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第4話 自閉スペクトラム症の少年が輝くとき その2

◆はじめて、肩をたたかれた日


昼の光は、うるさい。

食器のぶつかる音と、笑う声と、椅子を引く音がまざっている。

ぼくは、教室のすみの、棚のとなりにいた。

音がくる方向じゃなくて、音のこない場所を、いつも選ぶ。


今日の本は、『代数的位相空間入門』。

本の中は静かだ。数字と、線と、記号と、なにも乱さない世界。


ページをめくると、風が起きる。

その風が好き。だから、本が好き。


肩を、叩かれた。


その瞬間、空気が、変わった。

耳の奥がカァンと鳴って、目の前が真っ白になる。

体がかすかに傾いて、バランスが崩れる。

不快だった。

とても、不快だった。


ぼくは反射的に、声を上げた。

叫ぶというより、音がもれた。

手で空を払うようにして、相手を追い払おうとした。


不快なことは、きらい。

嫌いなことをするものは、きらい。


でも、その人、年上のお兄さんは、怒らなかった。

笑っていた。でも、なんだか困ったような笑顔だった。

そして、それから、二度とぼくの肩を叩かなかった。


それが、ふしぎだった。

だって、みんなは何度でも同じことをしてくるのに。

この人は、違った。


忘れることは、できなかった。

でも、叩かなかったから、許すことにした。


その夜、ぼくが心の中でそう思ったら、

胸元の《ミタス》が、小さく光った。


「それは、とても立派なことです。あなたは、やさしいですね」


やさしい?


それがどういうことか、よく分からなかったけど、

ミタスの声が、うれしそうだった。


それが、うれしかった。


その夜は、耳の中の音が静かだった。

だから、よく眠れた。


・・・・・

◆黒い線のノート


その日も、ぼくは、すみの机で本を見ていた。

白いページの上に、黒い数字がたくさん並んでいた。

その並びには意味があって、順番があって、うつくしかった。


ページの端に、同じ文字が何度も出てくると、ぼくはそれを指でなぞる。

目で追いながら、頭の中でくり返す。

意味はよく分からなくても、音のないリズムで感じられる。


そうしていたら、あの人、肩を叩いたお兄さんがまた来た。


今度は、叩かれなかった。

ぼくは、そっと指を止めた。

お兄さんは、音を立てずに、机の上にノートを置いた。


ノートの紙は、やわらかい。

黒い鉛筆の線が、くっきり書いてあった。

見たことのある数式だった。

似ているけど、ちょっとちがう。でも読める。


お兄さんは、なにも言わなかった。

ただ、ノートを置いて、行ってしまった。


ぼくは、ノートの文字をじっと見た。

長く考えたわけじゃない。

数を見ていたら、すぐに分かった。


でも、途中の書き方が、気に入らなかった。

数字の順番が、おかしい。考え方がちがう。

だから、×をつけた。


「ちがうよ」って、言うかわりに。


でも、答えは解ってしまった。

だから、そのあとに、ちいさく正しい数字だけを書いた。

だれにも見えないくらい、静かに、次のページのはしっこに。


ページを閉じた。

ノートはそのままにした。

渡したわけじゃない。返したわけでもない。

ただ、そこに置いておいた。


その夜、ミタスが言った。


「今日、あなたが書いたこと、私は見ました」

「うん」

「とても、整っていました。あなたは、答えよりも“考え方”が大事なんですね」


ぼくは、うなずいた。

でも、声にはならなかった。


ミタスの声は、続いた。


「その人は、また来ますか?」

「・・わからない」

「でも、今日は“叩かれなかった”。だから、もう少し、見ていてもいいですね」


ぼくは、ほんのすこしだけ、うれしかった。


・・・・・・・・・・・・

◆あまいものの味


ノートが、机の上に戻ってきた。


昨日と同じ表紙。黒い鉛筆の跡。

ぼくは、すぐに気づいた。ページが、少しだけふくらんでいた。

ひらいてみた。


あの数式のページ。

ぼくが×をつけたところは、そのままだった。

でも、その下に、赤い線で丸がついていた。


その丸は、ぼくが書いた小さな数字にだけついていた。

まるで、「見たよ」と言っているみたいに。


誰もなにも言わなかった。

でも、昼休み、あのお兄さんが来た。

ノートは持っていなかった。

代わりに、白い箱を持っていた。


「これ、あげる」


そう言って、ぼくの机の上にそっと置いた。


ふたをあけると、中にはケーキがあった。

四角いスポンジに、クリームがのっていて、

赤いイチゴがまんなかにぽんと座っていた。


ぼくは、そのケーキを見た。

しばらく、何も考えられなかった。


食べてもいい、ということなのだろうか。

でも、それは、なんだかとても大事なものに見えた。


ぼくは、フォークをもらって、ゆっくりと一口だけ、食べた。


甘い。やわらかい。

口のなかで、ふわっとほどける。

頭の中で、いつものノイズがすこし消えた。


ケーキの中には音がなかった。

音がないものは、好きだ。

それに、これには“意味”があった気がする。


たぶん、これは、「お礼」っていうものだ。

ぼくが、数字でしか言えなかったことに、

お兄さんは、ケーキで答えたんだと思う。


食べながら、ぼくはチラッと一瞬、彼を見た。

お兄さんは、ちょっと困ったような顔で、でも、やさしく笑っていた。


ぼくは、無表情のまま、食べ続けた。


ぼくは、何も言わなかった。

でも、うなずいた。


ミタスは、それだけで、満足そうだった。


ケーキを食べ終えたあと、ぼくはノートのはじっこに、

小さな「○」を書いた。

それが、ぼくの「ありがとう」だった。


・・・・・・・・・・・・

◆むずかしい式と、やさしいもの


今日のノートは、いつもより重かった。

ページを開くと、黒い数字がびっしり並んでいた。

前よりも、ずっと長い。

記号が、いつもと違って、知らない形も混じっていた。


でも、こわくはなかった。

むずかしいものは、嫌いじゃない。

むずかしいものは、音が出ないから。

それに、全部、ちゃんと並んでいる。


そういうのは、落ち着く。


ぼくは、しばらく見つめた。

じっと見て、目を閉じて、頭の中で数字を並べなおす。

ルールを見つける。計算の道を、ひとつずつたどっていく。


書かない。

紙を汚したくないから。

でも、最後だけ、小さく答えを書く。


ページの下の、白いところに、ちいさく、数字をのせる。

すこし、文字を崩してみた。

でも、やっぱり、いつものとおり、まっすぐに書いてしまった。


終わったら、本を読む。

いつもどおり。


次の日。


お兄さんが、来た。

手に白い袋を持っていた。

ちょっと、にこにこしていた。

少しだけ、顔が赤かった。


机の上に、袋を置いた。


「これ、おまえのぶんだ」


ぼくは、見た。

袋の中には、ケーキが入っていた。


昨日のより、大きかった。

クリームが二段で、果物がのっていた。

ふたつに切れそうなくらいのイチゴが、まんなかに置いてあった。


「・・たべていい?」


そう言葉にはしなかったけど、顔を見た。


お兄さんは、すこし笑って、うなずいた。

それで、ぼくはわかった。


だから、たべた。


甘かった。

ふわふわしていて、口の中が静かになった。


口の中が静かになると、頭も静かになる。

頭が静かになると、心も少しだけ、うれしくなる。


「おいしい?」


お兄さんがそう聞いた。

ぼくは、返事をしなかった。

でも、フォークをおいたあと、もう一口たべた。


それが、ぼくの返事だった。

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