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15 王宮の魔女

 肥溜めに落ちたソフィを助けてくれたのは、頭まですっぽりと黒いローブをかぶった老婆だった。

 とはいえ、老婆一人の力でソフィを引き上げることは難しかった。


「ちょいと、そこの嬢ちゃん! ぼさっと見てないで手を貸しな!」

「へぁ? は、はい……!」


 我に返って走り寄ってきたラナの力も加わり、ソフィはどうにか肥溜めから脱出できたのだった。


「嬢ちゃん、今日はお前さんがこの子の分まで仕事をしな。文句は受け付けないよ」


 老婆は、気の抜けた顔で立ち尽くしていたラナにピシャリと言い渡すと、「ついて来な」とソフィに視線を送り、さっさと歩き出した。その勢いに引きずられるように、ソフィは後に続いたのだった。


 謎の老婆の背中を追って、汚物まみれの身体で王宮の敷地内を進む。

 ソフィの異様な姿に、すれ違う他の使用人達が何事かと目を瞠るが、声をかけてくる者はいない。老婆の足は、王宮の北西の端の肥溜めから、さらに北の外れの方へと向かっている。じきに、すれ違う者もいなくなった。


 やがて石畳の歩道は途切れ、舗装されていない細道にさしかかった。老婆は腰が曲がっているわりに、しっかりとした足取りで進んでいく。

 その真っ黒な後ろ姿を追いながら、徐々に冷静さを取り戻したソフィは、同じ下働きの者たちの噂話を思い出していた。


 この白薔薇宮には『魔女』が住んでいる。

 魔女は全身黒ずくめで、月の出ているうちにどこからともなく現れ、夜明けとともに姿を消すのだという。


 気にはなりつつも、ラナ以外に話し相手のいないソフィに、魔女の噂についてそれ以上詳しく知る術はなく、それらしい人物を見かけることもなかったのだが――。


(……このおばあさんが、噂の魔女?)


 そう思い至った瞬間、心臓がドクンと嫌な音を立てた。足が止まる。


(魔女。魔法使い? だとしたら逃げなきゃ、今すぐ。……だけど)


 肥溜めからソフィを引っ張り上げた、老婆の手のやわらかさを思い出す。ぎゅっと手を握ってほどき、ソフィは再び歩き出した。


 さらに歩くことしばし。森のように木立の生い茂る細道を抜け、辿り着いたのは花畑に囲まれた小さな一軒家だった。

 木立の合間にぽっかり開けた場所。

 明るい陽射しが降り注ぐ中、花から花へと蜜蜂が忙しく飛び回っている。老婆以外に人の気配はなく、聞こえるのは虫や鳥の声、それから木々の葉や草花が風で擦れ合う音だけ。

 まるで別の場所に迷い込んだかのような錯覚を覚える。


(王宮の中にこんな場所があったなんて……)


 ぼんやりと辺りを見回していると、「何してんだい、こっちだよ」と老婆から声がかかった。腰の曲がった黒い背中を追い、家の裏手に回ると、蔦の絡まる古びた井戸があった。


「まずはそこの井戸端であらかたの汚れを落としな。さすがにそのまま風呂場に入れるわけにゃいかないからね。ああ、他の人間は来やしないから安心おし。その間にお湯を沸かしておいてあげるよ。風呂場はそこの裏口を入ってすぐ右手だ、後で来な」


 ソフィが口を挟む間もなく立て続けに言うと、老婆はさっさと裏口から中に入ってしまった。


「は、はい……!」


 数泊遅れで返事をしてから、ソフィは汚物にまみれた服や靴を脱ぎ、汲み上げた井戸水で身体を清め始めた。胸から下全部が汚物にまみれた状態で、いったいどうすればと途方に暮れていたから、老婆の申し出はありがたかった。


 裸になって冷たい井戸水を全身に浴びると、ようやくまともに息ができるようになった気がした。けれど、まとわりついた臭いはなかなか消えてくれない。何度も何度も井戸水を浴びると、夏場とはいえさすがに身体が冷え、ぶるりと震えた。


 小さくノックしてから裏口の扉をそっと開け、さらに右手の扉から風呂場に入ると、小さな湯舟はすでにお湯で満たされていた。

 温かいお湯を肩から浴びると、冷えきった身体の強張りがじわりと緩む。ほっと息が漏れた。


 コンコンと忙しないノックが聞こえたかと思うと浴室の扉が拳一つぶん開き、ぬっと老婆の手だけがのぞいた。


「石鹸だ。使いな」


 投げて寄こされたものを慌てて両手で受け取ると、ほんのりと草色をしていた。


「外にタオルと着替えを置いておくよ。あたしの服じゃ合わないだろうが、まぁ辛抱するんだね」

「あ、ありがとうございます……!」


 すぐに閉じられた扉に向かってお礼を言ったが、老婆はすでに立ち去ってしまったようで、返事はなかった。


 石鹸は新品らしく、角はピシリと尖っている。くんと鼻を寄せると爽やかにミントが香った。


(いい香り……)


 丁寧に泡立てるにつれ、ミントの香りが広がっていく。大きく息を吸い込むと、爽快感のある香りが鼻から肺にすうっと抜け、身体の中に澱んだ汚物の臭いを吹き飛ばしてくれたようだった。

 細かい泡で全身をくまなく洗うと、一ヵ月の間に染みついた臭いもきれいさっぱり消えたように思えた。


 湯舟で身体を温めてから風呂場を出て、老婆が準備しておいてくれた服に袖を通した。

 くたびれた黒のワンピースは、ソフィが着ると袖や裾は短く、そのくせ身頃はぶかぶかだったが、煎じたハーブのような匂いがして不思議と落ち着いた。


(おばあさんにちゃんとお礼を伝えなきゃ……)


 そろそろと廊下を進んでいくと、少しだけ開いた扉の隙間から何やらゴロゴロと音が聞こえてくるのに気づいた。

 引き寄せられるようにその扉を押し開けたソフィは、小さく息をのんだ。


 南側の大きな窓からさんさんと光が差し込む部屋。

 部屋中に満ちるのは様々なハーブの入り混じった匂い。

 そこはハーブに満ちた部屋だった。


 窓際の壁に沿って置かれた台にはいくつものザルが並び、ハーブが広げられている。

 その上に張られたロープには、少量ずつ束ねられたハーブがピンチで留められている。

 西側の壁一面に造り付けられた棚には、ラベル付きの瓶や缶が整然と並んでいる。ソフィの足は引き寄せられるようにその棚の前に向かった。


「わぁ……!」


 下から上へ、左から右へ。瞬きも忘れ、棚にずらりと並ぶ大小様々な瓶や缶に視線を巡らせる。

 ラベルに書かれているのはどれもハーブやスパイス、果物の名前。

 小さめの瓶には乾燥させた葉、花、木の実。葉の形そのままのものもあれば、粉状になるまで細かく砕かれたものもある。中くらいの瓶には、液体に浸かった葉や花。大きい瓶はシロップ漬けだろうか、ほんのり色づいた液体の中にぷかぷかと果実や木の実が浮かんでいる。


 両親と住んでいた家の台所にもいろいろなハーブやスパイスの瓶が常備されていたが、数も種類もその比ではない。中には聞いたことのない名前が書かれたラベルもあった。


「すごい……!」 

「興味があるかい?」


 背後から聞こえたしわがれ声に、ソフィははっと我に返った。

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