第二十六話:寿春の陽動
第二十六話:寿春の陽動
呉の遠征軍が、淮南の地で最初に牙を剥いた目標。それは、多くの者が予測した合肥ではなかった。
戦略的要衝・寿春。
この堅城を制圧すれば、中原への重要な足掛かりを得ると同時に、豊かな穀倉地帯である淮南を完全に掌握することができる。呂蒙の眼は、始めからこの一点にのみ据えられていた。
しかし、呂蒙は、いきなり寿春を攻めるという愚を犯さなかった。彼は、かつて自分を打ち破った、あの張遼の奇襲を、決して忘れてはいなかった。
(敵を欺くには、まず味方から。いや、敵の『思い込み』そのものを、欺くのだ)
彼はまず、麾下の猛将・潘璋に一軍を授け、大量の旗指物を持たせて、大々的に進軍させた。その目標は、かつて呉軍が何度も攻めては跳ね返された、因縁の地、合肥であった。
「呉、十万の軍勢、再び合肥を攻める!」
その報は、魏軍の隅々にまで、瞬く間に伝わった。
魏の東方司令部にいた満寵は、その報を聞き、やはりな、と頷いた。
「呉の狙いは、やはり合肥か。奴らは、何度痛い目にあっても懲りぬと見える。全軍、合肥の守りを固めよ!呂蒙とて、この城壁は抜けまい!」
人間の思考は、過去の成功体験、そして失敗体験に、強く縛られるものだ。呂蒙は、その人間の心の弱さを、冷徹に突き、利用した。
魏軍の主力が、合肥という「残像」に引きつけられている、まさにその時。
呂蒙率いる本隊は、密かに淮水を遡上していた。彼が軍制改革で作り上げた、喫水の浅い新型の輸送艦は、大軍を乗せながらも、まるで水面を滑るように、音もなく進んでいく。
そして、魏軍が陽動に気づいた時には、すでに呉の大軍は、電光石火の速さで寿春の城下に到達し、これを蜘蛛の巣のように、完全に包囲していた。
魏の寿春守将・王淩は、城壁の上から、突如として眼前に現れた呉軍の大軍勢を見て、我が目を疑った。
「な、何たることだ!呉の大軍だと!?なぜこの寿春に…!奴らの狙いは、合肥ではなかったのか!」
その狼狽は、城内の兵士たちにも伝染し、寿春の士気は、戦う前から大きく揺らいでいた。
「時をかけるな!総攻撃!」
呂蒙は、包囲網を完成させると、間髪を容れず総攻撃を命じた。
ゴゴゴゴゴ…という地響きと共に、呉軍の陣営から、巨大な攻城兵器が姿を現した。
それは、呂蒙が密かに開発させていた、新型の衝車と、巨大な投石機(霹靂車)であった。
「放てぇっ!」
号令一下、投石機が唸りを上げて巨大な石弾を放つ。石弾は、放物線を描いて城壁に叩きつけられ、凄まじい破壊音と共に、城壁の一部を粉々に砕いた。
衝車は、分厚い鉄板で覆われ、魏軍が放つ矢や石をものともせずに城門へと迫り、その巨大な杭で、城門を内側から破壊しようと試みる。
同時に、呂蒙が事前に放っていた間者による、城内への内応工作も、水面下で進んでいた。
『今、城門を開けば、汝の一族の命と富は、我が主君が保証しよう』
魏の支配に不満を抱く者たちの心は、呉軍の圧倒的な武力と、甘い誘惑の前に、激しく揺れた。
激しい攻防が、三日三晩続いた。
そして、四日目の朝。ついに、寿春の南門が、轟音と共に内側から開け放たれた。城内からの内応者が、ついに動いたのである。
「門が開いたぞ!突入せよ!寿春は、もはや我らのものであるぞ!」
陸遜率いる先鋒部隊が、怒濤のごとく城内へと雪崩れ込んだ。
魏の守将・王淩は、最後まで抵抗するも、乱戦の中で討ち死にした。
この寿春攻略は、魏の朝廷に計り知れない衝撃を与えた。東方の重要拠点を失っただけでなく、豊かな穀倉地帯である淮南を呉に奪われたことは、魏の国力に深刻な打撃を与えるものであった。
そして何よりも、呉軍が、あの呂蒙が、本格的に淮水を越えて北上し、中原の喉元にまで迫ってきたという事実は、魏にとって、新たな、そして極めて恐るべき戦略的脅威の出現を、明確に意味していた。
合肥の残像に囚われた魏は、その隙に、本物の龍に、心臓の一歩手前まで踏み込まれてしまったのである。




