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天使なんかじゃない

作者: 福丸梨佳

 天使を見た。正確に言えば、天使のような女を見た。

 今まで見た中で一番だと、断言できるほど美しい人間だった。階段の上から降りてくるそれのありふれた赤い、同じ学年のスカーフはやたら眩しく輝いて、しっかり規定を守った膝丈スカートが優雅に飜る。肩にかかった艶々の黒髪が宙を舞って、窓から差す柔らかい光を反射させた。それがあまりにも絵画のようで同い年の、高校生には見えなくて。僕は思わず立ち止まった。彼女から目を離す事なく、馬鹿みたいに惚けて立ち竦む。

 目が合った。青い。青い二つの目が、静かに僕を映した。たった一瞬。たった一瞬だけ、僕の世界とその美しいものの世界が一つになった。僕の周りの音が消えて、温度が消えて、青以外の色が消える。

青、青、青。視界いっぱいが彼女の青に染められる。あまりにも鮮やかで、深い青。

 飲み込まれずに済んだのは、すぐに視線を外れたから。彼女は興味なんて一欠片も無さそうな顔で僕のすぐ横を通り過ぎる。彼女の姿を目で追いかけても、彼女が僕の方を振り向くことなんてない。華奢な後ろ姿が視界から消えても、僕の目にはあの青が残っている。

「…誰だ、あの子」

 邪魔そうな顔で避けられ続けながら、僕は踊り場に取り残された。


「何、お前。その子に一目惚れしたわけ?」

「どうなんだろうね」

「否定しねぇのかよ」

「まあ強い関心があるのは確かだから」

 友人はため息を吐いて、変なものを見るような目で僕を見る。わかってるよ、あの子のことを聞くなんて、今らしくないことをしてることくらい。でも仕方がないだろう。人に関心を持つなんて滅多に無かったんだから。顔の広い友人に尋ねるのが一番早いに決まってる。

「でも、お前が興味持つのもわかるよ。レアキャラだもんな、神代さん」

「カミシロサン?」

「そ。青い目の女子なんてこの学校に一人しかいねーもん。神代瑠華。めちゃくちゃ頭良いらしいぜ。あとすげえ可愛い」

「レアキャラってのは、何で?」

「あんまり教室来ないんだと。なのに成績が良いから神様も不平等だよなー」

 そう愚痴る友人の声はもう耳に入らない。瞼の裏側には、彼女の姿がはっきりと浮かぶ。ひらひら、ゆらゆら。青い目だけが爛爛と輝いて、ずっと僕の全身を突き刺している。ただの思い出で背筋が伸びて、動悸がするのは本当に一目惚れをしてしまったからだろうか。そもそもこの感情は、本当に恋なんだろうか。

「……カミシロ、ルカ」

 ぽつり、と呟いて、喉の奥で反芻してみる。かみしろるか。カミシロルカ。神代瑠華。ああ、慣れない。この単語はどこまでも身体に染み込まない。それはきっと、僕と彼女がどこかの点で交わることがないからだろう。ものすごく勿体無いことだけど。


 あ。と思った。見間違えるはずもない、後ろ姿。彼女は滅多に姿を見せないという。僕も同じ学年なのに、彼女の姿を見たのは二度目。それも友人に尋ねたあの日から、もうすでに三週間が経っていた。

 多くの人の視線をすり抜けて、彼女はまっすぐに歩みを進める。その姿はあまりにも堂々としていて、人を寄せ付けない。孤高、という言葉がよく似合った。彼女が何らかの問題を抱えていることは、話を少し聞いただけでも分かった。成績優秀とはいえ、あまり姿を見せないのは普通ではありえない。それでも、彼女の顔に影は一片も見えなかった。好奇の目に晒されながら、何もなさげな顔で少女は進む。

 その日の僕は、きっとどうかしていたのだと思う。誰も寄り付かない、寄り付いてはいけない彼女の後を、追いかけた。階段をゆったりと昇る彼女は、僕のことに気付いていたくせに振り返らなかった。

 ああ、自分はいけないことをしている、と頭の片隅で思った。同い年の女生徒を尾けていることではない。それ以上に、『神代瑠華』に近づくことが「いけないこと」だと思った。彼女が持つ『孤独な美しさ』を、土足で踏み荒らそうとしているようだった。

 それでも、止められなかった。彼女は『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた扉を当然のような顔で開けて、閉めた。僕はその扉の前に立つ。前に立って、ドアノブに手をかける。

