第二話:主君の問い
第二話:主君の問い
孫策という太陽を失った江東は、まるで日食に襲われたかのように、不気味な静けさと不安に満ちていた。
父兄の代からの老臣たち――筆頭は、張昭。武将の筆頭は、程普。彼らは忠臣であったが、その眼は、まだ齢十八の若き君主・孫権を、どこか庇護すべき「若君」としてしか見ていなかった。
孫権は、その老獪な重臣たちに囲まれ、まるで美しい鳥籠に閉じ込められた若鷲のようであった。彼は理解していた。(私だけの、心から信頼できる爪と牙が欲しい…)そして、その鋭い眼は、一人の無骨な若武者へと注がれていた。呂蒙、子明。
しかし、孫権は見ていた。呂蒙が、軍議の席で黙り込む時、その瞳の奥には、先の会稽での失敗を悔いるような、苦悶の色が浮かんでいることを。そして、夜ごと一人、独学で書を読んでは、その難解さに頭を抱えている姿を。
(あれは、ただの猪ではない。己の弱さを知り、もがき苦しんでいる。磨けば必ずや、光る…!)
ある夜、孫権は呂蒙を私室に召した。
「子明、近頃の働き、見事である」
「はっ…されど、先の会稽の戦では、俺の力が足りぬばかりに…」
「そうか」孫権は、静かに言った。「ならば問う、子明。なぜ学ぶのだ?」
予想外の問いに、呂蒙は戸惑った。「それは…強くなるためです」
「ならば問う。強さとは何だ?」
孫権の追及は、矢のように鋭く呂蒙の心に突き刺さった。畳み掛けるように問われ、呂蒙は言葉に詰まり、ただ俯くしかなかった。
やがて孫権は、広げられた江東の地図の前に立った。「そなたの強さは、一本の鋭い矛だ。だが、一万の兵を動かす将の強さとは、矛の強さとは違う。それは、戦場の流れを読み、天の時を知り、地の利を活かす知恵だ。そして、その知恵は、書物の中にある。古の英雄たちの成功と失敗の中に、その答えは刻まれている」
孫権は振り返り、書棚から一冊の、使い古された竹簡を取り出した。「『孫子』だ。そなたは独学で苦しんでいると聞く。独学では限界がある。北の地から我が君を頼ってこられた、魯粛殿というお方がおる。あの御仁は、江東一の学識と、そして何より、人の身分や出自で態度を変えぬ、大きな器を持っておられる。彼を師とし、そなたなりの『強さ』とは何か、答えを見つけて朕の前に参れ」
それは、温かい励ましではなかった。期待と、突き放すような冷徹さが同居した、若き君主の非情にして最大の信頼の証であった。
「…御意。この呂子明、必ずや、若君の期待に応えてご覧にいれまする」
その瞳には、もはや迷いはなかった。新たな決意の光が、烈火の如く燃え上がっていた。