21 魔法使いなんて待たない
ソフィの目の前で、青紫色のお茶が一瞬にして淡いピンク色に変わったのだ。
「すごい! これって……?」
目を輝かせてアルマを見ると、アルマは悪戯が成功した子どものようにニヤリと笑った。
「これはウスベニアオイのお茶だよ。で、こっちは蜂蜜にレモンを漬け込んで作ったシロップ。ウスベニアオイにレモン汁を垂らすと色が変わるんだ。どれ。もう一度やって見せようかね」
言いながら、アルマは自分のティーカップにシロップを入れて混ぜて見せる。青紫色が鮮やかにピンク色に変化するのを、ソフィは瞬きも忘れて見守った。
「きれい……」
ほぅと漏れるため息。自然と口角が上がる。
アルマが目を細めた。
「だろう? まるで魔法みたいだとよく言われるよ。ま、本当の魔法ってのはこんなもんじゃないんだけどね……。さぁ、飲もう。ウスベニアオイのお茶は見た目が楽しいだけじゃない。肌にもいいからね」
「はい……」
アルマにならい、ちびちびとティーカップに口をつける。可愛らしいピンク色と、レモンシロップのほのかな甘さに、冷たく凍りかけていた心がじわりとゆるんだ。
カップをソーサーに戻し、ソフィは小さく息をついた。
ほぼ同時にカップを置いたアルマが、ふいに表情をあらためた。
「……ソフィ、お前さんのその火傷痕のことだがね」
ソフィは無意識に背筋をのばし、アルマの次の言葉を待つ。
「お前さんには悪いことをしたと思ってる。実験台だなんて言って、無駄に期待を持たせちまった。お前さんはまだ若いし、完全に消すのは無理だとしても、いくらか薄くなればと思ったんだがね……」
神の前で懺悔するかのように静かに紡がれる言葉に、ソフィは黙って耳を傾け続ける。
「こんなに変化がないとは思わなかったんだ。言い訳のように聞こえるだろうけどね、湿布や軟膏にまるっきり効き目がないわけじゃないはずなんだよ。その証拠に、お前さんの肌ははじめの頃より確実に柔らかくなってるし、潤いも感じられる。それなのにどういうわけか、火傷痕には全くと言っていいほど改善が見られない。火傷を負ってから年月が経ってるせいなのか、それとも何か他に理由があるのか……」
考え込むようにしばらく沈黙してから、アルマは「魔法使い……」と呟いた。はっと、ソフィの息がほんの一瞬止まる。
「ツァウバルの魔法使いならきっと、ソフィのその火傷痕も、きれいに消せちまうんだろうけどね……。お前さん、本物の魔法使いに会ったことがあるかい?」
「え……と……」
ソフィは思わず口ごもった。次第に速くなる鼓動を宥めるように胸に手を当てる。
幸いなことにアルマはそんなソフィの変化には気づかず、言葉につまったのを単に否定の意味に受け取ったようだった。
「いや、なくて当然さ。魔法使いは基本的に、ツァウバル王国にしかいない。そして彼ら彼女らは、自分の国からあまり出たがらないからね。……だけどアタシは会ったことがあるんだよ、本物の魔法使いに」
「本物の、魔法使い……」
「アタシがまだ若いときの話さ。ツァウバル王国は魔法使いの国として有名だけど、実は世界で最も薬草学が進んだ国でもあってね。ツァウバルの魔法使い達は幼い頃から自分の薬草園を管理して、ごく当たり前のように薬草を研究し、使いこなしてる。ツァウバルの魔法使い達が作る薬はね、普通の薬師が作る薬の何倍も効き目があるんだよ」
アルマの話に耳を傾けるうち、ソフィはその内容に引き込まれていった。いつの間にか嫌な動悸も収まっている。
「それだけじゃない。ツァウバルの魔法使いだけに伝わる秘薬ってのがあってね」
「魔法使いの秘薬、ですか?」
「そう、奇跡のような特別な力を持った薬さ。例えば若返りの薬、仮死状態にする薬、嘘がつけなくなる薬、惚れ薬……。それから、万病を癒す薬。アタシはそんな秘薬の作り方をどうしても知りたくてね……。伝手もないのに一人でツァウバルに乗り込んだのさ」
