1.8 あっこママ
由宇の電話が終わったのは、それから数分後だった。スマホをポケットにしまうと、斗愛の方をちらりと見て、不敵に笑う。
「今からうちのママに会いに行くよ。」
「ママ……?」
斗愛は一瞬、母親のことかと思ったが、由宇の口ぶりから察するに、そういう意味ではなさそうだった。
「スナックのママ。私の育ての親みたいな人。」
「スナック……?」
「飲み屋だよ。」
斗愛は島にいた頃、お酒を飲む大人たちを見たことはあるが、「スナック」とは何なのかいまいちピンとこない。それでも、由宇が自分を連れて行く場所なのだから、今はただついて行くしかなかった。
夜の街の明かりが灯る中、由宇は慣れた足取りで裏路地へと進んでいく。斗愛は少し緊張しながら、その背中を追った。
やがて、控えめに光る小さな店の前で立ち止まる。看板には『スナック あっこ』と書かれていた。
「ここ?」
「そう、ここがママの店。」
由宇が扉を押し開けると、店内にはほんのり甘い香りが漂っていた。赤いソファとカウンター席、小さなステージらしきものもある。想像していたよりも落ち着いた雰囲気だ。
「いらっしゃいませ……って、由宇じゃないの。早かったわね。」
低くて響くような声が、奥から聞こえた。
カウンターの奥にいたのは、ベリーショートヘアの筋肉質な女性——いや、姉御肌の人物だった。身長は斗愛よりも少し高い。シックなシャツの袖をまくり上げた太い腕は、一見すると男性のもののようにも見えるが、仕草はどこか優雅で洗練されていた。
由宇は気軽に手を挙げ、「やっほー、ママ」と言ってカウンターに腰掛ける。
「さっきの電話の件、急でごめん。もう営業って終わってる?」
「あら、大丈夫よ。さっきちょうど終わったわ。そちらの可愛い子ちゃんは?」
あっこママが斗愛をじろりと見た。圧のある視線に思わず背筋が伸びる。
「あ、えっと……天宮斗愛です。」
「あなたが斗愛くんね。事情はなんとなく聴かせてもらったわよ。」
あっこママは満足そうに頷くと、カウンターの中から出てきて、斗愛の肩を軽く叩いた。その手は驚くほどがっしりしていて、力強い。
「あなた、仕事探してるんだって?」
「はい……でも、身分証がなくて……。」
「この子もそうだったから、なんだか懐かしいわね。」
ママの一言で、そうか!と由宇へと視線を移すと、由宇は複雑そうな顔をした。その様子を見たあっこママは顎に手を当て、何か考えるような仕草を見せる。
「身分証がないってことは、まともな仕事は無理ね。でも、グレーな世界には身分証がなくてもできる仕事があるの。その中で私が紹介できるのは、少々危険なお仕事だけどね。」
斗愛はごくりと唾を飲んだ。
「……どういう仕事ですか?」
「護衛。いわゆるボディーガードってやつよ。」
斗愛は思わず由宇の方を見る。由宇は「ほらね?」とでも言いたげに肩をすくめた。
「お偉いさんが公にできない商談だったりで、ちょっと危ない橋を渡る時とかね。現役の警察やSPには頼めないから、裏で護衛を雇う時があるのよ。」
「それって……危なくないんですか?」
「リスクがない仕事なんて、この世にはないわよ。」
あっこママはにっこりと微笑んだが、その目は笑っていなかった。
「あなた、武術の心得があるんだって?」
斗愛は少し考えてから頷く。
「柔道と、剣術を少しだけ。」
「剣道ではなくて剣術? へえ、珍しいわね。」
あっこママは腕を組み、斗愛を上から下までじっくりと眺めた。
「いいわね。ちょっと試させてね。」
「……試す?」
次の瞬間——バッ!
あっこママの手が鋭く伸び、斗愛の肩を掴もうとする。その動きは想像以上に素早かった。
(速い——!)
斗愛は反射的に身を引き、掴まれる直前で体を捻る。肩にかすかに指が触れたが、完全には捕まらなかった。
「ほほう?」
あっこママの目は、鋭く細められ口角が上がる。
「やるじゃない。ちょっとした動きだけど、ちゃんと鍛えられてるみたいね。」
斗愛は息を整えながら、背筋を伸ばした。
「鍛えてたというほどじゃ……ただ、祖母に無理くり叩き込まれただけです...。」
「いいわねえ、素直な動きしてるわ。体格のわりに無駄がないし、ちゃんと足運びもできてる。これは期待できるわ。」
あっこママは満足そうに頷くと、斗愛の肩を軽く叩いた。
「よし、採用!」
「えっ、もうですか!?」
斗愛が思わず驚くと、あっこママはウィンクをした。
「人手不足なのよ。それに、由宇の知り合いってだけで信用できるわ。由宇のツテで来た子は、みんな根性あるからね。」
由宇は「まあね」と得意げに笑う。
「とりあえず、明日から仕事入れるわ。詳しい話はまた後で。明日の朝9時にここに来てちょうだい。」
斗愛は自分があまりにもあっさりと採用されたことに、まだ実感が湧いていなかった。
(……他にも護衛の人はいるのかな?)
不安を抱えながらも、斗愛はあっこママと由宇の笑顔を見て、なんとなく流れに身を任せることにした。