幸福な母親
「なんですって!?」
執事に告げられた言葉に、耳を疑う。
彼は、ゆっくりと、同じ言葉を繰り返した。
「メイドのネリーが、旦那様の子を宿しております」
想像もしなかった言葉に、眩暈を覚えた。
わたしはレイチェル。オールストン男爵夫人である。
同じ寄り親の下、男爵家同士で順当に結ばれた縁で婚姻した。
子供は二人。
長女のキャサリンは八歳、長男のベンジャミンは五歳。
二人とも健やかに育っている。
夫は一人っ子で、母親に少しばかり甘やかされて育った。
まあまあ男前で優しい人だが、少々考えが足りないところがある。
わたしは、物をはっきり言う性質のため、優しい夫を育てて来た姑とは折り合いが悪い。
オールストン男爵家の先代は既に亡くなっているので、彼女は弟を頼って、一年の大部分を実家で過ごしていた。
そして、たまに帰ってきてはわたしと衝突し、再び実家に逃げ帰るのである。
もっと優しい嫁であれたら、と思わなくもない。
しかし、夫は優しいばかりで決断力が足りず、領地の何事も、わたしが目を通さないと危なっかしい。
最初は領主である夫を立てていた執事も、途中からは、最初にわたしに話を持って来るようになった。
そんな状況に鬱屈が溜まったのか、夫の浮気というまさかの事態が起こった。
しかも、相手はメイド。
やっと見習いから昇格したばかりの年若いメイドだが、その真面目な仕事ぶりには、いつも感心していた。
「同室のメイドが、体型が変わってきたことに気付いて、何気なく話を聞いたら泣き出してしまい、一切合切打ち明けたということです」
なんということか。
メイドの話によれば、とても合意とは言えず雇い主による無理強い。
しかも、事件当時、夫は酔っていて、その後の様子から覚えていないのではないかと思われるのだ。
「なんてこと……」
「奥様」
状況に酔っている場合ではない。
混乱した頭を落ち着かせなければ。
「……いいえ、今、本当に困っているのはネリーだわ。
先ずは、お医者様を呼んで、診て頂かないと」
「すぐに手配いたします」
医師の診断では、妊婦の体調は悪くないとのことで一安心だ。
「ネリー、気付かずにごめんなさいね」
「いいえ、奥様、わたしも言い出せませんでしたので……」
おそらく、ネリーは初めての経験だったのだろう。
ここ数か月、一人で不安と苦しみに苛まれてきたのだ。
「あなたは、わたしのことを信じられる?」
「……わたしには他に頼れる方がおりません」
ネリーは孤児で、帰る家もない。
わたしの判断一つで、二つの命の行方が変わってしまうのだ。
「この男爵家の使用人は信用できる者ばかりだけど、屋敷にいては出入りの人たちの噂になりかねないわ。
教会のシスターがお世話してくださる助産院があるの。
子供が無事に生まれるまでは、しばらく、そちらでゆっくりなさい」
「よろしいのですか?」
「もちろんよ。
いろいろ心配でしょうけど、後は、わたしに任せてくれる?
悪いようにはしないから」
「はい」
「あなたにも、生まれてくる子にも何一つ罪は無いわ。
困った時は、周りの人たちを頼っていいのよ。
もちろん、相手は選ぶべきだけど。
一人ぼっちで頑張らないで」
「……はい、奥様」
ネリーは涙ぐんだ。
彼女の身の安全を計った後、わたしは浮気の証拠集めを始めた。
ひょっとしたら覚えていないかもしれない夫。
となれば、状況証拠を出来るだけ集めて検証してみないと。
ネリーが詳細な日時を記憶していたので、屋敷にある記録の類を全て確認した。
商人の出入り、使用人の配置、等々。
幸い、執事はまめな性質なので、いつもと違うことがあれば書いておいてくれる。
「この日、旦那様が客室から出て来られたことを記録してあります」
「客室?」
その日、来客は無く、夫が客室に行くような用事は無いはずだ。
「確か……『何かありましたか』とお訊ねしたら……」
『物音がしたので覗いてみたら、メイドが掃除をしていたんだ。
丁寧にやっているようだから、邪魔しないでおこう。
それより、ちょっと帳簿で気になることがあるので、少し聞いてくれないか?』
「……今思い出しますと、客室に入らないよう画策なさったのかもしれません」
「それに、その様子だと記憶が無いほど飲んではいないわね」
わたしは執事と示し合わせ、夫に気付かれないよう努めた。
他に、この件に関わったメイドにも口止めをした。
そして、夫にはこう説明した。
「メイドのネリーは体調が優れないようなので、暇を出しました」
夫はどこか、ホッとしたような顔をした。
灰色はどんどん濃くなっていく。
やがて生まれたのは、元気な男子。
髪の色も目の色も、夫にそっくりだ。
わたしは手はずを整え、夫を助産院に呼び出した。
「あなたの子供ですわ。髪も目も同じ色」
「……メイドの子だろう?
