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第三十一話:二人の天才、一つの敗北

第三十一話:二人の天才、一つの敗北

石亭での大勝に、呉の国内は、かつてないほどの熱狂に包まれた。

民衆は呂蒙の名を神の如く崇め、朝廷では、陸遜、朱桓ら、勝利に貢献した将たちへの賛辞が鳴りやまなかった。特に、伏兵の一翼を担い、見事な戦いぶりを見せた大都督・陸遜の名声は天を衝き、彼の主張した「積極策」が正しかったのだと、誰もが信じて疑わなかった。


驕り、という名の魔物は、智者の眼をも曇らせる。

陸遜は、今や呉に敵う者なしという万能感に酔っていた。彼の陣営には連戦連勝を祝す将兵の声が満ち、その声はいつしか「次は合肥を!」という熱狂の渦となっていた。

「陸遜殿、今こそ、かの合肥を抜き、長年の屈辱を雪ぐ時!」

「張遼は既にこの世になし!我らが大都督の智謀の前には、合肥城など砂上の楼閣にござる!」

若き将たちの言葉に、陸遜は満足げに頷いた。彼の脳裏には、合肥を陥落させ、呂蒙すら成し得なかった大功を立てる自らの姿が、はっきりと描かれていた。彼の心には、敬愛するがゆえに、いつか超えたいと願う呂蒙への、若き対抗心が燃えていた。孫権もまた、陸遜のその若き勢いを信じ、次なる目標として、長年の宿願であった合肥の完全攻略を命じた。


その報は、建業の丞相府で病床に喘ぐ呂蒙の耳にも届いた。報を聞いた呂蒙は、激しく咳き込み、傍らの器にどす黒い血を吐いた。

「愚かなり…!なぜ合肥なのだ…!あれは魏が我らを誘い込むための、最大の罠であるというのに…!」

呂蒙は病を押して参内し、合肥攻めの危険性を説いた。

「陛下、陸遜殿、今一度お考え直しを。合肥は難攻不落。そこに兵力を集中させれば、必ずや司馬懿の術中にはまります。中原の戦いは兵站が全て。合肥で時を費やせば、我が軍は必ずや疲弊いたします。あれは、魏が我らを嵌めるために、十年がかりで掘り続けた巨大な落とし穴にございますぞ!」


しかし、連勝に驕る陸遜には、呂蒙の言葉は老人の繰り言としか聞こえなかった。

「丞相は、ご病気故、気が弱っておられると見える。ご安心めされよ。石亭の勝利は、我が積極策の正しさの証明。この勢いで合肥を落とし、丞相すら成し得なかった偉業を、この陸遜が成し遂げてご覧にいれます」

その言葉には、先輩である呂蒙への敬意よりも、自らの才気への過信が色濃く滲んでいた。かくして、陸遜率いる呉の大軍は、合肥城へと進軍を開始した。


果たして、戦況は呂蒙の予見通りに進んだ。

陸遜は、あらゆる攻城兵器を繰り出し、波状攻撃を仕掛けた。しかし、城将・満寵の守りは鉄壁であり、呉軍の兵士たちが城壁に取り付いては、熱湯を浴び、石つぶてに打たれ、無惨に屍を晒すばかりであった。

焦った陸遜は、自ら陣頭に立って将兵を鼓舞するが、兵たちの士気は日増しに落ちていく。そこに、司馬懿率いる魏の援軍が到着した。だが、司馬懿は決戦を挑まず、ただ遠巻きに呉軍を包囲し、その補給路を断つことに徹した。

呉軍の陣営には、飢えと疫病が蔓延し始めた。


その報は、建業の宮殿にいる孫権の元にも届いていた。彼は一人、執務室で夜遅くまで地図を睨み、苦悩に顔を歪めていた。

「陸遜の若さに、賭けすぎたか…?いや、彼の勢いを信じ、合肥攻めを許可したのは朕自身だ。ここで陸遜を更迭すれば、朝廷は二つに割れる。だが、このままでは、石亭で得た全てを失ってしまう…」

