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憂鬱な魔女  作者: 土方ラムウ
第一章
14/17

1.10 噂

 目を覚ますと、天井のシミが目に入った。斗愛はゆっくりと息を吐き、体を起こした。相変わらず見慣れない天井だが、昨夜の帰り道で由宇から事務所への寝泊まりの許可を得たことを思い出す。


 (今日から護衛の仕事か……。)


 まだ実感はない。けれど、このまま何もせずにいるわけにはいかない。斗愛は軽く肩を回しながら、事務所に置かれていた紙コップで水道水を一口飲んだ。


 口の中に広がる常温の水が、少しだけ目を覚まさせてくれる。


 (とりあえず、ママのところへ行こう。)


 斗愛は手短に身支度を整え、事務所を出た。外はまだ朝の涼しさが残っていた。





 スナックあっこに着くと、店内は昨夜とはまるで違う静けさに包まれていた。派手な照明は落とされ、奥のカウンターではあっこママがゆったりとコーヒーを飲んでいる。


 「おはよう、斗愛くん。」


 斗愛が入ってくるのを見て、あっこママは穏やかに微笑み、片手を左右に振っている。


 「おはようございます。」


 斗愛がカウンターの前に立つと、あっこママはもう一つのカップを斗愛の前に置いた。ブラックの香りがふわりと漂う。


 「飲む?」

 「あ……ありがとうございます。」


 斗愛は礼を言って、そっとカップを手に取った。口をつけると、ほんのりと苦みが広がる。目が覚めるには十分だった。


 「さて、護衛の仕事について少し説明しておこうか。」


 あっこママは腕を組みながら、ゆっくりと口を開いた。


 「まず、私たちのやってる護衛っていうのは、表のSPとは違う。依頼人の中には、警察に頼れない人も多いからね。」

 「……裏の仕事ってことですか?」

 「そういうと聞こえは悪いけど、必ずしもそうじゃないわ。要は、"公にはできない事情を抱えた人"の身を守る仕事よ。」


 斗愛は静かに聞きながら、昨夜の由宇の言葉を思い出す。


 『お偉いさんが、公にできない商談だったりで、ちょっと危ない橋を渡る時とかね。現役の警察やSPには頼めないから、裏で護衛を雇う時があるのよ。』


 「……危険なんですか?」

 「依頼によるけどね。ほとんどは無難な仕事。でも、場合によっては、命を狙われることだってあるわ。」


 あっこママは真剣な表情で斗愛を見つめた。


 「斗愛くん、自分の身は守れる?」

 「……はい。」

 「ならいいわ。でも、"守る"ってのはね、自分だけじゃなくて、依頼人のことも含まれるのよ。」


 斗愛は黙って頷いた。


 「それから、護衛の基本は"目立たないこと"。表に出すぎてもダメ、だけど相手の危険には素早く対応しないといけない。そのバランスが難しいのよ。」

 「……想像していたよりも、大変そうですね。」

 「まあね。でも、向いてると思うわよ? 由宇も斗愛くんのこと、"野生児タイプ"って言ってたしね。」


 (....それはどんな評価なんだろうか。)


 斗愛は戸惑いながらも、微笑むあっこママに苦笑いを返した。


 「それと……部屋がないんじゃ困るでしょ?」


 突然の言葉に、斗愛は一瞬きょとんとした。


 「え?」

 「由宇のお店の事務所で寝泊まりしてたんでしょ? 由宇から聞いてるわよ。」


 あっこママは、どこか楽しげな表情を浮かべた。


 「ちょうど空いてる部屋があるの。寝泊まりくらいは、ちゃんとできる場所がないとね。」

 「……そんな、いいんですか?」

 「もちろん。仮住まいになるとは思うけれど。」


 斗愛は戸惑いながらも、頭を下げた。


 「ありがとうございます.....!」

 「礼には及ばないわ。さ、案内するからついておいで。」


 あっこママは立ち上がり、斗愛を促した。


 (……ちゃんと寝る場所がある。)