たまたま色が似ているとしても、私と何の関係が?」
「メイド? メイドの誰かしら?」
「ネリーというメイドが、前に居ただろう?
お前が暇を出したと言っていた……」
「あら、わたし、体調が優れないから暇を、と申し上げましたが?
なぜ、彼女が妊娠していると、ご存じでしたの?」
「……人づてに聞いたんだ」
「彼女の相手については、なにか聞いていらっしゃいますか?」
「そんなもの、若いメイドの相手などいくらでもいるだろう。
出入りの商人やら、雇いの庭師やら。適当に遊んでいたのでは?」
「そんな不心得者は、我が家に出入りさせておりません」
わたしはきっぱり告げて、夫をじっと見つめた。
「な、まさか、私を疑っているのか?」
「疑っていると言うか、ほぼ間違いないと思っております。
調べられる限りの状況からは、あなたが相手としか考えられませんので」
「なんと横暴な。不愉快だ。私は帰る!」
「まだ帰っていただくわけには行きません」
開いていた扉から、文官服の男性が現れる。
「誰だ、貴様は」
「私は、ホールデン伯爵家の文官をしております。
伯爵様からの命により参りました。
貴方にいろいろ質問がございます。
なお、虚偽の回答をされますと、後ほど行う裏付け調査と異なった場合に罪状が重くなりますので、ご注意ください」
「レイチェル、私を嵌めたのか?」
「いいえ。貴方に罪が無ければ、正直にそう仰ればいいだけです。
何事もなく屋敷にお帰りになるのを、お待ちしております」
ああ、でも、嵌めたという言葉が出ると言うことはもう、認めたようなものだ。
自分のしたことも、その結果も、この人は自覚していたのだ。
夫の不貞について、わたしは執事に手伝ってもらいながら、自分で調査した。
そして、姑や近い親戚へは報せず、寄り親の伯爵家の奥様に相談に行った。
以前、寄り子の夫人会があった時に、伯爵夫人にお会いしたことがある。
その時の様子と聞こえてくる評判から、夫人は女性の立場を重んじて下さる方だと判断した。
それで、まずは彼女に相談したのだ。
その結果、夫人は夫の伯爵様に働きかけてくださり、この件は上からもう一度調べてもらえることになった。
もちろん、夫をここへ引きずり出す前に、秘密裏にわたしや執事たちも尋問を受けている。
わたしは伯爵家の調査員に、不貞問題だけでなく男爵家の内情を洗いざらいぶちまけた。
夫はすぐに不貞を認めた。
そもそも不貞は家庭問題とされるので、妻が許せば、よほど悪質でない限り裁かれない。
家族に対して体裁が悪くなるのを我慢すれば、今まで通りに暮らせる。
どうやら、自分が無理やりに孕ませた使用人を、素知らぬ顔で放っておいたのが悪質だとは思っていない様子だった。
もちろん、そういった相手に手をかけた、かけようとした、という事件もたまに聞くことはある。
それに比べたら、マシだとでもいうのか……
結局、夫は伯爵様により、オールストン男爵家を預かるには能力が不十分である、と判断され引退させられた。
使用人に対する行状だけでは断罪が難しいため、別の理由をつけたのだ。
再教育の名目で伯爵家の文官として雇われた。
仕事内容は鉱山の事務で、常時、屈強な監督人たちの監視を受ける。
オールストン男爵家には跡継ぎの長男がいるため、わたしが後見となり、彼の成人まで補佐することになった。
仕事の内容としては、これまでとほとんど変化はない。
もちろん、夫とは離縁した。
夫に対する私怨も多少はある。
しかし、この不貞、いや立場ゆえの驕りを許しては、今後の家のためにも領のためにもならないという思いがあった。
伯爵夫人のお陰で、わたしにとっては納得のいく結果が得られた。
残念ながら、いくら断罪しても被害者であるネリーの救いになるわけでは無いのだが……
ネリーが産んだ男の子は、オールストン男爵家の次男として育てることになった。
「ここまでして頂いて、更に甘えるのは心苦しいですが、わたしのような未熟者では仕事と育児の両立は無理です。
信頼できる奥様に預かっていただければ、安心して、ここから出て行けます」
ネリーは子供の乳離れを待って、新しい勤め先へと旅立った。
