第十五話:龍の遺言、鳳の覚悟
第十五話:龍の遺言、鳳の覚悟
「蜀、劉備が、七十万と号する大軍を率いて、東征を開始!」
その報は、勝利の美酒に酔っていた呉の国中に、冷水を浴びせた。劉備の怒りが、これほどまでに凄まじいとは、誰も予測していなかった。
「迎え撃つべし!」
「いや、まずは和議の道を…」
朝廷は、右往左往するばかりで、議論は紛糾を極めた。
迎撃軍の総大将の人選は、さらに難航した。歴戦の勇将たちは、鬼籍に入るか、老いて一線を退いている。周瑜は亡く、程普は老い、韓当や周泰は一軍の将としては優れていても、国家の命運を賭けた大戦の総指揮を執る器ではなかった。
その、混乱を極める軍議の席に、一つの輿が静かに運び込まれた。
輿から現れたのは、病で骨と皮ばかりに痩せ、しかしその眼光だけは、なおも衰えぬ光を放つ呂蒙であった。彼は、侍医の制止を振り切り、この国難に際して参内したのである。
「丞相…!」
孫権が、思わず玉座から立ち上がりかけた。
呂蒙は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで中央に進み出ると、重々しく口を開いた。
「陛下。そして、諸君。この国難に当たり、総指揮を託すにふさわしき人物が、ただ一人おります」
議場は、水を打ったように静まり返った。誰もが、呂蒙の言葉に固唾を飲んで聞き入る。
「その者の名は――陸遜伯言、にございます」
その言葉が放たれた瞬間、議場は爆発したような騒ぎとなった。
「陸遜だと!?あの若造にか!」
「丞相は、病でご乱心なされたか!陸遜は書生に過ぎぬ!」
「国家の命運を、戦の経験もない若輩者に託すなど、気は確かか!」
老臣たちから、あからさまな不満と侮りの声が上がる。孫権もまた、そのあまりに大胆な人選に、ためらいの色を隠せなかった。
しかし、呂蒙は、それらの罵声に微動だにせず、力強く言葉を続けた。その声は、病に蝕まれた身体から発せられているとは思えぬほど、気迫に満ちていた。
「陛下!陸遜の知略、いかなる状況でも冷静さを失わぬ精神力、そして大局を見通す戦略眼は、この呂蒙が、我が命を賭して保証いたします!」
呂蒙は、そこで一度、言葉を切った。そして、必死に込み上げる咳をこらえた。彼の口元を押さえた指の隙間から、血の味が滲むのを、彼は悟られないよう必死に堪えた。
(我が命、あといくばくか…。この身が朽ちる前に、陸遜、そなたのような次代の柱を立てねば、この呉は、蜀に滅ぼされる前に、内から崩れる…!)
彼の推薦は、単なる英断ではなかった。自らの死期を予感した男の、次代へ全てを託そうとする、悲痛なまでの覚悟の表れであった。
呂蒙は、再び顔を上げると、今度は孫権の心に直接語りかけるように言った。
「陛下は、かつて、無学な猪武者に過ぎなかったこの私を信じ、賭けてくださいました。疑いて用いぬは、国の至宝を土中に埋めるがごとし。信じて任せることこそ、真の覇者の度量かと存じます。どうか、あの日のように、もう一度だけ、賭けてはいただけませぬか。この呂蒙の眼を、そして、陸遜の才を!」
孫権は、呂蒙の鬼気迫る眼差しと、自らが呂蒙を抜擢した、あの遠い日の記憶を思い返し、ついに英断を下した。
彼は、玉座から立ち上がると、高らかに宣言した。
「…分かった、子明。そなたの眼力を信じよう。陸遜伯言を大都督に任じ、対蜀戦線の全権を委ねる!」
大都督に任じられた陸遜は、孫権と呂蒙からの、身に余るほどの信頼を受け、この国家存亡の危機に立ち向かうことを固く誓った。
彼は、呂蒙の前に進み出ると、深々と、礼の極みを尽くして頭を下げた。
「呂蒙殿、そして陛下の御期待、この陸遜伯言、決して裏切りはいたしませぬ」
呂蒙は、若き大都督の肩を、その痩せた手で力強く叩いた。
「伯言、そなたならば必ずできる。…だが、一つだけ、覚えておけ」
呂蒙は、陸遜の耳元で、囁くように言った。
「戦場に、絶対はない。常に最悪の事態を想定し、決して驕るな。あの合肥の時の、私のようにな…」
その言葉は、陸遜の心に、まるで熱い鉄印のように、深く、深く刻まれた。
呉の国家の命運は、まだ無名に近い、若き戦略家の双肩に託された。
そしてその背後には、自らの命の残り火で道を照らす、偉大なる先達の、龍のような影があった。
鳳は、龍の遺言を胸に、今、初めて己の翼を広げ、戦場という名の嵐の中へと、飛び立とうとしていた。