第十九話:夷陵炎上
第十九話:夷陵炎上
義兄弟を相次いで失い、復讐の鬼と化した劉備が率いる蜀軍の勢いは、凄まじかった。呉軍の国境線は次々と破られ、呉の朝廷は恐慌状態に陥った。
この国難に当たり、大都督に抜擢されたのは、呂蒙が強く推挙した若き知将・陸遜であった。
「蜀軍の勢いは、復讐心という最も強力な力に支えられている。この怒濤の勢いに、正面からぶつかるは下策」
陸遜は、冷静に戦況を分析した。彼は、血気にはやる諸将の反対を、孫権から与えられた絶対的な指揮権の証である「仮節鉞」を盾に抑え込み、徹底した持久戦略を採用した。
呉軍は計画的な後退を繰り返し、蜀軍を自国の領土の奥深く、夷陵の地まで誘い込んだ。
対峙は数ヶ月に及び、季節は酷暑の夏を迎えた。
連戦連勝に驕った劉備は、長江沿いの森林地帯に、数百里にも及ぶ長大な連営を築いて、持久戦の構えをとった。だが、その陣は木や竹で急造されたものであり、蒸し暑い気候と長期の野営は、故郷を遠く離れた蜀軍の士気を、見た目以上に確実に蝕んでいた。
陸遜は、物見櫓からその様子を眺め、反撃の好機が満ちたことを確信した。
(敵は、あまりに長く、そして深く入り込みすぎた。時は、満ちた…!)
数日後、待ち望んでいた東南の風が、長江の水面を揺らし始めた。
その夜、陸遜は乾坤一擲の火計を実行した。
茅の束を背負った呉の決死隊が、闇に紛れて蜀軍の連営に忍び寄り、風上から一斉に火を放った。
乾燥した木と竹でできた陣営は、強風に煽られ、瞬く間に紅蓮の炎に包まれた。数百里に及ぶ蜀軍の連営は、まるで天から地に落ちた、巨大な火の龍と化した。
「敵襲だ!呉軍の奇襲だ!」
眠りについていた蜀兵は、突然の地獄絵図に大混乱に陥った。
「全軍、総攻撃!蜀軍を一兵たりとも生かして帰すな!」
陸遜の号令一下、それまで息を潜めていた呉軍の全軍が、怒濤のごとく炎上する蜀軍の陣営へと雪崩れ込んだ。
指揮系統を失った蜀軍は、もはや軍隊ではなかった。兵士たちは炎に焼かれ、あるいは呉軍の刃の前に次々と倒れていった。
本陣にいた劉備も、絶体絶命の危機に陥った。
「陛下、お逃げください!」
白馬の将軍・趙雲が、その身を盾にして決死の覚悟で血路を開き、命からがら劉備を連れて西へと敗走した。その目的地は、白帝城であった。
この夷陵の戦いにおいて、劉備率いる蜀軍は壊滅的な打撃を受けた。
若き大都督・陸遜の名は、この鮮やかな勝利によって、中華全土に轟き渡ったのである。