伯爵夫人のご紹介なので、きっと、女性であるという理由で理不尽な目に遭うことはないと信じたい。
さて、男爵家でのわたしの仕事は今まで通りだが、新たに、次男として迎えたデリックの養育が加わった。
助産院のシスターたちに、たっぷり構われて育ったデリックは人見知りしない。
周囲の大人が、自分に嫌なことをしないと信じているようだ。
母親のネリーは体調が戻った後、シスターたちに子守りを替わってもらい、メイドで鍛えた腕で、あれこれと家事仕事を請け負ったとか。
よく働くので、年配のシスターたちに母子ともども可愛がられたと聞く。
子守りをどうしようか考えていたら、思わぬ助っ人が現れた。
「お母様、この子は弟なんだから、わたしが面倒を見るわ!」
長女のキャサリンが立候補した。
長男が生まれた時、まだ彼女は三歳。
赤ん坊には当然、多くの手がかけられる。
しかし彼女は弟に妬くことなく、率先してお世話を手伝いたがった。
だが、あまりに幼く、してもらえるようなことは、ほとんど無かったのだ。
その悔しさが残っているのか、今度こそ、というようにキャサリンは意気込んでいた。
姉について歩いている長男のベンジャミンは、ちょっと溜め息が出そうな顔をしている。
抱き方のコツや、大人から見えない場所に行かないことやら、いろいろ言い聞かせてから少し任せてみた。
乳母車を颯爽と押して歩くキャサリン。
その後ろから常に周囲を見回しつつ歩くベンジャミン。
赤ん坊が投げ飛ばしたぬいぐるみだとか、姉がうっかり落として気付かない涎拭きだとかを、弟は黙々と拾っている。
三姉弟の散歩は、なかなか油断がならない。
キャサリンはやる気はある子だが、かなり大雑把。
弟のベンジャミンは六歳にして、すでに姉のフォローをする気遣い屋なのである。
先を予想して溜め息をつきつつも、ちゃっちゃと手伝う実践的な男子だ。
彼の助力がなければ、とても赤子をキャサリンに任せられない。
一人っ子の上に甘やかされた元夫は、あまり子供たちに関心が無かった。
そのせいもあるのだろうか。
事件の顛末をかいつまんで説明しても、子供たちにはさほどのショックは無さそうだった。
父親が不在になったことを、気にする素振りも見えない。
もしかしたら、わたしに気を遣っているのか。
子供は、こちらが思うより大人なところがあるものだ。
それでも、執事を始めとした男性の使用人たちが温かく見守ってくれるので、あまり心配はしていなかった。
「キャサリン様、もう少し、ゆっくり押して歩かれた方が。
デリック様が目を回してしまいます」
庭を散歩すれば、実は彼等から全く目を離さなかった庭師が、さり気なく注意してくれる。
「あ、ごめんなさい! デリック、大丈夫?」
「あーう?」
「よかった。大丈夫そうね」
赤子は更に大人で、皆に交互に構われながら泰然自若の趣だ。
デリックはすくすくと育っていった。
時は過ぎ、長女が嫁いで行った。
長男ベンジャミンは嫁をもらい、無事、男爵位を継いだ。
わたしはそのまま、補佐として姑として働いている。
やがて、男子の孫が生まれると、デリックは自分の存在価値について考えたらしい。
わたしに、こんなことを言って来た。
「これまで、面倒を見ていただき、ありがとうございました。
男爵家には跡継ぎの心配がなくなったので、僕は出ていくべきだと思うのですが、生きるための技能が何もありません。
それで、ご迷惑とは思いますが、使用人として紹介状を頂ける程度に、ここで鍛えていただくことは出来ないでしょうか?」
わたしは、驚いた。
「そろそろ、婿入り先を探そうと思っていたのだけれど」
「基本的な教育を受けさせて頂きましたが、僕はとりたてて何かが得意というわけではないようです。
売り込みづらいと思いますし、万一、婿入り先と相性が悪かったらと考えると、居場所を変えることが比較的たやすい使用人のほうがいいかと考えました」
「なるほど、貴方なりに考えてみたのね。
使用人のスキルを身に付けておくのは生活のためにも悪くないと思うわ。
執事に言っておくから、彼の指示に従ってちょうだい」
「ありがとうございます」
こうして彼は使用人の教育を受け始めた。
