第二十四話:爪を研ぐ
第二十四話:爪を研ぐ
呉の宮廷が、陸遜の「即時出兵論」と呂蒙の「内治優先論」とで揺れる中、呂蒙は、表向きの政争から一歩退いたかのように見えた。彼は、日々の政務を淡々とこなし、軍議の席でも、以前のように声を荒らげることはなくなった。
「丞相は、病で気概を失われたか」
「陸遜殿の勢いに、ついに屈したのだ」
宮中の者たちは、そう噂した。だが、それは大きな間違いであった。
呂蒙は、雌伏していたのだ。来るべき日のために、呉という国家の爪と牙を、根元から研ぎ澄ましていたのである。
彼は、孫権に単独で拝謁すると、一つの壮大な計画を上奏した。
「陛下。今、陸遜殿と事を構えても、国が二つに割れるだけ。得るものはございませぬ。されど、このまま手をこまねいていては、いずれ魏に、あるいは蜀に、呉は飲み込まれましょう。今こそ、我らは内なる力を蓄える時です。呉軍の、抜本的な軍制改革をお許しください」
呂蒙が描く対魏戦略の最終目標は、淮南全域の制圧、そしてその先の徐州への進出であった。だが、それを実行するには、呉軍、特に陸上戦闘能力の飛躍的な向上が不可欠だった。呉は、水軍こそ天下無双であったが、陸上、特に平原での大規模な会戦においては、魏の精強な騎馬軍団に後れを取っていた。
合肥の悪夢は、その弱点を呂蒙に痛いほど教えていた。
孫権から全面的な支援を取り付けた呂蒙は、丞相府の奥にある一室に閉じこもり、その改革に心血を注ぎ始めた。
彼はまず、既存の兵制を徹底的に洗い直した。兵士たちの訓練内容、武具の質、兵糧の配給量、昇進の基準。その全てを、自らの眼で確かめ、問題点を一つ一つ潰していった。
陸軍については、兵員の質的向上を最優先した。
歩兵には、魏の重装歩兵に対抗しうる、より堅固な鎧と、長い槍を新たに供給した。そして、ただ力任せに戦うのではなく、密集方陣を組んで組織的に戦う、集団戦法を徹底的に叩き込んだ。
そして、最大の課題であった騎兵部隊の育成にも、本格的に取り組んだ。魏からの降将を高い俸禄で登用し、その知識を余すところなく吸収した。呂蒙自身も、北方の騎馬民族の戦術を徹底的に研究し、呉の湿潤な気候と、水郷地帯が多いという地形に合わせた、独自の騎兵運用法を模索した。それは、重装騎兵による正面突破ではなく、軽装騎兵による奇襲と後方撹乱を主眼とした、機動力重視の戦術であった。
彼は、兵士たちの待遇改善にも力を注いだ。
信賞必罰を徹底し、武功を立てた者には、身分に関わらず手厚い褒賞を与えた。傷ついた兵士のための医療体制を充実させ、兵士たちの家族にまで生活の保障を与えた。彼は、時折、変装して兵士たちの宿営地を訪れ、彼らと酒を酌み交わし、その悩みや不満に、直接耳を傾けた。
「丞相様は、我らのような者のことまで、見ていてくださる…」
兵士たちの心に、呂蒙への、そして呉という国への、揺るぎない忠誠心が芽生え始めていた。
それは、来るべき中原への大遠征を見据えた、強固な兵站能力をも備えた、近代的な軍隊への変貌であった。
この革新は、多くの時間と資源を要した。陸遜ら積極策を唱える者たちからは、「丞相は、書斎に籠って兵隊遊びをしている」「中原の好機を逸している」との批判も聞こえてきた。
しかし、呂蒙は、それらの声に一切耳を貸さなかった。
(吠えるがよい。そなたたちには、まだ見えぬであろう。この地道な礎の上に、いずれ、天に届くほどの楼閣が建つことを…)
彼は、己の信じる道を、黙々と、しかし確かな意志を持って進み続けた。
龍は、雌伏の時を経て、その鱗をより硬く、その爪をより鋭く、研ぎ澄ましていた。
やがて、その龍が、再び天へと舞い上がる時。
中原の地は、呉の軍靴によって、大きく揺り動かされることになる。
その日のために、呂蒙は、己の命の残り火を、静かに燃やし続けていた。