彼の脳裏には、呂蒙の「合肥は罠だ」という鬼気迫る諫言が蘇る。君主としての判断の誤りを認めることの重圧と、国を失うことへの恐怖が、彼の肩に重くのしかかっていた。

「子明…そなたなら、この状況をどうする…」

彼は、誰に言うでもなく呟き、一つの決断を下した。今はただ、呂蒙の最後の切り札に、呉の未来を託すしかない、と。


絶望の淵に立たされた陸遜は、ついに乾坤一擲の賭けに出た。

「全軍に告ぐ!今宵、夜陰に乗じ、城の東門に総攻撃を掛ける!」

だが、その動きすら、司馬懿の掌の上であった。

呉軍が東門に殺到した、まさにその時、背後で地を揺るがす鬨の声が上がった。司馬懿の本隊が、手薄になった呉軍本陣へ、怒濤の如く襲いかかってきたのである。

「しまった!罠か!」

陸遜が振り返った瞬間、今度は合肥城の城門が内から開かれ、満寵の部隊が打って出てきた。呉軍は、完全に挟撃の形となった。

闇夜に、悲鳴と怒号が交錯する。

「陸遜様をお守りしろ!」忠臣・徐盛が血路を開かんと奮戦するが、魏の猛将・張郃の槍に貫かれ、馬から崩れ落ちた。

「徐盛ぇっ!」

陸遜の絶叫も、乱戦の喧騒にかき消される。もはやこれまでか、と陸遜が死を覚悟した、その時であった。

「退くな、呉の者ども!大司馬・呂蒙様のご命令である!」

背後から、聞き慣れた声が轟いた。見れば、潘璋が、呂蒙が密かに遊軍として配置していた最後の切り札を率い、魏軍の側面を食い破ってきたのである。

「陸遜殿!今です!こちらへ!」

その声に導かれ、陸遜は残存兵力を必死にまとめ、屈辱の撤退を開始した。背後では、味方の兵士たちが次々と倒れていく声が聞こえる。その一つ一つが、彼の心を鋭く抉った。


ほうほうの体で陣に戻った陸遜は、自らの天幕で地図を前に呆然と座していた。床には、血と泥に汚れた大都督の印綬が転がっている。そこに、静かな足音が近づいてきた。

「…陸遜殿」

顔を上げると、そこに立っていたのは、病で骨と皮ばかりに痩せ、しかし静かな眼差しを向ける呂蒙であった。

「丞相…なぜ、ここに…」

「お主を見殺しにはできぬ。それだけだ」

陸遜は、その言葉に、堰を切ったように嗚咽した。彼は地に膝をつき、呂蒙の前に額をこすりつけた。

「も、申し訳ござりませぬ…!この陸遜の驕りが、多くの兵を死なせました…!万死に値しまする!」

呂蒙は、そんな陸遜を黙って見下ろしていたが、やがてゆっくりと彼の前に屈み、その肩に手を置いた。

「…顔を上げよ、伯言。私も、かつてこの地で、張遼という虎に、鼻っ柱をへし折られた。そなたの痛みは、誰よりも分かる」

呂蒙は、懐から一つの竹簡を取り出した。それは、彼が若い頃に読みふけり、手垢で黒ずんだ『孫子』であった。その竹簡には、彼が書き込んだ付箋がいくつも貼られている。

「これを見よ。この付箋には、私が合肥で敗れた際の反省点が記してある。私もここで過ちを犯した。そなたも、ここで過ちを犯した。だが、同じ場所で、二度過ちを犯さねば良い。それこそが、呉が強くなるということだ。私の慎重さも、そなたの勇気も、それ一つでは司馬懿に勝てなかった。それだけのこと。我ら二人の知と勇が真に一つとなった時、初めて呉は、中原の天を掴めるのだ」

呂蒙は、陸遜の震える手を取り、印綬を握らせた。

「立て、陸遜。そなたは、呉の未来を担う龍なのだから」

呂蒙の言葉は、熱い溶岩のように、打ちのめされた陸遜の心に流れ込んだ。それは、単なる慰めではない。同じ道を歩み、同じ痛みを識る者だけが与えられる、魂の戒めであり、そして限りない信頼の証であった。

この日、呉の二本の柱は、初めて真の意味で一つとなった。合肥の惨敗は、呉に手痛い傷跡を残したが、それと引き換えに、何物にも代えがたい、揺るぎない結束をもたらしたのである。

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