部屋も使用人用。ただし、一応身内ということで一人部屋にした。
教育はもちろん、忖度無しだ。
そろそろ独り立ちできるか、と執事と相談を始めた頃、突然、婿入り話が湧いて出た。
「お相手は男爵家のお嬢さんなのだけれど、少し訳ありなの」
相手の男爵令嬢は最近ご両親を亡くしていて、婚姻も彼女が成人する三年後になるという。
更に人手が無いので、出来れば婚約後は家の手伝いに来て欲しいとのこと。
「隣りの伯爵領の当主が、彼女の伯父さんに当たる方で。
男爵家と言っても、彼女の母親が婚姻する時に、相手に家が無かったので、兄の伯爵が贈った土地と爵位なのよ。
だから、男爵領を伯父さんに返して彼女がお嫁に行っても構わないの。
だけど、まだご両親を亡くしたばかりの彼女に決断を迫るのも憚られるということで……」
「なるほど。婚約者となっても、婚姻が確実ではない話なんですね?」
「そういうことになるわね。
それと、独立した領というより、伯爵領に付属しているようなものだから、あまり貴族らしいお付き合いはしなくてもいいらしいわ。
どちらかと言えば、ちょっと広い村の村長の家みたいな感じね」
「では、何でも出来る事をお手伝いすれば、気兼ねなく食べさせてもらえそうですね」
「ええ。期間限定になってしまうかもしれないけれど、伯爵家がしっかり後見しているから、滅多なことはないと思うわ」
「僕に異存はありません。もしも、あちらで採用してくださるようなら、行ってみようかと思います」
「採用って、貴方……でも、そうね。
それぐらいの感覚でいたほうが、気楽に過ごせるかもしれないわね」
「はい」
「……それと、もし、この話が途中で駄目になったら、ひとまず、ここへ帰っていらっしゃい。
ここは、貴方の実家ですからね」
「ありがとうございます。義母上」
お相手のご令嬢はサバサバした性格で働き者の、感じのいい娘さんだ。
さっさと婚約者の領に移住し、主に農業を手伝っていたデリックからは、なかなかよく出来た作物が送られてきた。
結局、三年間の婚約期間で距離を縮め、次男は無事、男爵となった。
仮に状況が変化して社交など必要になっても、基礎教育は終えているから何とかなるだろう。
兄ベンジャミンは溜め息をつきながらも、いざという時は手を貸すはず。
長男はすっかり男爵が板についたし、嫁も申し分ない。
地味にしっかり者の次男も片付いた。
わたしがすべき仕事は終わった。
次は自分の先行きを決めねばならない。
そもそも、直系である夫を追い出した妻である。
あれ以後、姑とは完全に縁を切り、彼女の葬儀にも行っていない。
やりたい放題の嫁ではあるが、このままのうのうとしているつもりはなかった。
わたしが一人で生きていくために出来る仕事は何だろう。
そんなことを考えていたら、久しぶりに茶会に誘われた。
主催はホールデン伯爵夫人だ。
「ねえ、そろそろ愚痴が溜まっているのじゃなくて?
皆さん、お嫁さんの悪口など好きに吐き出してお行きなさいな」
愚痴と言っても『今時の嫁は……』と世代の差を再確認し、慰め合う程度。
中年の夫人たちは、茶会を楽しむことも疎かにはしない。
「まあ、レイチェルさんは愚痴は無さそうね」
「お陰様で、出来た嫁でございまして」
「あら、羨ましい!」
言いたいことは言うが、衝突寸前で一歩引いてくれる嫁なので、今のところは大丈夫。
しかし、このあたりが引き時だ。
「実は、そろそろ全て嫁に任せて、家を出ようかと考えておりまして」
「まあ、しっかりしたお姑さんがいるからこそ、お嫁さんは安心できるのではないかしら?」
「いえ、若い使用人も育ちましたし、十分手は足りておりますから。
何か、わたしに出来る仕事がないか探しているところです」
寄り子仲間のご夫人が、少し首を傾げて言葉を発した。
「レイチェル様のご器量なら、いくらでも後妻の口がありそうですけど?」
「……夫はもう、要りませんわ」
「あら、余計なことを言いました。許してくださいね」
「いいえ。お心遣いありがとうございます」
「でしたら、どなたか裕福な未亡人の侍女のような仕事を探されては?
領地を預かってらしたのですし、書類などにもお強いでしょう?