 変な汗が、背中を伝うのがわかった。これから、僕は禁忌を犯すのだろう。この扉を開いたら、きっと僕は他の何かに変わってしまう。何故か、そんな予感がした。根拠はなかった。

 それでも、僕は扉を開いた。開く以外の選択肢は、頭になかった。だって、こんなにもときめいたことはなかった。得体の知れない、あの美しい生命体の秘密を暴くことに、僕はどうしようもなく興奮して、今まで何もしなかった、しようとしなかった有象無象に優越感を感じて。僕は衝動のままに、扉を開いてしまった。

 扉の向こうは、悲しいほど真っ青だった。フェンスと白い床以外は全部青空に塗り潰されて、その中で彼女はじっと僕を見つめた。見つめて、にやりと唇を片方だけ上げて笑った。

「あーあ、いけないんだ。ここ、ホントは入るのダメなのに」

 想像より幼い声だった。強い風が吹いて、髪が靡く。靡いた髪は口元を隠して、それでも彼女の声は弾んだまま。

「私に付き纏うなんて、珍しい人種もいるものだね。それも、よりにもよって君とは」

「……知ってるんだ、僕のこと」

「勿論。うちの学年で一番賢いんだろ、明地紅大クン」

 自分の名前なのに、違う人の名前みたいだと思った。彼女は近づいてくる。神様の傑作みたいな顔を何の躊躇いもなく近づけて、青い目玉に僕だけを映す。きらきら、ちかちか。光を集めて、燦々と輝く。僕は息を呑み込んだ。彼女と同じ空気を吸っていいものか、なんて馬鹿げたことを考える。彼女はそんな僕を見て、唇の端を片方だけ上げた。その歪な笑顔まで美しいものだから、畏怖の念すら覚える。

 後ろでチャイムの音がした。でも僕は動けない。動かない彼女を見つめたまま。

「行かなくていいの?授業始まったよ」

「……あの、少し、お話、しませんか」

 彼女は初めて、少し驚いた顔をした。ただでさえ大きな目を更に見開いて、じっと僕の顔を見つめている。真っ青というわけではなかった、その薄緑の入った目に映るのは、僕と青空だけ。それが気が狂いそうになるほど気分が良かった。彼女はそれから、すうっと目を細めて口角を上げて。

「いいよ。君の気が済むまで」

 その日、初めて僕は授業をサボった。


 彼女はどうやら僕を気に入った、というよりほんの少しだけ興味を持ったらしい。何度か彼女のクラスを覗いてはみたが、やはり彼女の姿はなかった。昼休みか放課後にふらりと姿を現して、あの屋上に連れて行かれる。それから十分程度話して、ふらりと何処かへ行ってしまう。猫のような女だ、とは思ったが言うと多分二度とお誘いはないだろう。この関係が彼女のほんの少しばかりの関心で成り立っているのがわかっている僕は、何も言わずに話し相手としての役目に徹するほかない。

 彼女は想像よりも遙かにとっつきやすかった。薄い壁を張られてはいた。だからこそ、下手にパーソナルスペースを荒らされることはなかったし、僕がヘマをすることもなかった。賢い、という評判通り彼女の言葉選びは上手で、話し上手だった。だから、僕も安心して話せた。どんな話題も彼女は上手く返してくれる。正直、気が楽だった。

 彼女は思いの外よく笑った。近所の猫の話をすれば楽しそうに微笑み、日常のちょっとしたドジの話をすれば小馬鹿にしたように口角を上げる。出会った時の得体の知れない色気を残しながら、彼女は大人びた笑い方をする。それが、僕は嬉しかった。彼女が笑うところを見れるのが僕以外いないだろうというのが、更に気分を良くさせた。ただ、呆れるほどしょうもない下ネタで肩を振るわせて手を叩いていたのには、流石に引いたが。

 僕と彼女の逢瀬は、すぐに学校に広まった。多くの人間は彼女に話しかけられない(タイミングも度胸もない)ので、僕にターゲットは絞られる。僕は別に、何も言わなかった。ただ話すだけ、と答えるだけだった。だって、他に何もしていないもの。あまりにもしつこい人間には、少し毒を吐いた。邪推されるのは癪だった。この逢瀬は、そんな汚いものじゃない。

