第十一話:制御できぬ激情
第十一話:制御できぬ激情
関羽の撤退は、壮絶を極めた。
かつて中華を震撼させた彼の軍勢も、今や士気を失い、故郷を想う兵たちの脱走が後を絶たなかった。それでも関羽は、その身に宿る不屈の闘志だけで、軍を南へ、江陵へと向かわせた。
(江陵さえ取り返せば…まだ戦える!)
その一縷の望みが、彼を支える最後の柱であった。
だが、呂蒙は、その関羽の思考と行動を、掌の紋を見るように、的確に予測していた。
「関羽は、必ずや江陵を目指す。だが、大路は使わぬ。間道である臨沮の小道を通るはずだ。そこに、網を張れ。よいか、決して殺すな。生きて捕らえるのだ。彼の命は、蜀と交渉するための、我が呉にとって最大の切り札となる」
呂蒙の命令一下、呉の猛将・朱然と潘璋が、精鋭を率いて、その道に幾重もの伏兵を配置していた。彼らは、まるで老練な猟師が虎を待ち構えるように、息を潜めてその時を待った。
進退窮まった関羽は、残った数百の手勢と共に、麦城と呼ばれる小さな城砦に籠城した。もはや、それは城というよりは、ただの土塁に囲まれた砦に過ぎなかった。
呉軍は、たちまちこの麦城を幾重にも完全包囲した。
数日後、食料も尽き、援軍の望みも絶たれた関羽は、ついに玉砕覚悟で麦城からの脱出を試みた。
「者ども、聞け!我らは、劉備様、張飛と、桃園にて義を結びし兄弟!生き恥を晒すより、死して名を残すことこそ、本懐ぞ!我に続け!」
その夜、関羽は愛馬・赤兎馬に跨り、その手には、生涯の伴侶とも言うべき青龍偃月刀が握られていた。嫡子・関平、忠臣・周倉と共に、最後の突撃を敢行した。
闇夜を裂いて飛び出した関羽一行は、たちまち呉軍の伏兵に遭遇した。
「待っていたぞ、関羽!」
朱然の部隊が、四方から矢の雨を降らせる。
「うぬら、雑魚どもが!」
関羽は、その神業的な武勇で矢を薙ぎ払い、血路を開かんと青龍偃月刀を振るった。その一振りは、なおも呉兵数人をまとめて薙ぎ倒すほどの凄まじい威力を誇っていた。
だが、呉軍は波状攻撃で彼らの体力を奪っていく。壮絶な死闘の末、嫡子・関平は、父を庇って無数の矢を受け、馬上から崩れ落ちた。
「平ぇぇっ!」
関羽の悲痛な叫びが、夜の戦場に木霊する。
その一瞬の隙を、潘璋の部隊は見逃さなかった。彼らが仕掛けた罠の縄が、赤兎馬の脚に絡みつき、さしもの名馬も、たまらずどうと大地に倒れた。
馬から投げ出された関羽に、呉兵が一斉に殺到する。
その中に、潘璋がいた。彼の父は、かつて孫策に従い、江夏の戦いで関羽の刃に倒れていた。彼の眼は、功名心と、そして父の仇を討つという、燃え盛る憎悪に赤く染まっていた。
(呂蒙殿は生け捕りにしろと命じた。だが、この好機を逃せば、二度と父の無念は晴らせぬ!)
呂蒙の命令よりも、個人的な激情が、彼の理性を完全に凌駕した。
「父の仇!思い知れぇっ!」
潘璋は、地に伏した関羽に組み付き、抵抗する武神の首を、渾身の力で掻き切った。
「た、隊長!呂蒙様の御命令は…!」
部下の制止も、もはや彼の耳には届かなかった。
その凶報は、後方の本陣にいた呂蒙の元に、雷鳴となって突き刺さった。
「何だと…?潘璋が、独断で関羽を斬っただと…!馬鹿な…!」
呂蒙は、血相を変えて馬を駆り、現場へと急いだ。
そこで彼が見たのは、地に転がる武神の首と、それを高々と掲げて勝利の鬨を上げる、潘璋をはじめとする自軍の兵士たちの、狂乱の姿であった。彼らの多くが、荊州を巡る長年の戦いで、関羽軍に肉親や友を殺されていた。彼らにとって、この勝利は、呉の勝利である以前に、自分たちの個人的な復讐の成就であった。
「…何ということを…」
呂蒙は、鞍の上で愕然とした。彼の練り上げた完璧な策戦――関羽を人質とし、蜀との外交を有利に進めるという深謀遠慮は、兵士一人一人の、あまりに人間的な「憎しみ」という、計算不能な力の前に、いとも容易く、そして無惨に崩れ去った。
戦場の流れは、決して、一人の天才の筋書き通りには動かない。その冷徹な現実を、彼は、生涯で最も輝かしい勝利を収めたはずのこの瞬間に、最も痛烈に突き付けられた。
傍らにいた陸遜が、静かに進み出た。
「呂蒙殿。今、ここで潘璋らを罰すれば、この勝利に水を差し、兵の士気は根底から崩壊いたします。そして何より、彼らが成したことは、この場にいる多くの兵が、心の底で望んでいたことでございます。…今は、この勝利を、我らの手柄として、陛下にご報告するしか道はありますまい」
その声は、冷徹なまでに現実的であった。
呂蒙は、陸遜の顔を見た。その若き知将の瞳には、この不本意な結末に対する無念さよりも、むしろ「これが戦場の現実だ」と静かに受け入れているような、恐るべき冷静さが宿っていた。
込み上げる灼熱感に、彼の口から、抑えようもなく鮮血が迸った。
「――ごふっ!」
どす黒い血が、鞍の上に点々と飛び散る。目の前がぐらりと揺れ、彼は鞍を掴む手に力が入らず、落馬しそうになるのを必死にこらえた。
それは、単なる疲労ではなかった。自らの策の完璧さを信じていた傲慢が、打ち砕かれた衝撃。そして、人の心を、戦場の激情を、完全に制御することなどできぬという、根源的な無力感。
その「魂の敗北」が、彼の肉体を、内側から確実に蝕み始めた瞬間であった。
この勝利は、呂蒙を呉の最大の功労者へと押し上げた。
だが、彼自身にとっては、生涯で最も大きな、そして誰にも語ることのできぬ「失敗」として、その心に、永遠に消えぬ傷跡を刻み付けた。
この傷が、やがて彼を、全てを自らの管理下に置こうとする、孤独な理想の探求者へと変貌させていくことを、この時の彼はまだ知らなかった。