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私の魔法使い(長編版)【書籍化】  作者: 中村くらら


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5 ソフィの生い立ち

 伯爵一家が食事を終えた後にダイニングルームの掃除をするのも、夫人から直々に言いつけられた仕事の一つだ。たった一人でテーブルと椅子を丁寧に磨きあげ、床を掃き清める。


 ようやく使用人用の食堂に辿り着いたときには、他の使用人達はとっくに朝食を終えていて、がらんとした食堂の隅にパンが二切れ残っているだけだった。


「あの……」


 奥の厨房に向かって声を掛ける。数人のコックと見習いが立ち働いており、ソフィの声が聞こえていないはずはないのに誰も応えない。


「……あのっ、スープかミルクは残っていないでしょうか?」


 少しの逡巡の後、勇気を出して先ほどより大きな声で尋ねると、皿洗いをしていたコック見習いの少年が、一瞬だけソフィに目をやり、面倒くさそうに首を横に振った。ない、ということらしい。


「……ではせめて、お湯をいただけますか」

「そこ」


 コック見習いの少年が、顎でケトルを示す。

 ソフィは小さく頭を下げ、お湯を注いだポットと二切れのパンを手に食堂を出た。


 裏庭に出ると寒風が吹きつける。

 本当は温かいスープかミルクでお腹を満たしたかったが、希望は叶わなかった。お湯が貰えただけマシだと思うことにする。

 それに、今日はパンが二切れ残っていた。運が悪いときは一切れしか残っていないのだ。


 自室である小屋に戻り、ソフィは息をついた。食事はいつも、食堂ではなく自室で一人でとることにしている。

 狭くて暗い小屋だ。まともな家具は古いベッドと、引き出しの取っ手が外れかけたチェスト、それから小さなテーブルセットだけ。テーブルは足ががたついていて、椅子には背もたれもない。それでも裏庭の隅のこの小屋だけが、ソフィが唯一気を抜ける場所だった。


 ソフィはチェストの一番上の引き出しを開けた。中には食卓周りの小物や雑貨とともに、小さなブリキの缶がいくつも並んでいる。

 その内の一つを取り出し蓋を開けると、かすかに甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。缶の中には乾いて色褪せた小花がたくさん入っている。前の年の初夏に裏庭に自生しているのを見つけ、摘み取って乾燥させておいたカモミールだ。


 これを小さな匙で掬い、お湯の入ったポットに入れた。しばらく待ってから、黄金色に染まったお湯をカップに注ぐ。湯気とともに、林檎のような爽やかで甘い香りが広がった。

 その香りを胸いっぱいに吸い込み、それから一口飲んで、ソフィはほぅと息を吐いた。


『これはカモミールのお茶よ。ほら、夏の初めに一緒に白いお花を摘んだの、覚えてる? 甘くていい香りねぇ。カモミールのお茶は身体を温めてくれるの。こんな寒い日にはぴったりね』


 遠い日の、やわらかな母の笑顔が脳裏によみがえる。

 ソフィの母、アンは、小さな庭で草花を育てるのが好きな人だった。そして香りの良いハーブを日々の生活に取り入れるのが上手な人だった。

 お茶、料理、お菓子、ポプリ、飾り……。母が丁寧に整えた小さな家は、いつだって明るくて温かくて、心地の良い香りに満たされていた。


 七つのときに亡くなった両親の形見の品を、ソフィは何一つ持っていない。年月とともに薄れゆく両親との思い出を繋ぎとめるように、ソフィは裏庭で見覚えのあるハーブを見つけては、こうしてお茶にしているのだった。

 立ち上る湯気が目にしみ、ソフィは目を瞬いた。手の甲で目元を拭い、固いパンを咀嚼する。


 こんな生活を始めて、もう八年以上になる。

 物心ついた頃、ソフィは父と母と三人で、カナル王国の西の隣国ウェスターナの、とある小さな町で暮らしていた。

 けれど穏やかな生活は、七歳の誕生日に一変した。家族三人で乗っていた馬車が事故に遭い、両親をいっぺんに失ったのだ。


 孤児院に身を寄せていたソフィは、その二ヶ月後、父方の祖父母を名乗るカナル王国の貴族に引き取られた。それが先代のクラプトン伯爵夫妻であった。

 父がカナル王国の貴族階級の出身、それもクラプトン伯爵家の長男であったことを、ソフィは初めて知った。とてもではないが本当のこととは思えなかった。


 ソフィの知る父、モーリスは、家族を養うために毎日街はずれの染色工場に働きに出ていて、たまの休みには絵を描くのが趣味という人だった。贅沢をすることもない。口数少なく穏やかで、子ども相手にも偉ぶることのない人だった。