「で、君はなんて言ったの?」

「『エロい話聞きたいならそういうビデオでも見てろ。』って。まあ空気は悪くなったよね」

「言ったなぁ」

「てか聞きたい?同級生のそんな生々しい話。馬鹿げてる」

 こういう話をすると、彼女は片方だけ口角を上げる。短い付き合いでも、ろくでもないことを考えているのはわかった。

「……私が興味あったらどうする気かな?」

「は?」

「ねぇよ!ばぁか!」

 一瞬でも反応してしまった自分が恥ずかしい。そうやってからかってくるのが、神代瑠華という女だった。それが嫌いじゃない僕も、我ながらどうかと思うが。

 僕たちはきっと、良い友達なんだろう。お互いの核心に触れないところが特に。僕らは人より少しばかり賢いから知っている。僕らがお互いどこかに欠陥があること。それに触れられるのがどうしようもなく嫌なこと。触れてしまったら、今までの二人じゃいられないこと。彼女の抱える闇を僕が知ることはない。彼女が僕の欠陥を知ることはないように。

 それは、とても寂しい当然だと思う。誰が人に弱味を見せたがるのか。全部曝け出している人間なんていないのに。でも、でも。

 彼女を知りたいと思うことは罪だろうか。彼女に知ってほしいと思うのは罪だろうか。


「なあ明地、お前、やっぱり神代と付き合ってんだろ」

 またか、と思う。目の前にはニヤつくガタイのいい同級生。近くには人がそれとなく集まって、静かに聞き耳を立てている。どいつもこいつも。ちゃんといつも通りに、丁重お帰りいただこう。

「何度も言うけれど、違うから」

「いっつも二人きりで何かやってんだろ」

「話すこともダメなのか、僕らは」

「それだけなわけないだろ」

「それだけだからこう言ってんだろ」

「嘘つくなって。先生には言わねぇから、な?」

ああ、しつこい。しつこくて、ねちっこい視線が鬱陶しい。きっとこいつらは求める答えを僕が吐くまで続けるのだろう。ならいっそ。


……今、僕は何を考えた?


 自分が今考えたことにぞっとして、思わず立ち上がる。立ち上がって逃げ出した。「図星だ」と笑うそいつらに中指を立てたかった。出来ることなら暴れてやりたかった。

 彼女は、いつも通り屋上にいた。いつも通り、また意地の悪い顔で笑って、すぐにそれを引っ込めた。

「どうした、とんでもない顔してるぞ」

 君のことでこんなに僕はストレスを与えられているのに、君はなんでそんなに平然としていられるんだ。いつもは何とも思わないのに、今日だけはどうにも感情のセーブが効かない。目の前の彼女が憎らしくて、それでも美しいままなのがどうしようもなく悔しくて。

「……今、一人にしてくれないか」

 そう言うことしかできない僕を見て、彼女は遠くを見た。青い目から僕が視線を逸らしたら、一体何が映るのだろう。「そっか」とだけ言って遠ざかる彼女を、僕は追いかけられなかった。ただ、何となくもうダメだ、と思った。

 その日から、彼女は僕の前に現れなくなった。


 その後、僕たちが別れたみたいな噂が立って、それもすぐに薄れていった。僕たちの逢瀬はまるでなかったみたいに、時間は通り過ぎていく。僕の生活は今までと変わらない。そもそも、彼女と会っていた時だって変わっていなかった。ただ、僕の世界で一番美しかったものがなくなっただけ。

 使い古されたラブソングの歌詞みたいに、心に穴が空いたみたいだった。なんだか物足りなくて、それでも普通に生活できてる自分が何となく気持ち悪かった。あの美しい姿が徐々にぼやけていくのが、耐えられなかった。こんなことになるなら、ちゃんと連絡先交換しておけばよかった。形しか表れない画面上でも、「ごめん」のたった三文字が送れたら。たとえ自己満でも、この穴は埋まっただろうか。

 会いたい、と思う。何と言われようと、彼女に会いたかった。会って謝りたい。謝って、前みたいに話がしたい。ただ、それだけ。ただそれだけが、僕の望み。

『関係者以外立ち入り禁止』の扉の前に立つ。初めて手をかけたあの日とは違う緊張が手のひらに浮かぶ。僕は久しぶりに禁忌を犯す。もうそれに戸惑いはない。これができなきゃ、きっともう彼女と僕の人生は交わらないから。

 彼女は、フェンスに寄りかかって青空を眺めていた。ドアの音に気づいてこちらに気怠げに顔を向ける。僕を見つけると彼女は口をへの字にして、じっと僕の目を見つめる。ここで目を逸らしたら、多分いけない。じっと見つめ返すと、彼女は溜息をついた。

