第十四話:白帝城の慟哭
第十四話:白帝城の慟哭
秋風が、蜀の都・成都の並木を揺らしていた。
漢中王・劉備は、長年の宿願であった漢中平定を成し遂げ、しばしの安息を楽しんでいた。遠く荊州からは、義弟・関羽の北伐快進撃の報が次々と届き、彼の心を躍らせていた。
(雲長よ、見事だ。このまま魏を討ち、漢室を再興する日も、そう遠くはあるまい…)
その、甘い夢の中にいた劉備を、奈落の底へと突き落とす凶報が、突如として駆け巡った。
「申し上げます!呉の裏切りにより、荊州は陥落!関羽様は討ち取られ、その首は江東に送られたとの報せにございます!」
その一言は、雷鳴となって劉備の脳天を直撃した。
彼は、一瞬、言葉の意味が理解できなかった。耳が、何も聞こえなくなった。目の前が、真っ赤に染まった。
「…なに?」
絞り出した声は、彼自身のものではなかった。
「今、何と申した…?雲長が…我が義弟が、呉の犬どもに討たれたと、そう申したのか…?」
「は、ははっ…」
伝令は、あまりの殺気に、震え上がって平伏するばかりであった。
「う、おおぉぉぉぉぉぉっ!!」
劉備は、天を裂くような、獣の咆哮にも似た絶叫を上げた。その声は、悲しみというよりは、内臓が煮え繰り返るような、純粋な怒りの塊であった。彼は、目の前にあった玉座の肘掛けを、その両手で握り砕いた。木っ端微塵になった木片が、彼の指の隙間から血と共に滴り落ちる。
「おのれ孫権!呂蒙!この恨み、必ず晴らす!我が義弟を傷つける者は、たとえ地の果てまでも追い詰め、その首を刎ね、その肉を喰らい、その骨を砕いてくれるわ!」
理性を失った劉備は、その場で呉への即時出兵を絶叫した。その形相は、もはや仁徳の君主のものではなく、復讐に燃える鬼神そのものであった。
丞相・諸葛亮は、主君の心中を痛いほど理解しつつも、この国が今、崖っぷちに立っていることを誰よりも知っていた。
彼は、静かに劉備の前に進み出た。
「陛下、お気持ちは、痛いほどお察し申し上げます。ですが、今、呉と干戈を交えるは、ただ北の魏を利するだけの愚策。国力は、漢中攻略で疲弊しきっております。兵も民も、これ以上の戦には耐えられませぬ。どうか、どうかご冷静に…」
「黙れ、孔明!」
劉備の怒声が、宮殿中に響き渡った。彼は、諸葛亮の胸ぐらを掴み上げた。
「そなたは、我が義弟の仇を討つなと申すか!義を説き、仁を説いてきたこの俺が、義弟の死に背を向けて、天下に顔向けができると申すか!これ以上、朕の決意を阻む者は、たとえそなたであろうと許さぬぞ!」
その瞳には、もはや君主が臣下に向けるものではない、狂気の光が宿っていた。
もう一人の義弟・張飛もまた、その蛇矛を床に突き立て、「兄者!この益徳が必ずや雲長兄者を弔う合戦を!孫権の若造の首を刎ねてご覧にいれますぞ!」と息巻いた。
もはや、誰も劉備を止められなかった。
その夜、成都の丞相府で、諸葛亮は一人、深く長い溜息をついた。
彼の前には、蜀の国庫の現状を示す報告書が山と積まれている。兵糧も、武具も、そして兵士たちの士気も、もはや底をついていた。
(陛下のお気持ちは分かる。だが、この状態で戦を仕掛ければ、蜀は滅ぶ…)
諸葛亮は、苦悩の末、一つの決断を下した。
主君の怒りの炎を、完全に消すことはできない。ならば、その炎の向きを、少しでも変えるしかない。
彼は、夜が明けるのを待って、劉備の元へ赴き、こう進言した。
「陛下。出兵はもはや避けられぬとあらば、その大義名分を『君側の奸、呂蒙を討つ』ことと定め、孫権殿には『呂蒙を罰すれば、我らは兵を引く』と伝えましょう。これで、呉の内部に揺さぶりをかけることができます。そして水面下では、この屈辱を晴らすための真の策を探ってみせます。今はただ、陛下の御身の回復が第一。どうか、この孔明に、今少しだけお時間を…」
劉備は、諸葛亮の鬼気迫る表情に、ようやく頷いた。
しかし、彼の心の奥底にある復讐の炎は、もはや誰にも消せるものではなかった。
蜀は、国力を傾け、国家の存亡を賭けた東征の準備を開始した。その行く末を、諸葛亮だけが、深い憂慮と共に、見つめていた。
白帝城に、慟哭の声が響き渡っていた。それは、一つの時代の終わりと、新たな悲劇の始まりを告げる、挽歌のようであった。