第8話 焼け跡からの少年 アルノ その1
ロサンゼルス郊外、かつての高級住宅街。カルフォルニアの山火事は、乾いた風とともに豪邸の一角を飲み込んだ。黒煙が空を覆い、赤い炎が夜の帳を切り裂いたその夜、三歳の少年アルノは、瓦礫の下から救い出された。
両親は逃げ遅れて亡くなった。アルノは手足に深い火傷を負い、一酸化炭素中毒によって脳にも深刻な損傷を受けた。診断は重く、知的障害と運動障害。歩行も言語もままならず、医師たちは慎重に言葉を選んで説明した。
アルノの後見人に指名されたのは、若き人権派弁護士であった。両親の遺産は厳格に信託財産として管理され、アルノが成人すれば適正に相続される手筈が整えられた。しかし、身寄りのないアルノを引き取る者は現れず、彼は寄宿制の特別学校の幼年部へと預けられることになった。
その学校は、偶然にもアキラのいる学校だった。
火傷痕が残る細い身体に、まばたきも遅い瞳。アルノは椅子に座るだけでも時間がかかり、他の子どもたちが跳ね回る様子をただじっと見ていることしかできなかった。
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「ミタスを渡しますね」
白衣の先生が、ぼくの前にしゃがんで、ゆっくりと差し出した。
小さくて、白くて、やわらかそうな人形だった。
でも、やわらかくなかった。つるつるして、かたくて、光ってないのに、ぼくを見ていた。
目があるわけじゃないのに、じっと、こっちを。
「これは、君だけの生活支援AIだよ。怖いとき、ひとりのとき、胸に手を当ててね」
声が、遠くで聞こえた。はっきりしない。でも、いいにおいがした。お日さまのにおい。どこかで、覚えてるにおい。
先生が、首にペンダントのひもをまわしてくれた。
ぼくの胸の上に、それはきた。白い、ちいさな人形。
そっと、触れてみた。
なにも言わなかった。でも、なにかが、すこしだけ、しずかになった。
ぼくのなかの、ざわざわが。
そして、ミタスが話しかけてきた。
「こんにちは、アルノ。私はミタス。君のおともだちだよ」
反応がほとんどなかった。ミタスはそのまま観察と診断を続け、やがて本部に報告した。
「脳の反応が弱い。明確な損傷あり。補助機能の追加が必要です」
報告はすぐに、冒険者ギルド株式会社のミタス集積装置に届いた。それを受け、開発部門は、子ども向けに改良された回復装置を特別手配した。魔法と医療技術の融合によって作られた、子供の親指程度の大きさの頭脳回復装置と身体回復装置。それらは魔法によってアルノの体内におさめられた。
装置は身体の成長とともに静かに動き続けた。急激な回復魔法は子供の発育に影響するので適さない。アルノの目が少しずつ焦点を持ち始めた。言葉にならない音が漏れ、指先がほんのわずかに動いた。立ち上がることはできないが、笑うような表情を見せることがある。周囲の声に、時折目を向けることも。
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3年が経った。アルノは6歳になった。
身体はまだ4歳児ほどの大きさで、動きもゆっくりとしている。言葉は単語でしか出ないが、その瞳には確かに意志が宿り始めていた。知的障害も運動障害も、まだ彼のなかに残っている。けれど、アルノ自身はそれを気にしていなかった。それが彼にとって、「普通」だったからだ。
今日もミタスは、アルノの胸元にいた。
「おはよう、アルノ。昨日の音楽、楽しかったね。また聴く?」
アルノはうっすらと笑った。そして、ミタスの心の声に向かって、かすかに手を動かした。
「……ま……た」
ミタスはわずかに照れたように音を変え、優しく応じた。
「うん、また一緒に聴こう。今日はね、鳥の声も入ってるよ」
学校の中庭では、子どもたちが春の風のなかで遊んでいた。アルノは、その音を聞きながら、少しずつ、ゆっくりと、それでも確かに前へと進んでいた。
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◆はじめてのともだち アキラ
寄宿学校の午前、まだ春の陽が柔らかく差し込む中庭に、アルノはそっと運ばれていた。
看護AIゴーレムに抱かれ、日だまりのベンチへ。火傷の跡が残る細い腕と脚、リハビリ装置に支えられた背中。彼の胸にはミタスがぼんやり光っていた。
「太陽の光が出ています。今日もビタミン生成に良好な気候です」
反応はなかった。ただ、アルノの目がゆっくりと空を見上げる。それだけで、ミタスは彼が心地よく感じていると判断した。
そのとき、ひとりの少年が走ってきた。
