1.2 通貨
「さて、どうしようか。」
先生と別れた後、すっかり上がりきった日を背に、これからの行動を考える。
思えば、通貨を使った経験がほぼなく、物の相場もまったく分からない。一万円がどれほどの価値を持つのか、斗愛には検討もつかなかった。
「よし。」
まずは、この町の場所を把握し、『新宿』への道のりを調べる。そして、都会での金銭感覚 を身に着けることにする。……と、そこまで考えた瞬間、機を見たかのように腹が鳴った。思い返せば、ショッキングな出来事ばかりだったが、昨日から何も食べていない。空腹が意識に上り、改めて身体の疲労を感じた。
ふと近くを見渡すと、通りの先に“食堂”の文字が目に入った。
「……勉強代…!」
まだ食事の相場は知らないが、とりあえず空腹を満たすための "投資" だと考えることにした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
町は朝だというのに、なかなか賑わっていた。食堂の前には数人の客が並んでいる。朝飯を求める人がこんなに多いのか。
しばらく待ち、順番が来ると、歴史を感じる年季の入った看板をくぐり、店内へと足を踏み入れる。テーブル席に案内されると、斗愛は壁に貼られたメニューに目を向けた。
「定食セット1400円。学生セット800円。おにぎり200円……。」
先生の忠告が頭をよぎる。
(都会じゃ、何をするにも金がかかる。)
改めてメニューを見渡すと、確かに、ちょっとした贅沢ですぐに一文無しになりそうだ。斗愛は、高鳴り続ける腹に言い訳をすることなく、おにぎりを2つ頼むことにした。
注文したおにぎりを食べ終え、斗愛はレジへ向かった。レジに立っていたのは、小柄な女性――エプロン姿の店員のおばさんだ。
「はい、400円ね。」
斗愛はポケットから一万円札を取り出し、おずおずと差し出す。おばさんは一瞬目を丸くしたが、「ああ、はいはい」と言ってレジを操作し、お釣りを渡してくれた。
「お兄ちゃん、見ない顔だね。新入りかい?」
周りを見渡すと、長靴を履き、防水加工のエプロンをつけた男性が多いことに気が付いた。斗愛は戸惑いながらも、正直に答えることにした。
「あ、いえ……乏薬島から来ました。」
「ぼうやく……?」
おばさんは怪訝そうに首を傾げる。
「そんな島、聞いたことないねぇ。」
斗愛は内心、「やっぱりか」と思った。島の外では、乏薬島の名前すら知られていないのか。
(まあ、50人足らずの島だし、外の人を見たこともないしな……。)
軽く咳払いをして、話を切り替えることにした。
「あの、新宿に行きたいんですけど、どう行けばいいですか?」
「新宿?ずいぶんな遠出ね。」
おばさんは少し考えたあと、店の外を指さした。
「ここを出て右に曲がった角に案内所があるから、そこで聞くといいよ。」
「案内所……?」
「そうそう、観光客向けの場所だけど、今なら混んでないはずだよ。」
「なるほど……ありがとうございます。」
斗愛は深く頭を下げ、渡されたお釣りを慎重にポケットにしまうと、店を後にした。しかし、店を出て数歩歩いたところで、背後から元気な声が飛んできた。
「おーい、お兄ちゃん!」
振り返ると、先ほどの食堂のおばさん が小走りで追いかけてくる。
「え……?」
斗愛が立ち止まると、おばさんは少し息を整えながら、小さなポーチを差し出した。
「ほら、お釣り、そのままポケットに突っ込んでたでしょ? そういうの、スられるよ。」
斗愛は思わずポケットに手をやる。
「……スられる?」
「そう。都会にはね、スリってのがいるの。お金を無造作に入れてると、知らないうちに盗られちゃうんだよ。あとカモにされたりね。『困ってるフリして近づいてくる人』には気をつけな。」
おばさんは少し呆れたように笑うと、斗愛の手を取り、無理やりポーチを押し付けた。
「これ、使いな。値段もないものだし、遠慮しなくていいよ。」
斗愛は戸惑いながらも、ポーチを手に取った。小さな布製で、チャックがついており、手作り感がある。
「……いいんですか?」
「いいの、いいの。土地勘もなさそうだし、せめてこれくらい教えておかないとね。ポーチは私の手作り!布の切れ端を集めて縫ったんだよ。ほら、ちょっと歪んでるでしょ?」
おばさんは得意げにポーチの端をつまむ。
「でもね、チャックはちゃんと閉まるし、お金を守るには十分さ!」
おばさんは、にこっと笑った。斗愛は、改めて礼を言った。
「……ありがとうございます。」
「しっかり頑張んなよ、お兄ちゃん!」
おばさんは手を振ると、食堂の中へと戻っていった。斗愛はポーチを握りしめ、改めて都会の厳しさと、人の温かさを実感した。