第十三話:荊州の光と影
第十三話:荊州の光と影
戦が終わっても、本当の戦は終わらない。
関羽を捕縛し、荊州全域を版図に収めた呂蒙は、休む間もなく新領土の統治という、新たな戦場に身を投じていた。武力による征服だけでは真の支配は得られぬ。人心を掴むことこそが肝要であると、彼は合肥の敗北と、その後の学びから痛いほど理解していた。
呂蒙は、陸遜と緊密に連携を取りながら、民の心を得るための政策を次々と打ち出した。
まず、長年の戦乱で荒廃した農地の復興を最優先とした。彼は自ら農村を視察し、痩せた土地に鍬を入れる農夫たちと直接言葉を交わした。
「皆の者、苦労をかける。だが、安心してほしい。呉の統治の下、皆の暮らしは必ずや楽になる。まずは、この種籾と農具を受け取るがよい。そして、向こう三年の租税は、これまでの半分とする!」
呂蒙の言葉に、農民たちは半信半疑ながらも、その目には希望の光が灯った。
また、関羽時代の厳格すぎる法を改め、公正な裁判が行われる体制を確立した。商業を振興し、市場には活気が戻り始めた。降伏した荊州の有力者たちも、その能力に応じて登用し、彼らの不満を和らげることにも努めた。
呂蒙の仁徳と合理性を伴う統治は、荊州の民に歓迎され、社会は驚くべき速さで安定を取り戻していった。
「民は国の本なり、本固ければ国寧し」。
古典の教えを胸に、呂蒙は理想の統治を実践しているかのように見えた。
しかし、その輝かしい成果の裏で、影もまた色濃くなっていた。
呂蒙は、荊州の速やかな安定を求めるあまり、時に強権的な手法を用いた。彼の病は、彼の精神から「待つ」という余裕を奪っていたのだ。
彼の政策に非協力的な、あるいは面従腹背の態度を取る旧関羽派の土着豪族に対しては、見せしめのように厳しい処罰を下した。その一族を捕らえ、財産を没収して国庫に収め、その土地を貧しい農民たちに分け与えた。
それは、貧しい民にとっては善政であったが、土地を奪われた豪族たちにとっては、到底許しがたい暴政であった。
江陵の執務室。山と積まれた木簡を前に、陸遜が呂蒙に苦言を呈した。
「呂蒙殿、そのやり方はあまりに性急に過ぎます。本日、処罰なされた李家は、この地で二百年にわたり土地を守ってきた名家。彼らの一族郎党、そして彼らと繋がる者たちの恨みは、いずれ大きな火種となりましょうぞ」
陸遜の声には、深い憂慮が滲んでいた。
「彼らの力もまた、この荊州を支える礎なのです。もう少し、対話の道を…」
呂蒙は、山積みの木簡から顔も上げずに、冷たく答えた。
「対話? 陸遜殿、君は甘い。彼らは旧恩に縛られ、変化を恐れるだけの寄生木だ。この呉の未来のためには、時として腐った枝を切り落とす痛みも必要なのだ」
「ですが、その痛みは、新たな憎しみを生むだけです!憎しみは、必ずや報復を呼びます。歴史がそれを証明しているではありませんか!」
陸遜は、声を荒げた。
その時、呂蒙は初めて顔を上げ、氷のような目で陸遜を見据えた。
「ならば、その憎しみが報復の牙を剥く前に、叩き潰せばよい。それだけのことだ。陸遜殿、君は名門の生まれ故、彼ら寄生木に情が移るのであろう。だが、私は違う。私は、泥の中から這い上がってきた。私には、守るべき家柄も、しがらみもない。ただ、若君と交わした約束と、この国の未来があるだけだ」
その声には、病による焦りと、自らの正義に対する揺るぎない確信が滲んでいた。(陸遜殿、君のような貴公子には分かるまい。力なく、学なく、ただ蔑まれるだけの人生の惨めさが。だからこそ、俺は法という絶対の力で、この世の不平等を塗り替えるのだ…!)それは、もはや他者の意見を必要としない、独善の響きを帯びていた。
陸遜は、もはや言葉が通じないと悟った。
目の前にいるのは、かつて尋陽で語り合った、あの思慮深い男ではない。合肥の敗北と、荊州攻略の過度の心労が、彼の魂の何かを歪めてしまったのだ。
(このままでは、呂蒙殿は自らの理想に焼き尽くされる…)
陸遜の胸には、友であり、目標でもあった呂蒙への、深い憂慮と、そして一抹の寂しさが渦巻いていた。
二人の天才の間に、初めて明確な、そしておそらくは決して埋まることのない亀裂が走った瞬間であった。
荊州の民心安定という光は、豪族たちの憎悪という深い影と、常に背中合わせだったのである。
そしてその影は、呂蒙の気づかぬうちに、彼の足元で、静かに、そして着実に広がり始めていた。