1.1 外は広い
桟橋が近づき、船の速度が落ちる。港の明かりがぼんやりと浮かび上がり、遠くから人の気配が感じられた。先生はふと立ち止まり、ポケットを探る。
「斗愛、これを持っていきなさい。」
そう言って差し出されたのは、一万円札だった。
「……え?」
斗愛は戸惑いながら受け取る。紙幣の手触りがやけにリアルだった。
「都会じゃ、何をするにも金がかかる。君は何も持っていないだろう?」
先生の言葉に、斗愛はハッとする。確かに、乏薬島では通貨を使う習慣がほとんどなかった。物々交換が基本で、日々の暮らしに現金は必要ない。斗愛はもちろん、源次郎たちもまとまったお金を持っていた様子はない。
「で、でも……こんな大金……。」
「大金ってほどでもないさ。少しでも贅沢をすればあっという間になくなる額だ。でも、何かあった時の足しにはなる。」
先生は「申し訳ないが、貯金は研究費につぎ込んでしまってね」と付け加え、にこりと微笑みながら、斗愛の手に紙幣を押し込んだ。
「使い方がわからなかったら、人に聞けばいい。あと、むやみに人前で出すなよ。田舎者だと思われてカモにされるから。」
斗愛はぎゅっと指の間に一万円札を握りしめた。お金。それは、今までの暮らしでは必要のなかったもの。けれど今、これを受け取ることが、「もう島には戻れない」 という現実を突きつけるようで、妙に重く感じられた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
船を降りると、先生は船着き場の職員らしき人と何かを話し、それが終わると斗愛へと向き直った。
「斗愛君。君は、源次郎さんに『乏薬島での出来事はすべて忘れろ』などと言われているんじゃないか?」
返答に困り視線を逸らすと、先生は小さく頷き、「やはりね」と続けた。
「これから先、君がどんな道を選ぼうと自由だ。なんせ、一度しかない君の人生だからね。」
先生は斗愛の肩に手を添え、真っ直ぐ目を見て言った。
「……けれど、僕の勘が正しければ、君はあの島にもう関わらない方がいい。」
斗愛の胸が、わずかにざわついた。
「源次郎さんは、長年この計画を練り、ゆえ子さんさえ騙し続けて君を島の外へ逃がした。鍛冶屋を畳んで船も用意したくらいだ。それほどまでに、あの島には『知ってはいけないもの』があるんだ。」
斗愛は息を詰めた。
(……じいちゃんは、そこまでして俺を……?)
先生は、ゆっくりと手を離し、深く息を吐く。
「……それでも君が真実を知りたくなったら。」
先生はポケットから小さな紙切れを取り出し、斗愛に手渡した。
「これは?」
「僕の連絡先だ。決して誰にも見せるな。」
先生は紙を握らせながら、静かに言った。
「僕は君の力にもなれるよう、調査を続けるよ。」
斗愛は、視線を落としたまま紙を握りしめた。誰に何と言われようとも、答えは決まっている。俺は、乏薬島の真実を知りたい。
玲奈のこと。
あの少女のこと。
そして、俺の両親のこと。
「先生、俺は――いずれ島に戻ります。でも、今はここでやるべきことがあるはずなんです。」
斗愛が顔を上げると、先生は微笑んでいた。
「……そうか。」
そう言って先生は、乏薬島の方角を見つめる。
(そうだ。俺にはまず、一ノ瀬昌を探すという使命がある。すべてはそこからだ。)
先生はゆっくりと斗愛を見つめ、そして静かに言った。
「別れが惜しいが、斗愛君がそう決めたのなら、あちらで調査できる人間がいないとね。だから、僕も戻るよ。」
そう言った先生は、斗愛の肩を強く抱き寄せ、優しく背中を叩くと船へと乗り込んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
エンジンの低いうなりが響き、船がゆっくりと桟橋を離れていく。白波が立ち、先生の乗る船は次第に遠ざかる。斗愛は拳を握りしめた。
(先生……。)
風が吹く。
斗愛は息を吸い込み、思い切り叫んだ。
「先生、今度は僕が『外は広い』って教えますよ!!」
先生の背中がぴくりと動く。
遠くの船上で、振り返った先生の顔には、驚きと……そして、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
朝焼けはやけに眩しく感じた。