いずれは、今にします
「なんの騒ぎだ?」
「ここではたまにあります……」
アイゼンとラドニーの耳に届くのは、かすかな笛の音と怒号。どこかで聞いた声が混ざっていたが、きっと気のせいだろう。
それよりも、ラドニーはここまで来て、決心がぐらつくのを自覚していた。
先ほどまでは、街を案内していて、色んな所を巡った。露店を冷かしたり、武器屋や防具屋を覗いたり、街の名所を巡ったり。
そんなアイゼンとの楽しいひと時が嘘のようだった。
いくら深呼吸しても、動悸が収まることがない。アイゼンの言葉にも、どこか上の空で返していた。
こんな恐怖が今までにあっただろうか、というほどだ。
どんな魔獣、どんな秘境でも臆さず挑んできた。今度のそれは、人型で、自分の家だ。
なのに、後一歩が踏み出せない。
(……本当に、自分の家なのか、ここは?)
その疑問が、まず先に立つ。
目の前の屋敷は、ラドニーの記憶そのままだ。
両開きの格子状の門、飾り気のない屋敷、庭に植えられた自分の好きな花。
ここからも見える、二階の角部屋が自分の部屋だった。
その向かいにカタリナの部屋。隣は自分の面倒をよく見てくれた、侍女のターニャの部屋。
執事のゴームレットの部屋もどこだったか覚えている。コックのヘルマの部屋も、彼女の独壇場だった厨房の場所も。庭師のケニックの部屋も。
みんな、いい人たちだった事を覚えている。
孤児となった自分を、カタリナの義理の娘として暖かく迎えてくれたことを、覚えている。
同じ街に住んでいるのだ。家に帰らなくても、顔を合わせる機会はこれまでいくらでもあった。
実際に合わせたこともある。けれど、その度に自分は顔を背けてきた。声をかけられても、いないものとして振舞ってきた。
暖かさに溺れては、きっと忘れてしまう。あの怒りを、あの笑顔を、あの喪失感を。
それを忘れないために、自分を孤独に置いてきた。
(記憶はある。けれど、わたしはここにいたのだろうか。成し遂げたい目的があったから、脇目を振る暇がなかった……ということもできるけれど)
そんな言い訳を快く受け止めてくれる人たちばかりだからこそ、なおさら迷う。本当に帰っていいのかと。
「ラドニー。何度も言うが、俺のことはどうでもいい」
「……アイゼン様?」
いつの間にか俯いていた視線を、力強い声が引き上げた。
そこにあったのは、いつもの黒い瞳だ。
「そんなに辛いなら、逃げていいのではないか?」
「逃げて、いい?」
「ああ」
頷くアイゼン。
「そのタイミングではないと言っていただろう。ならば、自分のタイミングが来るまで待ってもよかろう」
「……いいのでしょうか」
「誰が責めるというのだ?」
「…………」
きっと誰も責めないだろう。
言いだしたカタリナも、きっとため息を吐きつつ、「しょうがない子だねえ」とでも言ってくれると思う。
家の者たちだって、もはや帰って来ることもないと思っているか、すでに疎ましく思っていて、帰ってきて欲しくないと思っているか。どちらにしろ、責めはしないだろう。
きっと自分だけが責め続けて、後悔し続けるのだろう。
それなら、今までと何も変わらない。
(だったら、このままでも……)
踵を返そうとしたその瞬間。
「それに、いずれは立ち向かうのだろう?」
動きを止められた。
その声には、信頼が込められていた。
その瞳には、確定した未来が見えていた。
「……アイゼン様は」
震える唇で、ラドニーは笑みを浮かべた。
「……厳しい方、ですね」
アイゼンが行くように言ってくれたら。
あるいは、家から誰かが出てきてくれたら。
自分は決断せずに、流れに任せて家に入れたかもしれない。
けれどそれを良しとせず、すべてを自分に任せ、信じるとまで言う。
ラドニーにとっては、厳しすぎる言葉だった。
「そうか?」
アイゼンは自分の言葉を意に介していないようだった。
彼は、思ったことを言っただけなのだろう。
だが、ラドニーにとっては、その言葉は鋭すぎる楔となった。
(……この信頼に背くのか? ここで逃げて、この信頼に甘え続けるのか? そうして、どうするつもりだ。どんな気持ちで、これからアイゼン様に相対するつもりだ?)
