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第十話:武神の首

第十話:武神の首

漆黒の闇は、呉軍にとって最高の味方であった。

呂蒙率いる偽装船団は、船頭が(かい)を水に入れる音すら立てぬよう、細心の注意を払いながら、音もなく長江を横断した。対岸の荊州の河川監視所からは、夜の川霧の向こうに、時折、商船のものと思われる灯りが見えるだけだった。誰も、その船底に、呉の精鋭が牙を研いで潜んでいることなど、夢にも思わなかった。


船が岸に着くか着かぬかのうちに、呂蒙の部隊は、まるで水辺から現れた亡霊のように、次々と陸へと躍り出た。

「掛かれっ!」

呂蒙の、喉を絞るような、しかし鋼のように鋭い号令一下、呉の兵士たちは一斉に河川監視所へと襲いかかった。

「て、敵襲!呉軍だ!なぜここに!?」

不意を突かれた荊州兵は、武器を取る間もなく、あるいは寝床でうめき声を上げたまま、次々と制圧されていく。呉兵は、悲鳴を上げさせぬよう、一撃で息の根を止めることに徹していた。それは、戦というよりは、無慈悲な暗殺であった。

夜が白み始める頃には、長江沿いに点在する主要な監視所は、ことごとく呉軍の制圧下に置かれていた。


烽火(のろし)が上がることもなく、関羽への急報が届くこともなく、荊州の心臓部への道は、呉軍の前に大きく開かれていた。

呂蒙は、休む間もなく本隊に江陵への進軍を命じた。


その頃、南郡の太守府では、麋芳が眠れぬ夜を過ごしていた。

忠誠か、裏切りか。彼の心は、未だにその狭間で激しく揺れていた。

(このまま関羽様を裏切れば、俺は末代までの不忠者となる。だが、ここで呉の誘いを断れば、いずれ関羽様に粛清されるやもしれぬ…)

彼が苦悩の淵で呻いていると、突如、城門の方角から、微かなか、しかし確かな(とき)の声が聞こえてきた。

麋芳は、血の気が引くのを感じた。

(来た…!来てしまった…!)

判断の時は、否応なく突き付けられた。

まもなく、一人の部下が血相を変えて駆け込んできた。

「た、太守!城外に、呉の大軍が!呂蒙の旗印にございます!」


麋芳の脳裏に、虞翻の言葉が蘇る。『賢明なるご決断を』。

もはや、選択の余地はなかった。関羽への恐怖よりも、眼前に迫る呂蒙の軍勢への恐怖が、そして呉が提示した甘い未来への欲望が、彼の忠誠心を完全に打ち砕いた。

「…も、門を開けよ。呉軍に、降伏する…」

その声は、彼自身にも、まるで他人の声のように聞こえた。

江陵は、こうして、一滴の血も流すことなく呉軍の手に落ちた。公安を守る士仁もまた、江陵陥落の報を聞くと、それに倣って城を明け渡した。

関羽の威光によって、辛うじて保たれていた荊州の支配体制は、内部から、音もなく崩壊したのである。


一方、樊城で魏軍と対峙していた関羽は、この凶報に接した時、最初、伝令の言葉を信じようとしなかった。

「馬鹿なことを申すな!」

彼は、その美髯(びぜん)を震わせ、伝令を一喝した。

「呂蒙は重病のはず!陸遜の若造に、これほどの策が練れるものか!さては、魏の流した偽報であろう!その首を()ねられたいか!」

だが、その叱責も、次々と舞い込む敗報と、動揺を隠せない部下たちの姿に、次第に力を失っていった。

江陵陥落。公安陥落。そして、最も彼を打ちのめしたのは、麋芳と士仁の裏切りであった。

「あの者どもが…この関雲長を裏切ったと申すか…!」

本拠地を失い、後方を完全に断たれた。それは、武神と呼ばれた男が、その長い戦歴の中で、初めて経験する完全な敗北であった。

彼の軍勢の中にいた荊州出身の兵士たちは、故郷が敵の手に落ち、家族が人質に取られたことを知り、その士気は急速に、そして致命的に低下していった。


「おのれ呂蒙!この関雲長を、まんまと(はか)ったか!」

関羽の怒りの咆哮が、樊城の陣中に響き渡った。その声は、怒りというよりも、むしろ絶望の叫びに近かった。

彼は、直ちに樊城の包囲を解き、江陵奪還のため、軍を南へと転進させた。

だが、その時すでに、彼の足元は完全に崩れ落ちていた。

百戦錬磨の武神は、今や、帰る場所も、信じるべき部下も失った、ただの孤将となっていた。

そしてその背後には、呂蒙が張り巡らせた、恐るべき包囲網が、静かにその口を閉じようとしていた。

武神の誤算。それは、あまりにも大きく、そして取り返しのつかないものであった。

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