9.悩める商会長(オレール視点)
亡命した王女を雇うだなんて、あり得ない話だろう。その上、皇太子殿下の運命の番だなんて、あり得なさすぎる話だ。きっとこれは、夢――。
「夢じゃないじゃない」
ソファーから落ちて目を覚ました。気分はあまりよろしくない。
衝撃的な事実を知ってから、恐らく一晩経った。
ルネがいつでも相談に来ることができるように、自分の頭を冷やすために、今日は商会の三階に寝泊まりをしていた。
窓の外から見える空は、日が昇っているように見えた。
「……急がないとディオンが来るわ」
起き上がると、身だしなみを整え始めた。
皇太子殿下にまた明日来ると言われたからには、断ることはできない。相手が皇太子だということもあるが、それ以上に彼は長年共にした友人のようなお客様だ。本来であれば、彼に運命の番が見つかったのなら心から祝福したいところなのだ。
「どうしてルネなのよ……」
よりにもよってという言葉を、これ以上使いたいと思ったことはない。
ルネは西の大陸から来たこともあって、重みや意味を理解しきれていないところがある。最初の方こそ断っていたのだが、あれは動揺していた可能性がでてきた。
(ルネは昨日、動揺されたのはあたしも一緒だって言ってたのよね……あの子、顔には全然でてなかったけど、きっとかなり動揺していたに違いないわ)
ディオンの言う通り、一度整理する時間が必要であったため、当事者での話し合いは翌日に繰り越した。今日もまた、ルネはディオンと対峙することになる。
(急な話だから、一人で考える時間が必要だと思ったけど……相談には来なかったわね)
ルネが考え出した答えなら尊重するべきだし、否定する気もない。ただ、ディオン達は納得できないはずだ。
運命の番。番側は、誰もがなりたいと願い望むもの。それが当たり前だとされているこの国で、正直ルネの出す答えは異質で、求められている答えは決められている。
「あぁ、本当に……」
あたしがルネの穏やかな恋を純粋に応援できないのは、ディオンという人間の笑顔を見てしまったことが原因の一つでもある。
不愛想を通り越して無表情すぎる皇太子は、肩書が良すぎるがゆえに、表情管理をしなくても男女種族関係なしに人が寄って来る。立場上、常に笑顔を貼り付けていろという方が、彼にとって拷問以上らしい。感情を失ったと言っても過言ではない、あの男が、昨日は別人のように振る舞っていたのだ。
「運命の番の力……えげつないわ」
本能で求める相手には、そりゃ優しくするだろう。だからこそルネには常に笑みを浮かべていた。そんな人ではないのに。
「……………………吐きそう」
これはルネとディオンの問題。あたしは部外者だ。
そう割り切れたらどんなに良かっただろうか。双方の事情や思いを知っているからこそ、昨日はどっちつかずな――いや、正直ディオンの肩を持つようなことをしてしまった。
(あまりにもディオンが不憫に思えてしまったのよね……)
当事者であるディオンは気が付いていないと思うが、運命の番を差し引いても、ルネの中でディオンという存在はお掃除に負けていた。
(帝国の皇太子殿下が掃除ほうきに負けるとはね…………今日もそんな予感がするわ)
今日は中立であるとルネに約束したものの、それができる自信はあまりない。
(ううん、駄目よ。今日こそは何もしちゃ……むしろ、昨日ディオン側に付いた分、今日はルネにつくくらいの気持ちでいないと)
頭をぐるぐるとさせながら支度を整えたところで、下の階から声が聞こえた。いつの間にか従業員の出勤時間になっており、自分が長い間考え込んでいたことに気が付く。
(聞こえる声の数からして、今は始業前の掃除の時間ね)
ちょうどディオンがやって来たのはこれくらいだったかと考えていれば、扉がノックされた。向こう側に誰がいるか察したあたしは、大きく深呼吸をしてから返事をした。
「オレール。今日も失礼する」
「……いらっしゃい」
(……やっぱり昨日のディオンって別人じゃない⁉)
恐ろしいほどの無表情は、昨日との落差でこっちが風邪をひいてしまいそうだ。
昨日に引き続き、同じ付き人が連れ添っていた。
「座ってちょうだい」
「ルネはどこだ?」
「あの子ならいないわ。まだ出勤時間じゃないもの。……そうね、もう少ししたら来ると思うわ」
「そうか」
(……まぁ嬉しそうに笑っちゃって。あんた掃除用具に負けてるのよ? 自覚ないでしょうけど)
運命の番が現れたら結ばれるのが当たり前と思っている者からすれば、そもそも自分以外の他のものに負けるなど考えたこともないだろう。
ディオンと向かい合って座ったところで、再び二人のことを考え始めてしまった。これではいけないと思い、依頼されていた礼装の話を切り出した。本来であれば、昨日渡すはずだったものが、想定外の出来事で叶わなかったのだ。
「相変わらず素晴らしいできだな。……いつもより刺繍が綺麗だ」
「それはルネが――」
「そうか、ルネが」
流れるように説明してしまい、名前を出した瞬間にはもう遅かった。
明らかに喜びの空気を放ち始めたディオンと付き人を、複雑な目で見つめた。
(それ、仕事で作ったものよ。ルネからの贈り物じゃないのよ!)
勘違いしないでほしいと思う反面、喜んでいる友人達に水を差すことはできなかった。
(それにしても……ルネ、遅いわね。出勤時間はとうに過ぎてるのだけど……)
もしかしたら、まだ整理がつかず考える時間が足りないのかもしれない。そうあってもおかしくない状況なのだ。ルネのことを心配していると、再びノックが響いた。ルネかと思ったが残念ながら違った。一階で仕事をこなす受付兼事務の子が、お茶を持ってきてくれた。
ありがたくもらいながら、それとなく話を聞くことにした。
「ルネはもう来てるかしら」
「ルネですか?」
キョトンとする受付の子の表情を見るに、出勤できずに寮で思い悩んでいる可能性が脳裏をよぎった。
「ルネでしたら、本日お休みのはずですよ。今朝がた、ジネットと仲良さげに出かけるのを見ましたので」
「……………………なんですって?」
彼女の言葉を理解するまでに、かなりの時間がかかった。
そして、ようやくわかったのは、ルネは今日ここに来ないということ。
つまり、話し合いをすっぽかしたということだった。