1.7 由宇
日は完全に落ち、街のあちこちが眩い光を放ち始める。騒がしい笑い声、酔った大人たちのざわめき。昼間とは違う、華やかでどこか妖しい雰囲気が街を包んでいた。斗愛は相変わらず目的もなく歩き続けていた。
昨夜は運よく事務所に泊まれたが、今日はそんなあてもない。どこか適当な場所を見つけて眠るしかないのか——そう思いながら、公園へ向かおうとしたそのとき。
「ねえ。」
突然、背後から肩をぽんぽんと叩かれた。振り返ると、そこには金髪の女性——由宇が立っていた。昨日とは打って変わり、パーカーにラフなボトムス。まるで別人のような装いだった。
「……由宇、さん?」
斗愛が驚いていると、由宇は腕を組み、じろりと睨んできた。
「ウチの子たちが怖がってるんだけど。」
「え?」
「夜の街で、無表情でフラフラ歩いてる男がいたら、そりゃ警戒されるでしょ?」
斗愛ははっとする。確かに、夜の街を目的もなくうろついていれば、不審者扱いされても仕方がない。
「ご、ごめんなさい……。」
「で、何があったの?」
由宇はため息をつき、斗愛の顔を覗き込んだ。その瞬間——その表情から、すべてを察したように視線を細める。
「……ちょっと来なよ。」
「え?」
由宇は「ここじゃなんだし」と一言付け加えると、斗愛の腕を引いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……で、何があったの?」
人通りの少ない路地裏。斗愛は戸惑いながらも、素直に事情を話した。
──仕事をしようにも、身分証がないせいで雇ってもらえなかったこと。
──住民票を取ろうとするも、「乏薬島」という地名が記録にないと言われたこと。
由宇はじっと話を聞いていたが、斗愛が話し終えると、静かに息を吐いた。
「……やっぱりか。」
ぼそりと呟き、腕を組む。そして、斗愛の目を真っ直ぐ見据えた。
「ねえ斗愛、その島の名前は、私の前以外ではもう出さない方がいい。」
由宇の目は鋭く、その言葉に冗談めいた軽さはなかった。
(なんで由宇さんは“乏薬島”に対して、知らないそぶりをしないんだろう?)
思えば、初めて出身を伝えたときも、食堂や役所の人たちのような反応ではなかった。まるで最初から知っていたかのような——そんな態度だった。
「由宇さんは……乏薬島を知っているんですか?」
由宇は小さく笑うと、手慣れた仕草で髪を縛り上げ、顔周りの髪を少しだけ垂らす。そのままフードを被りながら、肩をすくめた。
「やっぱこれでも気づかない? 気味の悪い祠でよく遊んだのに。」
(祠……?)
その言葉に、斗愛の脳裏に古い記憶が蘇る。幼いころ、祠で一緒に遊んでいたのは——玲奈ではなかったのか?
思い返してみると、その相手は玲奈より少しやんちゃで、身のこなしが軽かったような気がする。
まさか——
「由……宇、くん……?」
ようやく絞り出した言葉に、由宇はニヤリと口元を緩めた。
「お、まさか思い出せるとは。」
「……あれ、でも、由宇くんって可愛かったけど、男の子だった気が……。」
「だから、男だってば。」
「え!!??」
斗愛は思わず後ずさった。
「ま、まあ確かに、あの頃から可愛かったし、中性的な顔立ちだったけど……!」
「うんうん、褒めてくれてありがと。」
「ちょ、ちょっと待ってください! じゃあ、昨日の……あれも……!?」
「うん? ああ、女の格好?」
由宇はあっさりと頷く。
「仕事の都合上ね。かわいい服も好きだけど。」
「えええ……。」
斗愛は完全に混乱していた。だが、由宇はそんな彼の反応を楽しむように肩をすくめ、ポケットに手を突っ込んだ。
「さて、昔話はこれくらいにして……」
ポケットから取り出した光る板を弄びながら、由宇はちらりと斗愛を見た。
「困ったね、斗愛。仕事がないんじゃ、生きていけないでしょ?」
「そ、それは……そうですね。」
「武術の心得は?」
「え?」
「何か戦えるスキルとか、持ってる?」
「ええと……柔道と、剣術を少し。」
「剣術?」
由宇は少し驚いた表情で、首を傾げた。
「じいちゃんに、幼い頃ちょっとだけ教わりました。でも、本当に基本的なことだけで……。」
「なるほどね。」
由宇は何か考えるように一瞬視線を逸らし、それから不意に微笑んだ。
「なら、仕事を紹介できるかも。危険な仕事でもよければ。」
斗愛が頷くと、画面を再び操作する。数秒の沈黙の後——軽快なコール音が響いた。
「……もしもし? あっこママ? ちょっと相談があるんだけど。」
斗愛は、まだ由宇が"男"であるという事実を完全に受け止めきれず、ただぼんやりとその横顔を見つめていた。
(だから、こんなにも親切だったのかな。)
この街で、偶然出会った親切な"女性"が、まさか幼少期の知り合いだったなんて——。移り変わる人波の中で、こんな奇跡みたいな再会があるなんて、思いもしなかった。
斗愛が物思いに耽る一方で、由宇は何事もなかったかのように、電話の向こうの相手と会話を続けていた。