落ちていた視線が上を向く。
(アイゼン様だけじゃない。いつまで裏切り続けるつもりだ。カタリナは待ってくれている。みんなも待ってくれているかもしれない。待ってないかもしれない? だったら、それを確かめる。行かない言い訳にはならない)
手が震える。それでも、心は高揚している。暖かさに満ちている。
それをくれた男の瞳を、真正面から見つめることが出来た。
そうだ。ここで引き返したら、もう二度と、この人の瞳と真正面から向き合えない。
だからこそ、ラドニーは宣言して、逃げ腰になる自分の尻を蹴り飛ばすことが出来た。
「……いずれは、今にします」
「震えているぞ、ラドニー」
「武者震いです」
「それは頼もしい」
頷くアイゼン。
「では、参ります」
緊張のせいか、言葉が仰々しくなってしまうラドニー。
「うむ」
指摘せずに頷くアイゼン。
ラドニーは門柱に備えつけられているノッカーに、震える手をかけた。
これは魔道具の一種で、ここで叩けば中へと来訪が伝わる。また、通話機能も備えている。
これを叩けば、もう後戻りはできない。
だがラドニーは、もはや躊躇わずにノッカーを叩いた。二度、軽快な音が響き渡る。
「お帰りなさいませえええっ!」
「うわ、びっくりした!?」
門柱の影から誰かが飛び出してきて、門越しに叫んだ。
あまりに突然のことに、驚いて後ずさってしまうラドニー。
「……ヘルマと、ケニック?」
コックのヘルマと、庭師のケニックだった。
二人は涙を浮かべながら、慌ただしく門を開く。
「ようやく帰って来てくださったんですね! さあさ、どうぞ中に! お連れ様も!」
コックのヘルマは、ふくよかな体形の中年の女性だった。感涙にむせび、ラドニーの手を取る。
「入った入った! いやあ、めでたい! 今日はパーティーだ! 飲むぞ、飲むぞー!」
庭師のケニックは、人間ではなく年配のドワーフのようだった。特徴的なずんぐりむっくりした体形を跳ねさせ、小躍りしている。
「え、あ。もしかして二人とも、ずっと外で待っていたのか?」
手から伝わるヘルマの体温がそれを物語っていた。
途端にばつが悪そうな表情になる二人。
アイゼンが頷く。
「うむ。先ほどから気配があった」
「気づいてたんですか!?」
驚くラドニー。そうなると、先ほどまでのアイゼンとの会話も聞かれていたことになる。それを振り返り、赤面してしまうラドニー。
「ふ、二人とも、趣味が悪いぞ!? アイゼン様も、気づいていたのなら教えてください!」
「敵意はなかったのと、もしかしたら、ラドニーを驚かせたいのかもしれん、と思ってな。無粋と思ったから何も言わずにおいた」
「いやあ、話が分かる御仁だ! どんな客が来るかと思っていたが、美味い酒を交わせそうじゃないか!」
「本当に我慢しましたよ、門を叩いてくれるまで……!」
すでにヘルマのハンカチは重くなっていた。
それでラドニーは気づく。
ここで帰っていれば、二人を無駄に待たせた上、また失望させていたのだと。
ラドニーが決断するまで、ただ待っていたのだと。
アイゼンはその二人の姿勢を感じながらも、ラドニーを信じて、その決断を尊重したのだと。
自然、ラドニーの頭が下がった。
「すまない。待たせてしまった」
色々な思いのこもったラドニーの言葉に、ヘルマは滂沱の涙を流し、ケニックは涙を浮かべながら何度も頷く。
「なんてこたあない! さ、入れ入れ! アイゼンさんだったか、あんたもな!」
「そうですよ! さあさあ!」
「あ、ああ」
「お邪魔しよう」
戸惑うラドニーの右手をヘルマが、左手をケニックが取って、まるで引きずるように先導する。開けっ放しだった門を閉めて続くアイゼン。
「おお、すまんな! 気が利くな、あんた!」
「問題ない」
ラドニーは迫る屋敷の玄関に重圧を感じ、背後で起こっている会話どころではなかった。アイゼンが着いて来てくれることを祈り、ヘルマとケニックが開け放った玄関をくぐった。
目の前が大きく開けた。
そこは屋敷のロビーだった。
そこまで広いわけではない、けれど、暖かみを感じさせる調度品が並ぶ。ラドニーには、それがとても懐かく、変わっていないことに嬉しさを感じる。
二階へ至る階段の前、玄関をくぐった真正面には、二人の人物が待っていた。
一人は、柔和な笑みを浮かべた女性。侍女の様相をしている。
