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第一話:若き猛虎

第一話:若き猛虎


揚州、廬江(ろこう)の風は、土と鉄の匂いがした。この乱世にあって、それはすなわち、血の匂いでもあった。

呂蒙(りょもう)(あざな)子明(しめい)。年は十代も後半に差し掛かったばかりだが、その名は既に、良くも悪くも単純明快な武勇伝と共に、陣中に知れ渡っていた。

「子明の腕っぷしは、並の兵十人にも勝る」「子明の駆けるところ、敵の首は草を刈るが如く落ちる」

賛辞は、常に彼の個人的な武勇にのみ向けられていた。その裏で、歴戦の将たちが「されど、あの若者は…」と眉をひそめていることを、呂蒙自身はまだ知らなかった。

彼は、姉婿である鄧当(とうとう)の部隊に身を寄せていた。鄧当は温厚な男で、この血気盛んな義弟を実の弟のように可愛がり、その武勇を誇りにさえ思っていた。だが、部隊を預かる将としては、彼の存在は悩みの種でもあった。

その日も、呂蒙は山越(さんえつ)の蛮族相手に、猛虎の如く戦場を駆けていた。

「子明!突出するな!陣形を乱すでない!」

後方から響く鄧当の怒声も、彼の耳には届かぬ。呂蒙の眼に映るのは、ただ眼前の敵のみ。隊列など、臆病者のための(かせ)に過ぎぬ。敵あらば、一番に駆け出し、一番槍の功を立てる。それが彼の戦であり、彼の存在意義の全てであった。

返り血を浴びた槍を片手に、呂蒙は肩で息をしながら鄧当の前に立った。

「姉婿殿、敵は掃討いたしました。何か、手ぬるいことでも?」

「手ぬるいこと、だと?」鄧当は、怒りを通り越して、深い溜息をついた。「子明、お前の武勇がなければ、今日の勝利はなかったやもしれぬ。だがな、お前が突出したことで、側面から回り込もうとした敵の一隊に、危うく我らの背後を突かれるところであったのだぞ。お前が敵の首を三つ獲る間に、お前を庇おうとした兵が二人、命を落とした。将たる者、兵の命と戦の全体を見ずして、何とする!」

鄧当の言葉に、呂蒙は初めて眉を寄せた。「死んだ兵は、己の腕が未熟だったまでのこと。戦場で死ぬのは、武人の誉れではありませぬか」

そのあまりに純粋で、あまりに酷薄な答えに、鄧当は言葉を失った。


そんな折、江東の地に、新しい時代の風が吹き荒れた。小覇王・孫策(そんさく)。父・孫堅(そんけん)の遺志を継ぎ、その武威と覇気をもって、破竹の勢いで江東を席巻する若き獅子。鄧当もまた、この抗いがたい時代の潮流に乗り、孫策の麾下(きか)に加わることを決意した。

神亭(しんてい)の戦い。敵将・太史慈(たいしじ)との壮絶な一騎打ちで、孫策が見せた武は、呂蒙の度肝を抜いた。それは、呂蒙が知る武とは全く質の異なるものであった。

戦後の論功行賞の席で、呂蒙は初めて孫策と直接言葉を交わす機会を得た。

「そなたが、鄧当の義弟か。面白い若者がいると聞いておった」孫策は、呂蒙の肩を強く叩いた。「その腕、我が江東平定の礎となるであろう。存分に働け」

「はっ!」自分より強い男に認められた高揚感に、呂蒙の胸は熱くなった。

だが、孫策は言葉を続けた。「だが、覚えておけ、子明。ただ牙を(たの)むだけの猪は、いずれ老練な猟師の罠にかかって死ぬ。真の強さとは、牙を振るうべき時と、その牙を隠すべき時を知る、知恵のことだ」


数ヶ月後。会稽(かいけい)の厳白虎討伐戦で、呂蒙は「敗北」の味を知った。功を焦るあまり、彼は戦術的な配慮を欠いた無謀な突撃を敢行した。それが、鄧当の部隊を敵の伏兵の中に孤立させ、多くの兵を死地に追いやった。

戦局そのものは、孫策の腹心である周瑜(しゅうゆ)の、神がかり的な指揮によって覆されたが、呂蒙の胸には、自らの未熟さを突き付けられた、苦い思いだけが残った。

夜、陣営の片隅で、呂蒙は一人、血のついた槍を握りしめていた。「なぜだ…なぜ俺は勝てなかった…」脳裏に、孫策の「猪は、いずれ罠にかかる」という言葉が、重い鎖のように彼の心を縛っていた。彼は、生まれて初めて、己の力の限界を感じ、独学で兵法書を読み始めた。だが、書かれた文字はただの記号の羅列にしか見えず、その意味を解き明かすことはできなかった。武勇と知略の狭間で、彼は答えを見つけられずに苦悶した。


そして、歴史は、非情な音を立てて動く。江東の太陽、孫策が凶刃に倒れた。弱冠二十六歳。兄の跡を継いだのは、まだ齢十八の孫権(そんけん)

呂蒙は、悲嘆にくれる若き主君の姿を前に、ただ拳を握りしめた。「若君を、お支えする。この呂子明、この命に代えても」

それは、未だ「武」の価値観の中に生きる、若き日の呂蒙の、素朴で、しかし真摯な誓いであった。だが、この時の彼はまだ知らない。己が真に仕えるべきは、この若き主君の内に秘められた、亡き兄とは全く質の異なる「強さ」であることを。そして、その強さに導かれ、己自身が、やがて天下を刮目させるほどの器へと変貌を遂げる運命にあることを。

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