだ!いかなる堅城とて、その土台を崩せば、砂上の楼閣に過ぎぬ!」
諸葛亮もまた、改良を重ねた連弩や、油を満した壺を遠くまで飛ばす投石機を駆使し、城壁の上の兵士たちを焼き払おうとした。
しかし、司馬懿の防禦もまた、神算鬼謀を極めていた。
呂蒙が坑道を掘れば、彼は城内から水を流し込み、それを水攻めにする。諸葛亮が火を放てば、彼はあらかじめ用意していた大量の土砂で、それをたちまち消し止める。
彼の防禦は、常に二手三手先を読み、ことごとく連合軍の攻撃を無力化していった。しかし、城内の兵糧は、日に日に確実に減り続けていた。兵士だけでなく、洛陽の民もまた、飢えに苦しみ始めていた。
攻防が二月目に差し掛かった頃。戦況は、完全に膠着していた。
連合軍の陣営には、焦りの色が浮かび始めていた。日ごとに兵糧は減り、兵士たちの疲労は限界に達していた。
その夜、連合軍の最高首脳部による軍議が開かれた。そこには、呂蒙、陸遜、そして蜀の諸葛亮らが顔を揃えていた。
「このままでは、冬の到来を前に、我が軍が先に自壊する!」
「司馬懿め、我らの疲弊を待っているのだ!」
諸将の間に、重苦しい空気が流れる。
その静寂を破ったのは、蜀の猛将・魏延であった。
「もはや、悠長なことは言っておれぬ!人道に悖るは承知の上!司馬懿の妻子を探し出し、人質として城壁の前に突き出すのです!いかな司馬懿とて、鬼ではあるまい!」
そのあまりに非情な策に、諸葛亮は眉をひそめた。
「魏文長、ならぬ!それは人道に悖る!我らは漢室の王師、そのような非道な手段に頼っては、天下の信を失うぞ!」
しかし、呉の将たちからは、魏延の策に賛同する声が上がった。
「いや、これしか手はあるまい!」
「戦とは、時に綺麗事ではすまぬもの!」
議論が紛糾する中、呂蒙は、目を閉じ、じっと押し黙っていた。彼の脳裏に、荊州での記憶が蘇る。兵たちの激情を制御できず、関羽の首を獲ってしまった、あの「失敗」。今、この膠着した戦況は、あの時の無念を彼に思い出させていた。
(これ以上の長期戦は、連合軍の崩壊を招き、結果として、より多くの無辜の民の血が流れることになる…)
やがて、呂蒙は静かに目を開いた。その瞳には、深い苦悩と、そして非情な決意が宿っていた。
「…魏延の策は、下策だ。司馬懿ほどの男、己の妻子が人質になったとて、国のために非情な決断を下すだろう。それでは、我らが天下の信を失うだけだ」
その一言に、諸葛亮は安堵の表情を浮かべた。しかし、呂蒙の言葉は続いた。
「だが、彼が捨てられぬものが、一つだけある。…それは、民だ。我らは、司馬懿の妻子ではなく、洛陽の民草を、人質に取る」
「呂蒙殿!あなたは何を…!」諸葛亮が驚愕の声を上げる。
「この策が鬼の道であることは、承知の上。その汚名は、全てこの呂蒙が引き受けよう。だが、我らがここで躊躇すれば、この戦は泥沼化し、この中原で、数十万の兵と民が飢えと寒さで死ぬことになる。どちらが、より大きな罪か。私は、より小さな犠牲を選ぶ」
彼の言葉は、為政者としての、あまりに冷徹な、そして悲しい決断であった。
数日後。連合軍は、洛陽城の包囲をさらに固めると、城の四方に巨大な野営地を築き、そこへ呉から輸送させた大量の食料を、これ見よがしに山と積み上げた。
呂蒙は、拡声器を通して、城壁の上の司馬懿に語りかけた。その声は、冬の風のように冷たかった。
「司馬懿殿。貴殿の忠義、天晴れである。だが、戦は終わった。これ以上の抵抗は、無意味な殺戮を生むだけだ。貴殿が降伏すれば、ここに積まれた食料は全て、飢えた洛陽の民に与えよう。だが、もし、なおも抵抗を続けるのであれば、我らはこの食料を全て焼き払い、貴殿が民を見殺しにする様を、天下に知らしめることになろう」
呂蒙は、言葉を切り、兵士たちが松明を食料の山に近づけるのを示した。
「…貴殿は、魏への忠義に殉じるか、それとも、洛陽数十万の民を救うか。選ぶがよい」
城壁の上で、司馬懿は、その光景を、ただ無言で見つめていた。
彼の背筋は、まっすぐに伸びていた。だが、その拳は、血が滲むほど固く握りしめられていた。
眼下では、飢えた民が、城外の食料を見て、かすかな希望にすがり、そして絶望している。これ以上の籠城は、民を飢えさせるだけだ。
司馬懿は、天を仰ぎ、そして、血の涙を流した。
彼は、ゆっくりと膝をつき、傍らに立つ幼帝・曹叡の前に平伏した。
「陛下…この司馬仲達、もはや、これまででございます…」
それは、一人の英雄が、忠義と人間性の狭間で引き裂かれ、ついに敗北を認めた瞬間であった。
やがて、洛陽の固く閉ざされていた城門が、きしむような、まるで悲鳴のような音を立てて、ゆっくりと開かれた。
それは、かつて中原に覇を唱えた魏帝国の、あまりにも寂しい終焉の瞬間であった。