もう一人は燕尾服に身を固めた、挨拶をする男性。黒縁眼鏡と顎髭が特徴的で、きりりと口を真一文字に結んでいる。
「お帰りなさいませ。ようこそお越しくださいました、アイゼン様。お話はカタリナ様から伺っております」
「ゴームレット。ターニャも。みんな、久しぶりだ」
家の四人の顔を見渡し、次いで、ラドニーはうつむいた。
「本当に、久しぶりだ。……随分、待たせてしまったみたいだ」
ラドニーの身体が震えだす。罪深さと後悔に押しつぶされてしまいそうだった。
「今更、こんなことを言っても許してもらえないかもしれないが」
ぎゅっと手を握る。
「今まで、ごめんなさい。本当に色々と、ごめんなさい」
深く頭を下げるしかない。出来ることは、それだけだった。
ラドニーに対する返事は、しばらくなかった。
それを、当然のこととして受け止めるラドニー。
ゴームレットが一歩、代表のように踏み出した。
「お嬢様。一つ、伺っても?」
頷くラドニー。
「お帰り頂いた、ということでよろしいでしょうか?」
「……今更、と思うかもしれないが。みんなが、許してくれるなら」
「お顔をお上げください、お嬢様」
促され、恐る恐る顔を上げる上げるラドニー。
真正面にはゴームレット。彼は背が高いので、必然的にラドニーが見上げる形となる。
ゴームレットの唇は依然、真一文字に結ばれていた。その唇は、僅かに震えている。
(怒っているのだろうな。当然だ。今更、虫のいい話だろうから)
「それでしたら、まず最初にお聞きしたい言葉があります。なにかお分かりですか?」
問われ、ラドニーは困惑した。
謝罪であれば、こんな言い方はしないだろう。
視線が泳ぐラドニーの視界に、ヘルマ、ターニャ、ケニックがいる。
三人はなにやらそわそわしていて、落ち着かないようだ。
どうやら、ゴームレットのいう言葉を、三人も待ち望んでいるようだ。
ラドニーは訳が分からなかった。
視線を泳がせた末に、アイゼンへと辿り着く。
彼はここまで、何も口出しをして来なかった。そして、今も何も言わず、ただただラドニーへとその黒い瞳を向けるだけだ。
その、見守るだけの瞳に、ラドニーの心は落ち着いてゆく。
(どうしてこんなに落ち着くんだろう。不思議だ)
だからこそ、彼女はそれに思い至れたのかもしれない。
(そうか。わたしは、帰って来たかったんだったな。帰って来たんだな。なのに、まだ言っていない言葉があるじゃないか)
それを口に出すのは怖い。否定されるかもしれないからだ。
けれど、それは自然に口から零れ出た。
「……ただいま、みんな」
堪えきれず、ゴームレットの瞳から滂沱の涙が零れ落ちた。
「くっ、おお、おおおおおおおっ……!」
天井を仰ぎながら、膝から崩れ落ちるゴームレット。
「ゴ、ゴームレット? どうした?」
いきなりのことに驚くラドニー。ゴームレットだけではなく、ヘルマも号泣している。ターニャも、ぼろぼろと涙をこぼしていた。ケニックもしゃがみ込んで顔を伏せている。
ゴームレットが天に向かって叫ぶ。
「神よ、感謝いたします! 今日は我が人生最良の日! お嬢様が、やっと帰って来て下さった! 私は、この日をどれほど待ち望んだことか……!」
「え、と。ゴームレット。怒っていたんじゃないのか?」
「そんなわけがありません! 嬉しくて泣くのを我慢していたのです! それどころか、私が一番にお嬢様をお迎えしたかった! なのに、なのに……!」
ゴームレットに睨まれて、ぎくりと身じろぎするヘルマとケニック。
そこで、ラドニーはぎゅっと抱きしめられた。いつの間にか近寄ってきていたターニャだ。
「タ、ターニャ?」
「背が伸びましたね、お嬢様。もう、私は追い抜かされてしまいました」
ターニャはラドニーより年上だが、言う通り、もうラドニーはターニャの背丈を追い抜いてしまった。
二年前はそうではなかった。申し訳なさを感じるラドニー。
「すまない」
「いいのですよ。こうして、戻って来てくださったのですから」
ターニャが頭を撫でてくる。こうやって、子ども扱いされるのも随分久しぶりだ。けれど、それがとても心地よい。
そんな雰囲気の中、ゴームレットはヘルマとケニックににじり寄っていた。
「お嬢様を私より先にお迎えするだけでも許しがたいというのに、家の外で待ち構えるなど、貴族の使用人としてあるまじき行為。二人とも、酌量の余地はないと知れ」