そういう方をお求めのご婦人も、いらっしゃるかも」
「そうですね。
住み込みで働けるなら、そういうお仕事が理想的ですが」
「相性もありますしね」
他の条件が良くても、わたしの性格からして今更、癇癪持ちの老婦人の相手は出来ない。
しかし、穏やかな老婦人なら使用人に嫌われることも無いだろうから、新しい募集は少ないだろう。
数か月後、ホールデン伯爵夫人から連絡を受けた。
「侍女をお求めの年配のご婦人がいらしたわ。
貴女の求める条件に、ぴったりかも。
とりあえず、わたくしの顔を立てるつもりで面接に行ってもらえる?」
どこか悪戯っぽい紹介で訪ねたのは、馬車で三日ほどかかる土地。
主人である年配のご婦人というのは、元は貴族の令嬢だったそうだ。
裕福な商人に嫁いで平民となり、夫亡き後は譲られた遺産で悠々自適の暮らしとか。
「……前の方は、確かな筋からの紹介だったのだけど、お金を勝手に動かされてしまって。
それから人を雇うのが、ちょっと怖くなったの。
しばらく、最低限の事務を手伝ってくれる人を通いで頼んでいたのだけど不便で。
でも、ネリーの紹介となれば別だわ。
貴女の話は聞いているわよ」
「ネリー?」
わたしの知るネリーと言えば、次男デリックの実母。メイドだったあの娘だ。
「お久しぶりでございます」
優雅な物腰で現れた中年女性には、確かにネリーの面影があった。
「本当にネリーなの?」
「ええ。貴女に息子を託したメイドのネリーでございますよ」
彼女の後ろからワゴンを押してきた若いメイドが、お茶をサーブしてくれる。
「つもる話もあるでしょう? ネリーもお座りなさい」
「はい。失礼させていただきます」
彼女は今、この家で家政婦をしていると紹介された。
すっかり落ち着いた、大人の女性になっている。
ご主人は、どこかウキウキしながら話を続けた。
「旦那様とお姑さんを追い出したのですって?
なかなか、胸のすく話だったわね」
あまり褒められた話では無いので恐縮する。
「そんな経緯があったら、最後まで嫁ぎ先に居たくはないでしょう?」
「はい、今更ですけれど最後までのさばって、とは言われたくないのです……」
「でしたら、この家にお出でなさい。
老い先短いと覚悟していたけど、この優秀な家政婦さんのお陰で隠居してから、かえって元気になったくらいなの。
あなたが来てくれたら、もっと元気になれそうよ」
「ええ、是非、ここで働かせていただきたいです」
ここまで言ってもらったら、迷いも消える。
わたしは反射的に返事をしていた。
この屋敷には、家政婦が一人と年若いメイドが二人。
門番を兼ねた屈強な庭師が二人、それから雑用を引き受けてくれる従僕兼御者兼馬丁が一人いる。
最初は気楽な女所帯を、とご主人は考えていたらしい。
しかし、それなりに財産が有るので、心配した息子さんが男手をよこしたそうだ。
そしてそこに侍女として、わたしが加えて頂いた。
「レイチェルさん、今日はお庭でお茶にしましょう」
「はい、すぐに参ります」
仕事の半分くらいは、ご主人と共に食事をしたり、お茶をしたり。
ご主人は食が細めなので、何度かに分けて少しずつ食事をする必要がある。
そして、食欲がわくよう、なるべく楽しい雰囲気を心がけねばならない。
家政婦のネリーさんは、オールストン男爵家を離れてから雇われた先で、料理人の修行をしたそうだ。
病人食や介護食に長じており、そのアドバイスは的確で、仕事がやりやすい。
庭でのお茶の時間は、従僕か庭師の誰かがお相伴する。
そうすると、いろいろな話題が出て、ご主人が飽きにくいのだ。
わたしは、半ば家族のような一団に加えてもらった幸福を感じながら、日々を過ごしていた。
半年ほど経った頃、次男のデリックが屋敷を訪ねて来た。
ネリーさんもさすがに気持ちの整理がついているから、会ってもいいと言ってくれたのだ。
「ここへ来たら、二人の母さんに会えるから得した気分だね」
少し照れながら言われた言葉に、涙がこぼれて気が付いた。
わたしはこの血の繋がらない息子を、実の子たちと同じように、とても愛していたのだ。
「レイチェル様、ちゃんとした大人に育てて下さってありがとうございました」
そう言ったネリーさんの目にも涙があふれて、とうとう二人で抱き合っておいおい泣いてしまった。
わたしたちの息子は、困った顔をして言った。
「次は、ハンカチを二枚用意して来るね」
デリックも、良い子に育ってくれた。
わたしは、幸福な母親だ。