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第三話:書中の泥濘

第三話:書中の泥濘

主君から下賜された竹簡との格闘は、呂蒙にとって新たな戦場であった。いや、それは戦場以下の、先の見えぬ泥濘(でいねい)であった。

墨で書かれた文字の群れは、まるで意味不明な虫の行列。幼少の頃より武芸に明け暮れ、汗を流すことには慣れていても、こうして座して文字と向き合うことは、彼にとって苦行以外の何物でもなかった。

「むぅ…『兵は、詭道(きどう)なり』…?」

呂蒙は、頭をかきむしった。

「詭道とは何だ? 騙し討ちのことか? それは武士の誉れではないではないか! 孫策様は、正々堂々と敵を打ち破られたというのに…」

彼は試しに、その一節を自軍の兵法訓練に取り入れてみようとした。だが、見よう見まねの奇襲訓練はただ陣形を混乱させるだけで、部下たちからは「隊長、これではまともに戦えません」と不満の声が上がる始末。彼の武人としてのプライドは、理解の及ばぬ学問の前で、ずたずたに引き裂かれていた。


一文字一文字を解き明かすのに半日を費やし、その意味を理解しようとしてさらに半日悩む。夜には、蝋燭の頼りない灯火の下で竹簡を広げ、いつしか舟を漕いでは、己の頬を強く打ち据えて睡魔を追い払った。

戦場で受けた傷の痛みとは違う、脳が痺れるような疲労感。何度、この竹簡を叩き割り、いつものように矛を振るいに外へ出ようと思ったことか。

だが、その度に脳裏をよぎるのは、若き主君のあの鋭い眼差しと、「賭けに乗るか」という言葉であった。そして、自分を「猪武者」と断じた張昭らの、侮りに満ちた顔であった。

(ここで投げ出せば、俺は生涯、あの者たちの嘲りの中で生きねばならぬ…!)

その反骨心が、彼を再び机へと向かわせた。

そんな苦闘の日々がひと月ほど続いたある日、鄧当が心配そうに彼の部屋を訪れた。

「子明、近頃、槍の稽古にも顔を出さぬが、どうしたのだ。まるで人が変わってしまったようだぞ」

呂蒙は、目の下に濃い隈を作りながら、恥を忍んで鄧当に竹簡の一節を見せた。

「姉婿殿、この一文が、どうしても解せぬのです…」

鄧当もまた武人であり、学問には疎かったが、義弟の必死の形相を見て、ぽん、と膝を打った。

「そうか、それならば、一人、うってつけの人物がおる。周瑜殿の無二の親友で、北の地から我が君を頼ってこられた、魯粛(ろしゅく)殿というお方だ。あの御仁は、江東一の学識と、そして何より、人の身分や出自で態度を変えぬ、大きな器を持っておられる。一度、訪ねてみるとよい」

藁にもすがる思いで、呂蒙は魯粛の屋敷を訪れた。魯粛は、周瑜と並び称される呉の重臣であり、その学識の深さは誰もが認めるところであった。呂蒙のような一介の武弁が、いきなり訪ねて会えるような相手ではない。案の定、門前で断られかけたが、呂蒙は諦めなかった。三日三晩、雨の日も風の日も、彼は門の前に座し続けた。