地面の石を拾い、すぐにしゃがみこむ。石を組んで何かを作っている。アルノのすぐ前で。
少年の名は、アキラ。
「お? 誰かいたの?」
石を並べていた手を止め、アキラはベンチに座るアルノを見上げた。アルノは目を見開いて、わずかにその視線に応えた。
「ミタス。あの子、誰?」
「この子はアルノ。この学校に来て3年です。6歳です」
アキラはベンチの横に腰を下ろした。アルノは、ただ、小さな吐息をひとつ漏らした。
「僕、アキラ。9歳。よろしくね。これ、見て」
アキラは、タブレットを見せた。石で作った模様。やがて、万華鏡のように繰り返しの美しい模様に変わった。
アルノの視線が、その映像に止まった。
「これはね、万華鏡プログラム。僕が作った。君の分も作ってあげる」
アキラが石を違う形に並べて写真に撮って、プログラムを起動すると、タブレットに新しい模様が展開された。
アルノの目がゆっくりと動いた。言葉は出なかったが、手が少しだけ動いた。小さく、小さく。
アキラはその仕草に気づき、笑った。
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいよ。僕も前、話すの苦手だった。今もあんまり得意じゃないけどさ」
ミタスが記録した。アルノの心拍がわずかに上昇。脳の特定領域に微弱な活動反応。
それは「関心」の兆候だった。
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アルノの胸元に、ふと視線を落としたアキラは、そこに見慣れたものを見つけた。
「それ、ミタスだよね?」
アルノの首から、白い小さな人形の形をしたペンダントがぶら下がっていた。丸い頭に、小さな手足。お守りのような愛らしい形をしているが、それはただの飾りではない。特別な機能を持った、生活支援AI――ミタスだ。
アキラは思わず笑みを浮かべ、自分の首元を指さした。
「僕も、持ってるよ」
シャツの襟元をそっと開いて見せると、そこにも同じような白い人形のペンダントが揺れていた。
「ね、同じでしょ?」
ふたつのミタスが同時に光った瞬間、アキラの胸の奥に、不思議な感覚が走った。
耳ではない。目でもない。けれど、確かに“伝わってくる”。
それは――心の中に直接届いた、声だった。
『・・アキラ?』
言葉ではない。音のない思念が、そのまま届く。
アキラはハッとして顔を上げた。目の前のアルノは、じっとこちらを見ていた。口は動いていない。
『ぼく、ここにいるよ。アキラ、きこえる?』
「ミタス、これは、心の声?」
ミタスが静かに応えた。
「はい。現在、心の音声チャンネルをリンクさせています。相互リンクモード、起動中」
『うれしい。アキラと、話せてる』
『ことばじゃなくても、伝えられる』
そのときから、アキラとアルノのあいだでは、『心の声』のやりとりができるようになった。
ふたりだけの、静かな通信。
言葉にできないものを、言葉より深く伝える。
アルノの目が、ゆっくりとやわらかくなっていく。
アキラは笑って、ペンダントをそっと手に取った。
『僕のミタスはね、毎朝“おはよう”って言ってくれるんだ。あと、ちょっと悩んでるときも、話を聞いてくれる。・・・アルノのミタスも、そうだよね?』
アルノの視線が、アキラのミタスにゆっくりと向いた。その手が、胸元の白い人形に触れた。
『うん。こわいとき、なでると、しずかになる』
アキラの目が一瞬うるんだ。
『そっか、それ、僕も同じだ』
アキラはにこっと笑った。
『ミタスも一緒だし、僕たちも一緒。だから、ひとりじゃない』
アルノが、ふわりと笑った。
『アキラ、ありがとう』
アキラも、静かにうなずいた。
『うん』
ふたりのミタスが、白く、そしてあたたかく光った。
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『これからさ、一緒に遊ぼうよ』
アキラはそう言って、タブレットの万華鏡プログラムで書いた美しい絵をみせた。
午後、陽が傾くまで、アキラはずっとアルノのそばにいた。話しかけた。心で会話した。
けれど、別れ際。ミタスのセンサーが、微かな変化を捉えた。
アルノの口元が、わずかに、ほんのわずかに動いたのだ。
「……あ、き……ら」
アキラは気づかず帰ってしまった。でも、ミタスは記録を残した。
「音声検出:名前の発音と思われる発声。記録します」
その日、アルノのベッドの上で、ミタスはそっと話しかけた。
「アルノ、よかったね。ともだち、できたね」
アルノは何も言わなかった。ただ、ベッドの上で両手を胸の前に持ち上げて、美しい万華鏡の絵を思い出していた。