第二十七話:洛陽の震え、巨星墜つ
第二十七話:洛陽の震え、巨星墜つ
寿春陥落の報は、魏の都・洛陽に、まるで大地震のような衝撃となって駆け巡った。
東方の門が破られ、呉の龍が、今や中原の庭先にまで迫っている。その事実は、魏の朝廷を、混乱と恐怖の渦に叩き込んだ。
そして、その衝撃が冷めやらぬ、まさにその時。
魏の国を、さらに深い闇へと突き落とす、もう一つの凶報が、宮殿を揺るがした。
初代皇帝・文帝曹丕が、崩御したのである。
呉蜀両国からの絶え間ない軍事的圧力と、寿春陥落という屈辱、そして国内の統治という心労が、彼の寿命を、確実に縮めたのであろう。英雄・曹操の子として生まれ、父とは異なる文治によって、この魏という巨大な帝国を築き上げた男は、その志半ばで、静かにこの世を去った。
後を継いだのは、まだ若年の皇太子・曹叡。
父帝の死を悲しむ間もなく、彼は、あまりに重すぎる帝国の舵を、そのか細い両手で握らなければならなかった。幼帝のもとでの新たな政権の基盤は、嵐の前の海のように、静かではあったが、極めて不安定であった。
曹丕は、その死の床で、後のことを深く案じていた。彼は、四人の重臣を枕元に呼び、皇太子・曹叡の後見を託した。
皇族の重鎮である、大司馬・曹真。大将軍・曹休。
そして、文官の筆頭である、陳羣。
最後に、あの男――大将軍・司馬懿仲達。
曹丕は、彼ら四人が力を合わせ、幼帝を輔弼することを望んだ。
だが、その願いは、あまりに理想に過ぎた。
それぞれが大きな実力と、そして何よりも大きな野心を秘めた彼らの間には、以前から、水面下で火花を散らすような、微妙な緊張関係が存在していたのである。
特に、皇族である曹真や曹休は、外様の家臣でありながら、曹丕から絶大な信頼を寄せられていた司馬懿の存在を、快く思っていなかった。
「司馬懿ごときが、我ら皇族と同列に扱われるなど、あってはならぬことだ」
「奴の眼は、狼の眼だ。いつか、この魏を食い破るやもしれぬ」
彼らは、それぞれが強大な軍事力を背景に派閥を形成し、幼帝を傀儡として、国家の実権を掌握しようと、水面下で動き始めた。
国難に際して、指導者層が醜い権力闘争を繰り広げる。国家の危機とは、しばしばこのように、外部からの脅威以上に、内部からの腐敗と分裂によって、より深刻化するものだ。
遠く淮南の地にあって、呂蒙は、呉の間諜網を通じて、これらの魏の宮廷内部の情報を、手に取るように把握していた。
彼は、次々と届けられる密書を読みながら、静かに、しかし確信を持って呟いた。
「魏帝・曹丕の崩御、そして輔政大臣たちの間の深刻な不和…これは、天が我らに与えたもうた、千載一遇の好機」
呂蒙は、魏の指導者層の混乱が、必然的に軍事行動にも深刻な悪影響を与えることを見抜いていた。指揮系統は乱れ、互いに足を引っ張り合い、迅速な判断を下すことができなくなるであろう、と。
主君・孫権もまた、呂蒙からもたらされたこの情報を最大限に重視した。
「子明よ、魏の内憂は、我らにとっての外患を大きく軽減するであろう。今こそ、攻勢をさらに強めるべき絶好の機会だ。この機を逃してはならぬ」
「御意」
呂蒙は、魏の内部混乱を最大限に利用し、さらなる軍事行動の準備を加速させた。
そして同時に、魏の支配下にある各地の不満分子や地方豪族たちへの調略活動を、一層活発化させた。
『今、呉に降れば、汝らの地位は保証されるであろう。だが、沈みゆく泥船に最後までしがみついても、共に沈むだけだ』
甘く、しかし抗いがたい誘惑の言葉が、魏の領土の隅々にまで、静かに、そして着実に浸透していった。
魏という、かつては磐石と思われた巨大な帝国の足元が、今まさに、音を立てて大きく揺らぎ始めていた。
巨星が墜ちた後の空には、ただ、不吉な暗雲だけが垂れ込めていた。