 理解が追いつかないままに立派な馬車に乗せられ、見たこともないような大きなお屋敷に連れてこられた。

 そこには、祖父母の他に叔父家族が住んでいた。亡き父に似た面影の男性と夫人、そしてソフィと同じ年頃の女の子と、少し大きい男の子。


 ソフィの目は、この二人の子ども達に釘付けになった。とりわけ女の子は、きらきらとした金の髪にぱっちりした大きな青い瞳、フリルがたっぷりついた綺麗なワンピースを着ていて、まるで絵本に出てくるお姫様のようだった。


『セオドアは二つ年上、ベリンダはあなたより半年ほど誕生日が早いのよ。本当は従兄弟なのだけど、お兄様、お姉様と思って頼りになさいね。セオドア、ベリンダ。ソフィに優しくしてあげるのですよ』


 祖母から二人を紹介されたとき、ソフィの心は両親を失って以来初めて浮き立った。

 一人っ子だったから、ずっと兄や姉というものに憧れていた。しかもそのお姉様は、まるでお姫様のように綺麗なのだ。


『えっと、はじめまして、ソフィです』


 ソフィは緊張に頬を染め、もじもじと挨拶した。けれどベリンダからの返事はなかった。ソフィを見下ろし、形の良い眉をきゅっと寄せただけだった。その青い瞳に浮かぶ感情が好意的なものでないことに気づくのに、さほど時間はかからなかった。


 おずおずと周りを見回してみれば、叔父夫婦もベリンダと同じような表情をしていた。

 祖父は値踏みするように、セオドアは珍しいものを見るような目つきでソフィを眺めていた。


 それでも祖母だけは親切で、ソフィのことをきちんと孫として扱ってくれた。ソフィはベリンダと同じような綺麗なワンピースを着て、使用人に身の回りの世話をされる生活を送ることになった。

 家庭教師をつけてくれたのも祖母だ。ソフィは亡くなった両親から教わって簡単な文字を読むことくらいはできたが、学校に行ったことはなかった。貴族の世界の行儀作法など、もちろん何一つ知らない

 戸惑うことの多い中、ソフィは毎日懸命に勉強に励んだ。祖母が褒めてくれるのが嬉しかったし、そうしていなければこの家に居続けられないのではないかという不安もあった。よそよそしい家族の中にあって、祖母だけが頼りだった。


 そんな生活は、半年後、祖父母の急死と共にあっけなく終わりを告げた。

 跡を継いだ叔父夫婦により、ソフィは綺麗なワンピースも部屋も取り上げられ、裏庭の隅の小屋に追いやられた。使用人の古着を与えられ、朝から晩まで雑用を言いつけられた。


 まるで使用人のような生活だが、本当の使用人とは違う微妙な立場。そのためか、他の使用人達からは遠巻きにされ、彼らの仲間に入ることもできなかった。もしかしたらソフィに関わらないようにと、伯爵夫妻から指示を受けていたのかもしれない。


 寂しく、希望のない生活。それでも、衣食住が保証されているだけ恵まれているのだと、ソフィは自分に言い聞かせている。何の技能も伝手もない少女が、伯爵家を出て一人で生きていくのは容易ではない。


(だけど、いつか必ず、この家を出る。必ず……)


 乾いたパンをもそもそと飲み込んだときだった。小屋の扉が控え目にノックされ、ソフィはぎくりと身体を強張らせた。

 ソフィの寂しい小屋を訪れる者は、そう多くない。その全員が、ソフィにとってはありがたくない訪問者だった。


「ソフィ、僕だよ。いるんだろう? ここを開けておくれ」


 忍んだ声の主に気づき、ソフィは慌てて立ち上がり扉を開けた。

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