第十二話:君主の決断
第十二話:君主の決断
武神・関羽の首が江東に届けられたという報は、呉の都・建業を歓喜の渦に巻き込んだ。民衆は道を埋め尽くして勝利を祝い、朝廷は祝賀の宴で夜ごと明かりが消えることがなかった。
だが、その熱狂の裏で、一つの重大な問題が、呉の未来に重くのしかかっていた。
蜀との、来るべき全面戦争である。
孫権が主催した軍議の席は、激しい議論を巻き起こした。
「劉備は、必ずや義弟の仇を討つべく、国を挙げて攻めてくるであろう!」
「今こそ、守りを固め、蜀軍を迎え撃つ準備をすべきだ!」
「いや、蜀との戦いは魏を利するだけ。和睦の道を探るべきでは」
意見は紛糾し、朝廷は右往左往するばかりであった。
その混乱の渦中に、呂蒙が静かに進み出た。彼は荊州での心労から顔色は青白かったが、その眼光は鋭く、議場を支配する力を持っていた。
「陛下、そして諸君。蜀との戦は、避けられませぬ。劉備の性格からして、必ずや大軍を率いて攻めてきましょう。しかし、我らには、彼らの怒りを逆手に取る策がございます」
呂蒙は、地図を広げた。
「蜀軍を、あえて我が領土の奥深く、夷陵の地まで誘い込むのです。そこで持久戦に持ち込み、敵の補給線を延びきらせ、士気が衰えたところを一気に叩く。これぞ、寡兵が大軍を破る道にございます」
その策の壮大さに、諸将は息を呑んだ。だが、老臣・張昭が懸念を口にする。
「呂蒙殿、それはあまりに危険な賭けだ。もし、こちらの思惑通りに運ばず、蜀軍の勢いを止められなければ、呉は滅びるぞ!関羽を斬ったのは現場の暴走だとしても、その責任は我らにある。劉備の怒りは、我らの想像を絶するものやもしれぬ!」
張昭の言葉に、多くの文官が頷いた。
「そもそも、なぜ関羽を生け捕りにできなかったのだ!貴殿の策に、落ち度があったのではないか!」
非難の矛先は、呂蒙へと向き始めた。
その時、それまで黙って聞いていた孫権が、静かに、しかし威厳に満ちた声で、玉座から立ち上がった。
「静まれ!」
その一喝で、議場は水を打ったように静まり返った。
「荊州攻略は、この孫権が命じたことだ。その結果がどうであれ、全ての責任は、この朕にある。呂蒙の策に、落ち度はなかった。戦場では、常に予測不能なことが起こる。それを乗り越えて勝利を掴んだ将を、ここで詰問するのは筋違いというものだ」
孫権は、居並ぶ臣下を見渡し、言葉を続けた。
「そして、呂蒙が今しがた述べた、夷陵での迎撃策。これもまた、朕の策とする。この策の責任も、全て朕が取る。異論は許さぬ!これより、呉は国を挙げて、蜀軍を迎撃する準備に入れ!」
その声には、もはや若き日の線の細さはなかった。父・孫堅の武、兄・孫策の覇気、そして彼自身が培ってきた知略と度量が一体となった、真の君主の威厳が満ちていた。
呂蒙は、主君のその成長した姿に、胸が熱くなるのを感じた。そして、自らの不覚を補って余りある、この主君の器の大きさに、改めて生涯を捧げることを固く誓った。
呉は、孫権という絶対的な中心の下、来るべき国難に向けて、一つの固い結束を以て動き始めたのである。