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第二十八話:潜める狼、司馬懿

二十八話:潜める狼、司馬懿

魏の朝廷が、権力闘争という名の熱病に浮かされる中、ただ一人、その熱に浮かされることなく、冷徹に現実を見据えている男がいた。

その男の名は、司馬懿(しばい)、字は仲達(ちゅうたつ)

彼は、狼のように鋭い眼光を、その柔和な物腰の奥に、巧みに隠していた。


大司馬・曹真や大将軍・曹休が、父祖伝来の武勇を誇示し、感情的な強硬策を主張するのに対し、司馬懿は、常に冷静に戦況を分析し、長期的な視点に立った持久戦略を提案した。

「大司馬殿、大将軍殿。呉蜀両軍の勢いは、確かに脅威にございます。ですが、彼らもまた、故郷を遠く離れた遠征軍。兵站に、必ずや困難を抱えております。焦って決戦を挑むは、敵の思う壺。今は、堅固な防御陣を構築し、持久戦に持ち込み、敵の疲弊と内部分裂を待つべきかと存じます。戦わずして勝つことこそ、上策にございます」

しかし、功にはやる曹真らは、その言葉を「臆病者の戯言(たわごと)」と一蹴した。


幼帝・曹叡は、当初こそ、勇猛果敢な曹真らの意見に傾いていた。だが、彼らの策がことごとく失敗に終わり、呉軍がさらに中原へと進出してくるのを見るにつけ、次第に司馬懿の冷静な意見に耳を傾けるようになった。

そしてついに、彼は一つの大きな決断を下す。司馬懿に、対呉戦線における軍事指揮の全権を与えることを、決断したのである。

「朕は、そなたの知略を信じる。この国難、そなたの力で乗り切ってくれ」

司馬懿は、ただ静かに、「御意」と頭を垂れた。その瞳の奥で、狼の光が、一瞬だけ鋭く煌めいた。


呂蒙は、この司馬懿という人物の台頭を、誰よりも早くから警戒していた。

呉の間諜がもたらす報告書の中で、司馬懿の名は、常に異質な光を放っていた。

(司馬懿仲達…その性格は極めて忍耐強く、深謀遠慮に長け、感情に流されることがない冷徹な男。合肥で戦った張遼のような猛虎ではない。闇に潜み、機を待ち、一撃で獲物の喉笛を掻き切る、飢えた狼だ。これは、これまでの猪突猛進型の魏将とは質を異にする、極めて手強い相手となるだろう)


やがて、呉軍が制圧した淮南(わいなん)の地で、呂蒙率いる呉軍と、司馬懿が指揮を執る魏軍とが、初めて本格的に衝突した。

呂蒙は、得意の奇襲戦術を仕掛けた。一部隊を陽動として動かし、手薄になった魏軍の側面を、自ら率いる精鋭部隊で突こうとした。

しかし、その動きは、まるで予見されていたかのように、司馬懿によって完璧に防がれた。呂蒙の精鋭部隊が進む先には、いつの間にか堅固な野戦陣地が築かれ、無数の(いしゆみ)が、静かに彼らを待ち構えていた。

「…読まれていたか」

呂蒙は、即座に軍を引いた。深追いすれば、逆に罠にかかると、瞬時に判断したからだ。


数日後、今度は司馬懿が動いた。彼は、呉軍の兵糧輸送部隊を襲撃するという、兵法の常道に則った攻撃を仕掛けてきた。

だが、その輸送部隊は、呂蒙が仕掛けた罠であった。荷駄に積まれていたのは兵糧ではなく、大量の(かや)と油。魏軍がそれに群がった瞬間、四方から火矢が放たれ、魏軍は炎に包まれた。

しかし、司馬懿の本隊は、その罠にかかることはなかった。彼は、伏兵がいることを察知すると、即座に攻撃を中止し、被害を最小限に食い止めて撤退したのである。


最初の数回の戦闘は、互いに相手の力量を測るような、一進一退の激しい攻防となった。

呂蒙が仕掛ける巧妙な戦術に対し、司馬懿もまた、その深遠な知略で的確に対抗した。


魏軍の陣営で、司馬懿は、地図を睨みながら静かに呟いた。

「ふむ、これがあの呂蒙子明の軍か…。噂に違わぬ精強さと規律の高さ。そして、何より指揮官の判断が、恐ろしく速い。まことに、侮れぬ」

彼は、初めて直接対峙した呂蒙の力量を、率直に認めざるを得なかった。


一方、呉軍の陣営で、呂蒙もまた、険しい表情で地図を睨んでいた。

「司馬懿仲達、まことに底の知れぬ男よ。こちらの策の意図を、ことごとく読み解いてくる。決して深追いはせず、常に最悪の事態を想定して動く。これは、長期戦を覚悟せねばなるまい」

彼は、新たに出現した強敵に、武者震いにも似た、静かな興奮と、そして一抹の恐れを感じていた。


呉の昇り龍たる呂蒙と、魏の潜める狼たる司馬懿。

二人の天才軍略家による、中原の覇権を賭けた、壮大にして熾烈(しれつ)な知略戦の火蓋が、今まさに、淮南の地で、静かに切られようとしていた。

それは、華々しい一騎打ちなどではない。互いの思考を読み、未来を予測し、相手の心を折るまで続く、果てしない盤上の戦いであった。

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