9話 逃走
村から離れた森の中。
夜の闇に包まれた薄暗い空間へ、
身体への負担が凄い超速移動での移動を完了したお姉さんは、
ようやく一息を吐いて立ち止まった。
逃がしてくれたことには感謝はする。
が、移動酔いしたのか気分悪くなったことについて、
俺は恨んでもいいのだろうか。
青い顔をしながら木にもたれかかり、
森の新鮮な空気を吸い込んだ。
「ここまで来れば大丈夫ね。
では改めて。私はノット。
家名はないわ、ただのノットよ。
よろしくね、ヴァク君」
「……はい。よろしく、です」
ノット……【夜】か。
たしか夜や黒と言った悪魔を連想する言葉は不吉だから、
一生を共にする名前として使うには好まれないと聞くが。
まあ、それこそ人それぞれか。
俺だってヴァクという名前の意味は知らないし、
自分の名前の意味を知らない奴が、口を出す権利はない。
なんとか思考が出来るようになったことを確認し、
俺はぶんぶんと頭を振って、寝起きから停止していた思考を再開する。
「まず、ありがとうございます。助かりました」
「へえ。親の仇を討たせてくれ、じゃないのね。珍しい。
故郷を焼かれた子供は何度も見てきたけど、
アナタみたいな子は見たことがないわ」
「一人だったらそうしてましたけど、
いまは勇者様がいますし……それに、
アイツの心は俺が生きてるだけで穏やかではないでしょう?」
あの時は憤怒に呑まれながらも、嫌に冷静な自分がいた。
まるで精神と肉体が乖離しているような感覚がした。
フーリとユミルの死体を見ても、無感情になっている自分がいた。
推測するに、これは転生の後遺症だろう。
この世界で育ったヴァク・ガグンラーズの肉体には、
若くして衰弱死した日本人『 』の精神が混在している。
『 』は恐らく、この世界を達観して見ているのだろう。
だから自分を育てた存在でさえも、
ヴァクの親であって『 』の親ではない。
悲しくはあっても怒りはしない。
何故なら、俺にはその権利はないから。
その感情は、いまの俺にもわかる。
例えるならアニメや漫画を見ている感じだ。
自分の手出しが出来ない範囲を、
自分ではない自分が動いて、
失敗したり成功してるのを見ている。
人はこれを第四の壁と呼ぶが、
『 』は正にその壁に疎外感を覚えている。
だから感動もしなければ寂しさも感じない。
その無感情や思考が、
ヴァクの感情へ大きな揺さぶりをかけている。
それが『 』が出来る唯一の、
この世界への干渉方法なのだから。
「それにあの男は、俺を狙ってましたからね。
俺が生きているだけで虫唾が走るでしょう?」
「本当に聡明な子ね。ちょっと心配になるくらいに」
にこにこ笑顔で俺の頭を撫でるノット。
これはアレか。子供扱いってやつか。
最近スパルタ教育ばかりだったせいか、
久しぶりにされた気がする。
なんだかちょっと懐かしい。
「あ。それより、勇者様は一人で大丈夫でしょうか。
一兵卒とはいえ父を……衛兵を殺した強者です。
もしかしたら他の衛兵さんたちも……」
「……そうね。
でもそれは、アナタが気にすることじゃないわ。
……考えなくていいわ、本当に……」
何か声に出来ない言葉に詰まったのか言い淀む。
……ああ。死んだのか。
恐らく生存者の捜索中に。
きっと色んなモノを見たのだろう。
昔、一緒に遊んだガキ共は無事か?
親切な肉屋のおっちゃんは?
姦しい八百屋のおばちゃんは無事か?
そんなことを今後一切、
考えることが出来なくなるくらいの鏖殺だったのだろう。
なるほど、全滅か。
胸にぽっかり穴が空いた感覚がする。
今まで関わってきた物が無くなる感覚は初めてだ。
これを喪失感と言うのなのだろう。
泣くには足りないが、
一抹の寂しさがあるな。
「そうですか……それは、ちょっとキツいですね」
「大丈夫? アナタは子供なのよ。無理しないでいいの。泣きたかったら泣いていのよ」
「いえ、大丈夫です。今はそれよりも、あの仮面の男ですから」
アイツの目的がわからない以上、
またこの鏖殺は繰り返される危険がある。
そうでなくとも俺は目をつけられている。
命の危険が伴っているのなら、今泣いている暇はない。
「さあ休憩は終わり。ここから逃げないと。
でないとまた、あの黒仮面に狙われるわよ」
「ええ。はい。……あの仮面の男は、きっと一筋縄にはいかないでしょうしね……」
ノットは俺を抱えて再び走り出す。
米俵のように抱えられた俺の瞳には、
いつまでも村から昇る煙が映っていた。