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9 クーとの別れ

 この日もソフィが裏庭で草むしりを始めると、クーはすかさずやってきて、ソフィの近くにバサリと降り立った。

 ちょんちょんと跳ねてきて顔を右に傾け、まん丸の左目でじっと見上げてくる。よく見ればそのくちばしには何かを咥えている。


「なぁに?」


 差し出した手の平の上にぽとりと落とされたのは赤い木の実だった。


「桜の実……これをわたしに?」


 尋ねると、「カァ」と短い返事が返ってくる。見つけてきた食べ物を、ソフィにお裾分けしてくれるらしい。

 桜の実はサクランボと違い人間には苦くて食べられないのだが、誇らしげに胸を張るクーの姿に、ソフィは顔をほころばせた。


「とっても嬉しい。ありがとう、クーちゃん」


 お礼に頭のてっぺんをそっと撫でると、もっともっととねだるように頭を差し出してくる。その仕草に、愛おしさと寂しさが込み上げた。


「……クーちゃんは、もうじきわたしのもとから飛び立ってしまうのよね……」


 ぽつりと呟くと、クーはソフィを見上げ、不思議そうに首をかしげた。ソフィは淡い笑みでそれに応える。


「ごめんね、クーちゃんが独り立ちするのは嬉しいことのはずなのに……」


 この人懐っこいカラスが巣立ってしまったら、ソフィはまた独りぼっちになってしまう。一人でいることにはもうすっかり慣れたつもりだったのに、クーがいない生活を想像するとどうしようもなく気持ちが沈んだ。

 クーの頭を撫でながら、ソフィは空を見上げた。晩春の澄んだ青空を、白い雲がゆったり流れている。


「クーちゃんはいいなぁ、翼があって……。わたしも一緒に飛んで行けたらよかったのに。どこまでも、自由に……」


 クラプトン伯爵家を出て、自由に生きたい。

 その思いは日増しに強くなっていく。


「わたしもクーちゃんのような翼が欲しい。自由に生きていくための翼が……」


 けれど今のソフィには何の技能も伝手もない。それに、無給で使用人扱いを受けるソフィは、自立のためのわずかな蓄えを作ることすらできないでいる。思いとはうらはらに、伯爵家を出る目処は全く立っていないのだった。


「クーちゃん、せめてもう少しだけ、わたしのそばにいてね――」


 カラスに目を戻し、そう声をかけたときだった。

 突然、クーが羽をバサバサと羽ばたかせ、「カァ」と鋭い声をあげた。複数の人間が近づいてくる気配に気づき、ソフィははっと後ろを振り返る。


「あらまぁ。ソフィがカラスを飼っているという噂は本当だったのね」


 数人の使用人を従え、腕組みをして立っていたのはベリンダだった。


「ベリンダ様……」


 ソフィはさっと立ち上がり、クーを後ろに庇うように前に出た。

 使用人の領域である裏庭にベリンダがやってくることはめったにない。しかも、ベリンダの後ろに控える使用人達は、手に手に柄の長い農具や掃除道具を持っている。嫌な予感がした。


「物好きなことねぇ。嫌われ者のカラスをペットにするだなんて。ああでも、こうして見るととってもお似合いだわ。黒くて、汚らしくて、醜くて」


 ベリンダが歪な笑みを浮かべてソフィとクーを見下ろす。ソフィはぎゅっと口を引き結び、反論したい気持ちをこらえた。


(クーちゃんは汚くなんかない。醜くなんか……!)


 カラスが黒いのは当たり前。それに、クーは古い桶に溜めてやった水で日に何度も水浴びをするほどのきれい好きだし、せっせと羽づくろいをした黒い身体は艶々で、うっとりするほど美しいのだ。