 それは、今の斗愛にとって何よりも安心できることだった。


 スナックを出ると、まだ夜の名残を感じさせる涼しい風が頬を撫でた。朝の日差しは高層ビルの合間からゆっくりと差し込み、夜の街を静かに照らしている。


 「どこへ行くんですか?」


 歩きながら斗愛が尋ねると、あっこママは振り向かずに答えた。


 「うちの系列で使っているマンションよ。空き部屋があるから、そこを使わせてもらうことにしたの。」

 「マンション……?」


  昨夜、由宇に夜の街についてひとしきり説明を受け、ホストクラブ、キャバクラ、スナック、ガールズバー、そして風俗店など。夜の商売にも様々な形態があることを知った。スナックあっこと、由宇が働いているキャバクラはいわゆる系列店らしい。


 しばらく歩くと、あっこママはとある建物の前で立ち止まった。外観は普通のマンションだが、どこかただの住居とは違う雰囲気があった。


 「ここよ。」


 エントランスに入り、エレベーターに乗る。島にはここまで高い建物がなかったから、初めての体験だ。あっこママが上の階のボタンを押すと、斗愛はじっとその数字を見つめた。


 (マンション……こんなところに住めるなんて、考えてもいなかったな。)


 エレベーターの扉が開くと、そこには静かな廊下が広がっていた。


 「ここが斗愛くんのお部屋。」


 扉を開けると、中は思っていたよりも綺麗だった。


 「意外と……普通? ですね。」


 斗愛が率直な感想を漏らすと、あっこママは笑った。


 「ふふ、何を想像してたのかしら? 仮住まいには十分でしょう?」


 斗愛は周囲を見渡し、由宇から聞いた夜の街の話を思い出し、顔を赤くする。


 「何か困ったことがあれば、私か管理人に言いなさい。管理人はうちの関係者だから、安心していいわ。」


 あっこママはそう言うと、斗愛の肩を軽く叩いた。


 「じゃ、私はそろそろ店に戻るわね。斗愛くんは荷物を整理して、少し休むといいわ。」

 「はい……ありがとうございます。」


 斗愛は深く頭を下げた。自分の素性を知らないにもかかわらず、こうして手を差し伸べてくれる人がいる。なんだか不思議な感覚だった。


 「あ、そうそう。これ生活費。」


 そう言って、あっこママは封筒を差し出した。


 「え、いただけません。」


 斗愛は慌てて手を引いた。さすがにここまで世話になるわけにはいかない。


 「そう言うと思ったわ。でも、最初のうちは何かと必要でしょ? いきなり無一文で放り出すほど、私は冷たくないのよ。」


 あっこママはふっと微笑み、封筒をカウンターの上に置いた。


 「働いてお金を稼ぐようになったら、少しずつ返してくれればいいわ。それまでの貸しってことでどう?」

 「……すみません。ありがとうございます。」


 斗愛は躊躇しながらも、封筒を受け取った。封を開けて中を確認すると、紙幣が何枚か入っている。思ったよりも多い。こんな大金を預かってしまっていいのかという不安はあったが、今は素直に甘えさせてもらうべきなのかもしれない。


 「それから、斗愛くんは、お料理得意だったりする?」


 不意にあっこママが問いかけてきた。


 「おしゃれなものは作れないですけど、それなりに……。」

 「そう! ちょうどよかったわ。」


 あっこママは満足そうに手を打った。


 「もし可能だったらなんだけど、うちの子放っておくとコンビニ飯ばっかりなのよ。一緒に作ってくれたりしないかしら?」

 「由宇さ……由宇ですか?」


 斗愛が尋ねると、あっこママは微笑みながら頷いた。


 (由宇って、なんでも器用そうに見えたけど、料理はそんなに得意じゃないのか……。)


 昨夜の由宇の立ち振る舞いを思い出す。護身術や立ち回りに長けていて、夜の街のことも詳しい。中性的な顔立ちを生かしてキャバクラにも出勤している。そんな由宇だからこそ、生活全般もそつなくこなせるのかと思っていたが——意外と人間らしい部分もあるのかもしれない。


 「わかりました。」


 斗愛が頭を下げると、あっこママは満足そうに微笑んで部屋を出ていった。


 扉が閉まる直前、あっこママがふと思い出したように振り返る。


 「あ、そうそう。街中で由宇に話しかけるのは、非常時だけにしてあげてほしいの。あの子、今大事なお仕事中だから。」


 その言葉を最後に、あっこママはコツコツと足音を立て去っていった。


 斗愛はしばらくその言葉の意味を考えながら、封筒を手にしたまま部屋を見つめた。


 (……ここで、しばらく暮らすのか。)