その噂を聞きつけた魯粛が、根負けしたように門を開けた時、そこにいたのは、泥と埃にまみれながらも、決して折れぬ意志を瞳に宿した若者の姿であった。

「…面白い男よ。入れ」

魯粛は、鷹揚に笑った。

屋敷に通された呂蒙は、恥を忍んで『孫子』の一節について尋ねた。

魯粛は、最初こそ驚いた顔をしたが、呂蒙の三日三晩の執念と、その真剣な眼差しを見ると、興味深げに頷いた。

「ほう、あの呂子明殿が書物を。感心なことだ。どれどれ…『兵は詭道なり』か。なるほど、武骨なそなたが悩むのも無理はない」

魯粛の説明は、驚くほど分かりやすかった。彼は書物の言葉をなぞるだけでなく、自身の経験や、過去の戦例を巧みに引用し、兵法の理を説いた。

「子明殿、『詭道』とは、単なる騙し討ちではない。例えば、敵が千の兵を持つとする。こちらも千の兵で正面からぶつかれば、互いに五百の損害が出るやもしれぬ。それは愚策だ。そうではなく、こちらが五百の兵しかおらぬように見せかけ、敵が油断して前に出てきたところを、隠しておいた残りの五百で側面を突く。そうすれば、こちらは百の損害で、敵を壊滅させることができる。最小の力で最大の効果を挙げる。それこそが、兵と民の血を無駄に流さぬ、将帥の誉れなのだよ」

目から鱗が落ちる思いだった。力と力のぶつかり合いだけが戦ではない。戦う前に、既に勝敗の大部分は決まっているのだ。

「な、なるほど…!」

「うむ。だが、そなたの疑問ももっともだ。かの小覇王・孫策様は、正々堂々たる武で敵を圧倒された。それは、孫策様御自身が、誰よりも強く、誰よりも速かったからこそ可能な戦法よ。いわば、王者の戦。しかし、我ら凡人は、凡人なりの戦い方をせねばならぬ。知恵とは、我ら凡人が、天賦の才を持つ者に抗うための、唯一の武器なのだ」

その日から、呂蒙は足繁く魯粛の元へ通うようになった。

彼の質問は、日を追うごとに的確さを増していく。

「この戦術は、もし敵の兵站が潤沢であれば、効果は薄いのではありませぬか?」

「この地形では、伏兵を置くなら、こちらの谷の方が敵の意表を突けると存じます。なぜなら…」

魯粛は、呂蒙の恐るべき吸収力と、その無骨な問いの裏にある、戦場の匂いがする実践的な思考に、次第に舌を巻くようになっていた。

(この男…ただの猪武者ではない。その思考は、常に実戦に根差しておる。机上の空論家にはない、本物の強さの萌芽がここにあるわ…)

学問に没頭するうち、呂蒙は一つの変化に気づいた。これまでただの背景に過ぎなかった風景が、意味を持ち始めたのだ。

川の流れを見れば、「渡河の難易度」や「水運の利」を考え、丘の連なりを見れば、「陣を敷くならどこか」「伏兵を置くなら」と、無意識のうちに思考を巡らせるようになっていた。

世界が、以前とはまったく違って見えていた。まるで、今まで閉じていた片方の目が、ようやく開いたかのようであった。

数ヶ月後、呂蒙は再び孫権に召された。

「子明、答えは出たか」

「はっ」呂蒙は、深々と頭を下げた。「若君の仰せの通り、書の中には確かに『力』がございました。しかし…」

呂蒙は顔を上げた。その目には、以前の自信ではなく、深い苦悩の色が浮かんでいた。

「しかし、知れば知るほど、己の無知を知るばかり。書を読めば読むほど、新たな問いが生まれます。若君、俺はまだ、答えにたどり着けませぬ。この泥濘の中で、もがいているばかりにございます」

それを聞いた孫権は、満足そうに、しかしどこか寂しげに微笑んだ。

「それで良い。いや、それが良いのだ、子明」

孫権は立ち上がり、呂蒙の肩に手を置いた。

「答えなど、生涯見つからぬやもしれぬ。だが、問い続けること、学び続けることこそが、真の『強さ』なのだ。そなたは、その入り口に立った。それで十分だ。…張昭殿も、近頃はそなたのことを『見違えた』と感心しておったぞ」

その言葉に、呂蒙の胸に熱いものがこみ上げた。

孫権は、呂蒙の成長を確信していた。だが同時に、彼がこれから歩むであろう、苦難に満ちた道を思い、若き主君は胸の内で静かに祈った。

(子明よ、その苦悩こそが、そなたを真の将帥へと鍛え上げるだろう。だが、決して折れるでないぞ。その知恵の刃が、いつか、そなた自身を傷つけることがないようにな…)

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