「それで、どうなったんですか……?」
「異国人の弟子は取らないと断られたんだけど、諦めきれなくてね……。一年間、毎日通いつめたら相手が根負けして、小間使いとしてそばに置いてくださることになった。銀の髪に紫の目をした、それは美しい御方だったよ」
ソフィは目を見開いた。
銀の髪に紫の瞳の美しい魔法使い。
刹那、幼い頃に夢で見た少年の姿が、鮮やかに脳裏に蘇る。けれどそれはほんの一瞬のことで、たちまちその輪郭はぼやけ、少年の姿は霞のように跡形もなく消えてしまった。
代わりに頭に浮かんだのは、クラプトン伯爵家にいた頃、ベリンダの口から幾度となく聞かされた人物のことだった。
「あの、ツァウバル王国の魔法研究所の所長をされている方も、銀の髪に紫の瞳だと聞いたのですが……」
ソフィがおずおずとそう口にすると、アルマは驚いた様子で小さく目を瞠った。
「おや、よく知ってるね。今の塔主――魔法研究所の所長は、王弟ジークベルト殿下が務めていらっしゃるそうだよ。アタシはお目にかかったことはないけど、銀の髪と紫の瞳は、ツァウバルの王族の特徴だからね」
「えっ、ではもしかして、アルマさんのお師匠様も……?」
そう尋ねると、アルマは小さく苦笑いを浮かべた。
「ただの小間使いがあの御方をお師匠様だなんて、おこがましくて呼べやしないよ。でも、そう、あの方はツァウバルの王族でいらっしゃった。先々代の国王陛下の妹姫。ジークベルト殿下の大叔母にあたる御方だよ。……およそ一年、あの方のおそばで多くのことを学ばせていただいたよ。得がたい経験だった。結局、秘薬を作ることはアタシにはできなかったけどね」
「アルマさんにも作れないなんて……」
「魔法使いの秘薬は、ただ人には作れないんだ。魔法使いでなければね。そしてアタシは魔法使いにはなれない。魔法使いの素質の有り無しは生まれながらに決まってる。そう、血筋でね。アタシはそれを、一年かけて理解したってわけさ」
アルマの目は、ティーカップの水面に向けられている。その瞳には悲しみの色が宿っているように、ソフィには見えた。
けれどウスベニアオイのお茶を飲み干し、再び顔を上げたときには、アルマはもういつものアルマだった。
「そういうわけで、お前さんの火傷痕を魔法で治しちまうことは、残念ながらアタシにはできない。だが薬師として、できる限りのことをしたいと思ってるよ。簡単にあきらめるってのは、性に合わないもんでね。もちろん、お前さんが辛くないなら、だけど……」
希望と失望を繰り返すってのは堪えるもんだからね、とアルマが付け足す。
(辛くないと言ったら、嘘になる。だけど……)
ソフィは顔を上げ、まっすぐにアルマの目を見た。
「わたしも、あきらめたくありません」
ソフィの言葉に、アルマは無言で目を細めた。
「魔法使いの助けを待つなんて、とっくの昔にやめました……」
そう、ソフィは思い知ったのだ。八歳の冬、あの地下室で。良い魔法使いが自分を助けに来てくれることなんて、決してないのだと。
「わたしは、わたし自身の力で生きていくしかない……。そのためにアルマさん、力を貸していただけないでしょうか。わたしにもっと、薬草のことを教えてください。お願いします!」
ソフィは椅子から立ち上がり、がばりと頭を下げる。図々しい願いであることは承知している。アルマにはすでに、たくさんのものを与えてもらっているのだ。
「よく言った、ソフィ」
その言葉に顔を上げると、アルマが楽しげな笑みを浮かべていた。
「お前さんならいつかそう言い出すだろうと思っていたよ。いいだろう、今日からお前さんはアタシの弟子だ。厳しく仕込むからね、覚悟するんだよ」
ソフィの顔がパッと輝く。
「はいっ。ありがとうございます!」
こうしてソフィは、宮廷薬師アルマの弟子になった。
「夢で見た少年て何のこと??」と思われた方は、第1話プロローグを読み返して頂ければと……!