 静かな部屋の中で、斗愛は深呼吸をした。





◇◆◇◆◇◆◇◆◇





 表通りから少し外れた静かな場所。雑居ビルの隙間に、小さなテーブルと椅子が並べられた怪しげなスペースがある。

 紫色の布を頭からかぶった占い師の若い女性が、一人で座っていた。テーブルの上には古びたタロットカードが並べられている。


 「今日は来ると思ってたにゃん。」


 占い師は微笑みながら、向かいに座る人物を見た。由宇である。


 「俺の行動パターン、読まれてる?」

 「そりゃ、あなたの考えそうなことぐらい占わなくても予想できるにゃん。で、今日はなんだにゃん?」

 「その語尾、やっぱり気になるんだけど。」


 由宇は椅子に横向きに座り、周りを見渡す。


 「最近、何か面白い話は?」

 「うーん……そうだねぇ。」


 占い師はタロットカードを数枚めくる。


 「軍事基地にうってつけの場所が見つかったらしいにゃん。」


 由宇の目がわずかに細まる。


 「……どこ?」

 「さて、どこでしょう?」


 年の頃は20前後だろうが、慣れた手つきで何かを寄こせと手をぶらぶらとさせる。由宇はその仕草に呆れた表情をしつつも、妥当であろう紙幣を渡した。


 「鉄鋼島(てっこうじま)って知ってる?」

 「知らない。」


 本題に入ったとばかりに、声のトーンを落とした占い師に対して、由宇は即答する。しかし、占い師の口ぶりには妙な確信があった。


 「じゃあ、今覚えたらいいにゃん。テツとハガネと書いてテッコウジマ。」

 「……手短に頼む。」


 由宇が軽く溜息をつくと、占い師は楽しそうにタロットをシャッフルし始める。


 「なんでも、乏薬島に代わって軍事拠点として注目されているらしい。」

 「へえ。どこにあるの?」

 「え〜知りたい?」


 少女は深く被った布の奥から笑みをこぼし、興奮気味に告げる。


 「——乏薬島の隣らしいよ。」

 「へ!?」


 そんな島の名前など、聞いたことがない。


 「信憑性に欠ける。お金返して。」

 「だよねぇ〜。でもあるんだよ。なぜ今になってそんな島の存在が知られ始めたのか。気にならない?」


 少女はカードをひとつ指で弾いた。そこには、"ラッパを吹く天使"の絵が逆向きに描かれている。


 「……審判(ジャッジメント)の逆位置...。」

 「封印されていたものが、今になって明るみに出る暗示にゃん。」


 占い師はカードを指でトントンと叩きながら、にやりと笑う。


 「なんでも、その名の通り、武器に必要不可欠な希少鉱石が採れるんだとさ。」

 「……本当に?」


 由宇は腕を組む。


 「確かに、軍事基地を作るなら補給路の確保は必須。そこに何かしらの資源があるなら、一石二鳥ってわけか。」

 「お勉強熱心で何よりにゃん。」


 少女は軽く笑いながら、由宇の反応を伺う。


 「その話、どこから?」

 「それを教えるには、報酬が足りないかな?」


 少女は口元を隠すように手を添え、微笑んだ。


 「そっちこそ、何か情報あるんじゃない? ほら、お互い様でしょ?」


 由宇は短く息をつき、席を立つ。


 「……あの男、そろそろ店に来そう。」

 「へぇ、それは朗報。」


 少女は興味深そうに目を輝かせた。


 「連れの顔ぶれが気になるね〜。」

 「それを知りたければ、次の報酬を用意して。」


 由宇は軽くウィンクし、踵を返した。


 「じゃ、そろそろ時間。店が開く。」

 「はいはい、ご苦労さま。」


 少女は軽く手を振ると、またカードに視線を落とした。


 「よく当たる占いはいかがにゃん〜!」


 由宇は周囲に視線を巡らせ、誰にも見られていないことを確認すると、路地裏を抜け、夜の喧騒へと足を踏み入れた。


 (乏薬島近くの軍事拠点候補……?)


 ちらつく違和感を振り払いながら、由宇はキャバクラへと足を早めた——。


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