 そう訴えたいけれど、ベリンダに説明したところで聞き入れられるはずがないことは、これまでの経験で嫌というほどわかっている。


「それで? いったい誰の許可を得て、我が伯爵家の敷地内でペットを飼っているのかしら?」

「許可、は、いただいていません」


 予想していた質問だったが、どうしても歯切れは悪くなった。


「まあ! 許可もなく飼っていたというのね。そんなことが許されるとでも思っていたの?」


 そのとき、ベリンダの敵意を感じ取ったらしいクーが、カァカァと威嚇するように大声で鳴き始めた。


「クーちゃん、お願い、静かにしていて、いい子だから」


 ソフィが小声で宥めるとクーはおとなしくなったが、その目は油断なくベリンダに向けられたままだ。


「……カラスの分際で生意気ね。飼い主に似てふてぶてしいこと」

「申し訳ありません……」


 素直に頭を下げたが、ベリンダは納得しなかった。


「あら、あなたの謝罪の気持ちはその程度なのね」

「……!」


 ベリンダの言わんとすることを察したソフィは、わずかな躊躇いの後、その場に膝をついた。小石で膝や脛が痛むのも構わず、さらに両手と額を地面につける。


「……勝手なことをして申し訳ございませんでした、ベリンダ様。どうかお許しください」


 土下座の姿勢を続けるソフィを見下ろすベリンダの口元が、隠しきれない愉悦で歪む。


「……ふぅん。でもねぇ、そもそも謝って済む話ではないのよね。その程度で勝手を許したのでは他の使用人達に示しがつかないでしょう? このことはお母様にも報告して、罰を与えてもらいますからね」

「……はい」


 どうせこうなるのだろうと思っていた。土下座くらいで、ベリンダが満足するはずがないのだ。


(鞭打ちと……きっと食事も抜かれてしまう。クーちゃんのエサをどうやって手に入れよう……)


 そんなソフィの思考は、続くベリンダの言葉で中断された。


「それから、きちんと始末もつけなくてはね」

「しまつ……?」


 地にひざまずいたまま顔を上げると、ベリンダが楽しそうに口の端を上げた。


「もちろん、そこの汚らしいカラスの始末よ。ほら、さっさと捕まえてちょうだい」


 ベリンダの合図で、後ろに控えていた使用人達がいっせいに動き出した。三人の男性使用人が、鋤や鍬や箒を手にクーに向かって行く。


「やめてくだ……あっ!」


 慌てて立ち上がろうとしたソフィだったが、ベリンダの侍女に後ろからおさげ髪を強く引っ張られ、無様に尻餅をついた。

 クーは「カァ」と声を上げ、慌てた様子でバサバサと空中に逃れた。しかしそのまま飛び去ることなく、近くの木の枝に留まり、「ガァガァ」と怒ったような声を上げながら、嘴で木の葉をちぎっては駆け寄る使用人達めがけて落とし始めた。


「こいつ!」

「カラスの分際で俺達をコケにしやがって!」


 まるで挑発するかのようなクーの行動に、使用人達がいきり立つ。農具を振り回し、届かないとわかるや、クーめがけて小石を投げ始めた。


「やめて!」


 再び立ち上がろうとしたソフィだったが、侍女やメイドに三人がかりで押さえつけられて地面に両膝をついた。両腕を後ろ手に捻り上げられ、うめき声が口から漏れる。

 それを見たクーの鳴き声が、ますます激しさを増す。

 

 「ガァーッ! ガァーッ!」と唸るような声で鳴きながら、ベリンダや使用人達の頭を掠めるように飛び回り始めた。

 「きゃっ」と短い悲鳴を上げ、ベリンダがしゃがみ込む。


「ちょっと! 早くあの忌々しいカラスをなんとかしなさい! 殺してもかまわないわ!」


 両手で頭をかばいながら、ベリンダが金切り声を上げた。


「こいつ! おとなしくしろ!」

「おい、そっちだ!」


 使用人達が農具を振り回す。それがクーの翼を掠め、ソフィは青褪めた。


「お願いです、やめてください!」


 震える声で使用人達に訴えかけるが、ソフィの声に耳を貸す者はいない。

 ソフィは地面に這いつくばったまま、顔だけを上げてクーを見上げた。


「クーちゃん! クーちゃん、落ち着いて! わたしなら大丈夫だから」


 ソフィの声が届いたのか、クーは鳴くのをやめて近くの枝に留まり、丸い目をソフィに向けた。ぎこちない笑顔でうなずいて見せる。


「ごめんね、クーちゃん。もう、一緒にはいられないの。巣立ちのときがきたのよ。今すぐ行って。お願い、いい子だから……」


 絞り出した声は掠れた。祈るような気持ちで見つめていると、やがてクーは悲しげに「クゥ」と一声鳴いてからバサリを翼を広げた。そのまま枝を飛び立ち、ソフィに背を向けて羽ばたき出した。


「二度と戻ってきては駄目よ」


 涙をこらえ、だんだん小さくなっていく背中に呼びかける。


(クーちゃん、さようなら。どうか元気で……)


 せめて姿が見えなくなるまで見送りたいという願いは叶わなかった。勢いよく頭を押さえつけられ、地面に鼻柱を打ち付ける。


「……ソフィ。この騒ぎの責任は取ってもらうわよ」


 痛みと衝撃に声を失うソフィの耳に、地を這うようなベリンダの声が届いた。

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