1.5 透明人間
目を覚ますと、知らない天井が見えた。
(……ああ、そうか。)
昨夜、由宇に連れられてこの事務所に来たことを思い出す。少し固めのソファに横になっていたせいか、背中が少し痛む。斗愛は軽く伸びをしながら、ゆっくりと身を起こした。
辺りを見渡すと、デスクの上に一枚の紙が置かれている。
「鍵はポストに入れて、ダイヤル回しておいてね。
冷蔵庫にあるお弁当、貰い物だから食べていいよ。
——由宇」
さらさらとした文字を見つめ、斗愛はふっと息を吐いた。
(……本当に面倒見がいい人だよな。)
誰にでも優しいのか、それとも自分が特別扱いされているのか——
そんなことを考えても答えは出なかった。
とりあえず、冷蔵庫を開けてみる。
中には、ラップのかかった弁当がひとつ。
(……貰い物、か。)
由宇が誰かからもらったものなのか、それとも店の残りなのかは分からない。けれど、何も食べられない状況だった自分にとって、それは十分すぎるほどありがたかった。
弁当を取り出し、事務所の隅に置かれたレンジの前へと向かう。使い方を考えつつ、扉を開けて弁当を入れる。しばらくじっと見つめていると、温め終わったことを知らせる電子音が鳴る。
取り出した弁当は、蓋を開けるとほのかに湯気を立て、ふわりと温かい匂いが広がる。
(冷たいままより、ずっと美味しそうだ。)
箸を取って、ご飯を口に運ぶ。温かい食事が胃にしみるように広がり、じんわりと身体の力が抜ける。
(……ずっとこうしているわけにはいかないよな。)
昨日は流されるままだったが、さすがに甘え続けるのは違う。このままでは、いつまでも誰かに頼り続けるだけになってしまう。
(……仕事、探さなきゃ。)
箸を動かしながら、斗愛は静かに心を決めた。
まずは公園の近くで見かけた求人の掲示板を確認しに行こう。そう決め、斗愛は手短に身支度を整えた。
ポストに鍵を入れ、ダイヤルを回す。事務所を出た瞬間、夏の朝特有の熱気が肌を包んだ。
公園の一角にある掲示板には、さまざまな求人情報が貼り出されていた。
「未経験歓迎!ホールスタッフ募集!」
「日払いOK!力仕事できる方!」
「短期バイト可!寮付きの仕事あり!」
どれも悪くない。
日払いの仕事があれば、今日からでも働いてすぐにお金を手に入れられるかもしれない。
(これなら……)
斗愛は一枚の求人を剥がし、書かれた住所へ案内所でもらった地図を頼りに向かった。
訪れたのは、個人経営の小さな居酒屋だった。
まだ昼前だからか、店内は静かで、掃除をしている店員がちらほら見える。
「すみません、求人を見て来たんですが。」
カウンターの奥にいた店主らしき男性が顔を上げた。
「お、見てくれたんだね。今ちょうど他にも面接があるから一緒にやろうか。経験は?」
「ありがとうございます。飲食店では働いたことないですが、体力はあります。」
「なら大丈夫だ。うちは元気に動いてくれれば助かるからな。」
斗愛はほっと息をついた。
(意外とすぐに決まりそうかも……。)
——そう思ったのも束の間、店主があることを確認すると言ってきた。
「じゃあ、身分証明書を見せてもらえる?」
斗愛の手が止まる。
(……しまった。)
ポケットを探るが、もちろんそんなものはない。
「すみません……。今、身分証を持っていなくて。」
「ん? 免許証とか保険証も?」
「はい……。」
「……じゃあ、住民票は?」
斗愛は息を呑んだ。
(住民票……。)
島で暮らしていたころ、そんなものを意識したことはなかった。住んでいるのが当たり前で、それを証明する必要なんてなかったからだ。
「……住民票、どこ行けば取れますか?」
「ああ、それなら役所で発行してくれるよ。身分証がないなら、まずは住民票を取ってからかな。」
斗愛は深く頭を下げ、店を後にした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(まずは住民票?を取らなきゃ……。)
そう思い、役所へ向かう。都会のビル群に囲まれた役所の建物は、どこかよそよそしく見えた。
中に入り、案内板を頼りに窓口へ向かう。
「すみません、住民票を取りたいんですが。」
窓口の女性職員が微笑みながら答える。
「はい、ではご住所をお願いします。」
「乏薬島秋篠村2です。」
その瞬間、女性の手がぴたりと止まった。
「……えっと、もう一度お願いします。」
「乏薬島秋篠村2です。」
女性は戸惑ったように端末を操作するが、何度調べても出てこないのだろう。やがて、申し訳なさそうな顔を上げた。
「申し訳ありませんが……その住所の記録は確認できません。」
「え?」
斗愛は一瞬、意味がわからなかった。
「そんなはずないです。俺、そこで生まれ育ったんですよ?」
「ですが、こちらのデータには存在しないようで……。」
女性は困惑しながらも、端末の画面を斗愛に見せる。確かに、「乏薬島」の文字はどこにもなかった。
「お手数ですが、ご家族や身元を証明できる方はいらっしゃいますか?」
——いない。
じいちゃんたちは、もう連絡がつかない。斗愛は手元に何も持っていない。
「……。」
都会の役所の中で、斗愛は完全に"存在しない人間"になってしまった。