「……一ヶ月ぶり、か。元気してた?」

「うん、その、」

「悪かった」

 彼女はぼそりと呟いた。彼女の方を見ると、視線を下に向けて指をもちゃもちゃと動かしている。

「また、君に拒否られたらって思ったら、耐えられなかった。それで、避けてしまった」

「いや、あの時神代さんに当たった僕が悪いよ」

「それでも、あからさま過ぎた。ごめん」

「……僕の話、聞いてくれる?」

 これはチャンスかもしれない。人に首筋を晒すことを避けてきた僕たちが、首に手を掛けるチャンス。人間らしく振る舞うのが苦手な僕たちが、人間らしくあろうとするチャンス。それを手放すほど、歪な僕たちは馬鹿じゃなかった。


「僕ね、人を好きにならないんだ」

「恋愛しないってことか」

 何でもないような顔で返してくる。フェンスにに寄りかかって、興味なさそうに、それでもちゃんと理解して話を聞いてくれている。否定も質問もしてこない。そういうところが心地よい。

「そ。だから女の子と話しても特に何も感じない。トキメキもしないし、正直ムラムラもしない」

「君、そういうところ隠さないよな。モテないだろ」

「モテたくないからこうしてる」

「なるほどね」

「だから、君とそういうことするわけないだろ?」

「……ああ、なるほどね」

 初めて彼女は僕の前で顔を顰めた。その顔があまりにも迫力があって思わず黙ってしまう。それに気づいた彼女は歪に右の頬だけ上げて、「続けて」と手のひらをわざとらしくひらひらさせた。

「僕ら、そういうんじゃないだろ。決めつけるのも違うけど、少なくともいかがわしいことはしてない」

「まあ、そうだね」

「なのに周りはさ、付き合ってるだのやることやってるだの、しつこいわけ」

「普通に気持ち悪いな、それは」

「あまりにも面倒になって、一瞬そうって言いたくなった」

 彼女は思い切り顔をこちらに向けた。信じられないようなものを見る目だった。

「言ってないよ。でも、一瞬でもそう思った自分が許せなかった。自分にも君にも嘘を吐こうとした自分が、嫌で、君の顔が見れなかった」

 ごめん。やっと言えた謝罪は思ったよりすんなりと、彼女の目を見て言えた。彼女は上を見て、大きく溜息を吐いて、艶々の髪の毛をくしゃりと歪めた。

「じゃあ、次はこっちの話も聞いてくれ」

 彼女はじいっと僕の目を見た。試されている気がした。どこまでいっても透き通る碧い目は、逸らしたらいけないと僕に思わせた。

「私ね、まあ人の視線が苦手でね。それでこんなんになっちまったわけよ」

 彼女は何も言ってくれるな、という顔をした。だから、僕は口を噤んだ。彼女は満足気に頷いて、話を続けた。

「まあ、ほら私、見た目はいいだろ。」

 これは、同意してもいいのだろうか。少し迷って頷くと、彼女はわざとらしくほっとしたような顔をして、また口を開く。

「ただでさえ親の影響で目が青いんだ。だから、まあ、見た目が少しばかり良くて目の色が珍しけりゃ人の目に留まりやすいわけだ」

「……親って、外国の方?」

「そーそー、父親がな、イギリス人なの。で、男には言い寄られるし、女にはやっかみつけられるわけ。男と歩けばそういう噂を立てられて、女と歩けば引き立て役だって。じゃあ、もう一人になるしかないだろ」

 そんなことない、なんて言えるわけなかった。彼女がそれを求めていないことは、簡単にわかったから。

「贅沢言うなって思うだろ?君がそう思わなくても、言う奴は絶対いるわけよ。で、変なのに言い寄られるわ因縁つけられるわ、そうじゃなくても、ずっと見られてるの。動物園のパンダも、きっとこういう気持ちなんだろうね」

 尚更、言えるはずなかった。だって、僕も彼女を見る側の人間だったから。彼女が浴びた視線はきっといいものだけではない。むしろ碌でもないものの方が多いだろう。彼女の気高い孤独はあまりにも美しく、好奇の視線に晒されやすいものだから。

「ある日突然、家から出れなくなった。保健室登校できるようになるまで二ヶ月かかった。ここに来れるようになるまでは半年。保健室の先生には多分バレてるけどね、何とか目瞑ってもらってるよ」

 彼女はまた、目を閉じて大きく息を吐いた。全ての鬱憤を吐き出すみたいに。この世の不満という不満を世界の代わりに天に返すみたいに。だらりと体重をフェンスにかけて空を見上げる彼女は絵に描いたように美しい。目をゆったりと見開いて、碧い瞳に青い空を反射させて、呟く。

