第十七話:二つの火計
第十七話:二つの火、一つの策
対峙は数ヶ月に及び、戦線は膠着した。季節は、草木を焦がす酷暑の夏から、湿度の高い初秋へと移り変わっていた。
劉備は、自軍の優勢を信じ、長江に沿って数百里にも及ぶ長大な連営を築いた。だが、その陣は森の中に建てられ、木や竹で急造されたものであった。蒸し暑い気候と長期の野営は、蜀軍の士気を、見た目以上に確実に蝕んでいた。
陸遜は、物見櫓からその様子を眺め、反撃の好機が満ちたことを確信した。
(敵は、あまりに長く、そして深く入り込みすぎた…)
彼は、乾坤一擲の火計を用いることを決意した。
蜀軍の連営は、一度火を放てば、瞬く間に燃え広がる巨大な薪の山に等しい。
「蜀軍の連営に一斉に火を放ち、混乱に乗じて総攻撃を仕掛ける。これぞ、勝利への唯一の道なり!」
陸遜は、寝食を忘れ、火計の策を練り上げた。風向き、兵糧の集積地点、兵士たちの宿営地の配置。全てを計算し尽くした、数学のように完璧な作戦計画。彼は、万全を期すため、その詳細な計画を江陵の呂蒙へと送った。
数日後、呂蒙からの返書が届いた。陸遜は、封を切るその手に、わずかな緊張を感じていた。
書状の冒頭には、陸遜の策を絶賛する言葉が、力強い筆致で記されていた。
『伯言よ、見事な策だ。火計こそ、この状況を覆す唯一の道であろう。そなたの着眼、この呂蒙、感服した』
その言葉に、陸遜は安堵し、誇らしい気持ちになった。だが、その安堵は、次の瞬間に戦慄へと変わった。
『されど、伯言よ。そなたの火は、まだ生温い。まるで、書斎の学者が考えた火のようだ。これでは、敵を追い払うことはできても、根絶やしにはできぬ』
陸遜は、その言葉にカッと頭に血が上った。だが、読み進めるうちに、その血の気は引き、背筋に冷たい汗が流れた。
『火を放つは、一か所ではならぬ。蜀の連営、その初めと、中ほどと、そして終わりに、三か所同時に火の手を上げよ。そのためには、決死隊を三隊組織し、それぞれに「必ず生きて帰れ」ではなく、「必ず火を付けよ、命に代えても」と命じるのだ。将の非情さなくして、大勝はあり得ぬ。
また、火を放つのみでは、劉備本体を取り逃がす。蜀軍の退路は、必ずや馬鞍山を通るであろう。そこに、我が呉が誇る猛将・周泰を伏兵として置け。周泰ならば、千の兵で万の敵を防ぐであろう。
だが、これだけではまだ足りぬ。本当の戦は、戦場では決まらぬ。人の心で決まるのだ。
そなたは、劉備の心を燃やすことを忘れている』
陸遜は、息を呑んだ。
『火計と同時に、白帝城へ偽りの伝令を走らせよ。「関羽将軍、江陵にてご逝去あそばされた」と。
劉備は、義弟の死を聞けば、必ずや理性を失う。怒りと悲しみに我を忘れた将に、的確な指揮など取れはせぬ。
伯言よ、思い出せ。兵は詭道なり。敵の肉体を殺すのではない。敵の心を殺すのだ。それこそが、兵法の神髄ぞ』
返書を読み終えた陸遜は、しばし呆然とし、やがてわなわなと震えだした。
(お、恐ろしい…この人(呂蒙)は、人の心を盤上の石ころのように操る…!策の緻密さではない。その非情さ、その深淵において、私はこの人に遠く及ばぬ…!)
陸遜の策は、完璧な戦術論であった。しかし、呂蒙の助言は、その完璧な戦術論に、「悪魔の知恵」を吹き込んだのだ。それは、もはや兵法ではない。人の最も弱い部分を的確に突き、その心を内側から破壊する、呪いにも似た計略であった。
陸遜は、呂蒙からの返書を、まるで恐ろしいものを見るかのように見つめた後、静かに蝋燭の火で燃やした。
灰になっていく書状を見ながら、彼は固く決意した。
(この策、私が考えたことにする。この非情な策の考案者という汚名は、私が全て背負おう。呂蒙殿に、これ以上の業を背負わせてはならぬ…)
それは、若き大都督が、偉大なる先達に対して抱いた、敬意と、そして憐憫の念からくる、悲壮な覚悟であった。
劉備を破滅へと導く、二人の天才の知略が融合した、史上最も残忍で、最も美しい計略が、ここに完成した。
決行の日は、東南の風が吹く日。
その日は、刻一刻と近づいていた。