「このままじゃマトモに生きていけないから、人間は面倒くさい」

 人間だ、と思った。きっと僕は、心のどこかで彼女は人間ではない何かだと思っていた。人の気持ちを知れずに、知ったかぶりをしている天使だと、本気で思っていた。でも、心の底から怠そうに空を見つめる彼女は、紛れもない人間だった。年相応の女の子らしい美しさがあった。

「なんで僕たち、ただの友達じゃいられないんだろうね」

 僕が尋ねると彼女は答えた。

「アダムが男で、イブが女だったからじゃないかな」

「随分と洒落た答えだね」

「たまにはいいだろ」

 そうやっていつもの調子で、彼女はまた口の端を吊り上げる。彼女は、人間には成りきれないのだろう。人間に憧れて、それでも生き長らえるために人間ではない、別の何かになりたいのだろう。僕がそうなりたいみたいに。

「難儀なもんだね、お互いに」

「ただ、一緒にいたいだけなのにね」

 彼女はじっと僕の顔を見た。顔を見て、初めて大声で笑った。その姿は何よりも人間離れしていて、今までのどんな姿よりも人間みたいだった。


 今日も彼女が、屋上で待っている。慣れてしまった『関係者以外立ち入り禁止』の扉を潜り抜けると、彼女がにやりと笑って片腕を上げた。彼女はきっと、青に愛されているのかもしれない。彼女が屋上に上がる日は、常に快晴だった。

「期末テスト、どうだった?」

「普通かな」

「学年一位の普通は普通じゃあないんだよ」

「……もうすぐ、夏休みだね」

「そうだね。わざわざ学校に来なくて済むとか最高」

 白い腕を見せつけ、夏仕様のセーラー服のリボンを弄りながら彼女は嬉しそうに話す。ここで会えなくて寂しい、なんて言ったら、多分鼻で笑われるだろう。まあ連絡先は交換したから、話そうと思えば液晶画面越しに話せるのだが。彼女の美しい顔を見れないのは惜しい。

「退屈かい?」

 突然、彼女は口を開く。見ると彼女は目を細めて、こちらを伺うように見つめている。相も変わらず、人と接する時は野良猫のような顔をするなと思った。彼女はいつも通り、恐ろしく整った顔を僕に近づける。鼻先が触れて、碧い目が僕のなんてことない黒い目を映す。

「私に会えなくて、退屈かい?」

「……そうだね。きっと、つまらないだろうね」

 こんなに近いのに、僕たちが恋に落ちることはないのだろう。僕は彼女の美しさを、確かに愛している。このままキスすることもできるだろう。それでもきっと、僕たちは変わらない。だってこの距離に、何の戸惑いも興奮も覚えられない。欠陥のある僕たちはこの歪な距離のまま、この歪な逢瀬は続くのだろう。終わりの足音が静かに近づいてくるのに、気づかないふりをして。

 彼女は満足げに頷いて、あっさりと顔を離した。どうせもう何か考えがあるくせに、考えているふりをして、「あ」とわざとらしく声を出す。そして唇の両端を上げて、僕の顔を覗き込んだ。

「じゃあ、一緒にどこかへ行こう。デートってやつ、しようよ」

 碧い目に僅かな不安を滲んでいるのを確かに見た。きっとこの一言で僕たちの世界が幽かに変わることを彼女は知っているから。

「いいよ。どこへ行こうか」

 断る理由なんてない。僕たちのこの、屋上だけの世界が広がるのはとても素敵なことだから。彼女は目を大きく見開いて、立ち上がった。

「よっしゃ!じゃあじゃあ、どこ行く?海?海行こう、私家族としか行ったことないんだ!」

 初めて見る子供の笑顔で彼女はくるりくるりとその場で回る。青い青い空の下、白いセーラー服の中心で赤いスカーフを跳ねさせて、スカートを翻す。碧い目玉は大量の光を集めて、世界を更に煌びやかにして。

 やっぱり、彼女は天使かもしれない。だって、こんなに綺麗なものを見たことがない。こんなに美しいひとが、人間であってなるものか。ああ、こんなに、泣きたくなるほど綺麗な空だから。彼女はきっと、帰ってしまう。僕らの世界が終わってしまう。いつか終わってしまうことに気づかされて、どうしようもなく悲しくなる。

 スマホを開いて、カメラを起動する。くるくる回る彼女を何とか小さなレンズの中に収めて、シャッターを切る。天使がいつ帰っても、思い出せるように。こんなに美しいひとが僕の世界にいた事実が、揺らがないように。

「どうした、写真なんか撮って」

「……なんでもないよ」

 そうして僕は、スマホをポケットの中に隠した。


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