「いや、待った、ゴームレットの旦那! 今日は特別な日ということで、ここは一つ!」
「そうですよ! 最良の日に水を差すなんてあんまりです!」
「それはお前たちが先だろう……!?」
ラドニーの目には、そんな光景が映っている。いつか見た、和気あいあいとした風景が。
そして、その先にある、佇むアイゼンの姿も。彼は、「よかったよかった」と満足そうに頷いていた。
「いや、と言うか、お客様の前だぞ! 何をしているんだ、わたしたちは!」
いつの間にかターニャの頭を撫でていた手を止めて、ラドニーが叫んだ。
自分の、また、身内の恥ずかしいところを見せてしまい、ラドニーとしては赤面するしかない。
「うおおっ!? な、なんと、わたしとしたことが大変な失礼を!」
「あらまあ、まあ。失敗してしまいました」
「なんてこった」
「も、申し訳ございません!」
ゴームレットは膝を払い、涙の跡をハンカチで拭いて手早く身を整え、アイゼンに相対した。
ターニャはおっとりとした仕草でラドニーから名残惜しそうに離れると、壁の傍に控えた。
ヘルマとケニックも、慌ててターニャに並んだ。
先ほどの醜態を忘れ去ったかのように、ゴームレットが慇懃に一礼する。
「申し訳ありません、アイゼン様。醜態を晒した事、なにとぞご容赦頂ければと存じます」
「別に構わん。いいものが見れたと思っただけだ」
「寛大なお心に、感謝いたします」
「言わないでください、アイゼン様……!」
満足そうな笑みのアイゼンに対して、ラドニーは強烈な恥ずかしさに悶えて、顔を覆うばかりだ。
ゴームレットは、これが本性だとばかりに挨拶を続ける。
「改めまして、ようこそいらっしゃいました、アイゼン様。私はフォーンゴーン家に仕えます、ゴームレットと申します。カタリナ様から、当屋敷へご滞在なさる事、聞き及んでおります。どうか、我が家と思っておくつろぎくださいませ」
「丁寧な挨拶、痛み入る。アイゼンだ。無作法者ゆえ、足りぬところもあるだろうが、よしなにして欲しい」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
次いで、ヘルマ、ケニック、ターニャと紹介された。
アイゼンは先ほどからのやり取りで全員の名前を知っていたが、それには触れずに紹介を受けた。
「カタリナ様は多くを召し抱えるのを好みませんので、これで全員となります。手が行き届かなくなるようなことは決してございませんので、ご安心くださいませ」
「世話になる」
「カタリナ様から長旅と聞いておりますので、まずは湯浴みをどうぞ。当屋敷は小さいながらも、入浴施設は極上と、評判でございます」
「ラドニーが先の方がいいのではないか?」
アイゼンがラドニーを見た。ラドニーは、先ほどの恥ずかしさがまだ残っているのか、顔を赤くしたまま苦笑した。
「いえ、アイゼン様。ここはわたしの顔を立てさせてください。お客様に先に入っていただかないと、わたしとしては居たたまれません」
「そういうものか。ならば、先に頂こう」
「俺が案内しますぜ。こっちです」
「分かった」
ケニックに連れられ、アイゼンは湯浴みに向かった。
「お嬢様っ」
「わ、ターニャ?」
アイゼンとケニックの姿が見えなくなると、ターニャはラドニーに抱き着いた。
「い、いきなりどうしたのだ」
「だって、まだ全然堪能していませんでしたもの」
「いや、離れてくれ。わたしは汚れている」
「だからなんです? 私は気にしません」
「わたしが気にするのだが……。そう言えば、小さい頃もよく抱きつかれていたな……」
しみじみと思いだすラドニー。
ラドニーとターニャの抱擁を、ヘルマは感涙を浮かべて眺めている。また、このような風景が戻って来てのうれし泣きだ。
「やめんか、ターニャ。お嬢様もお疲れのご様子。早く休ませてさしあげんか」
「あら、わたしとしたことが」
ようやくラドニーから離れるターニャ。一息つくラドニー。
「その……わたしの部屋は、まだあるのだろうか」
重大なことに気づいて、恐る恐る、誰ともなしに聞くラドニー。
そのラドニーの疑問に、ゴームレットはじめ、ヘルマもターニャも若干呆れ顔だった。
「当然でございます。そのままでございますよ。それどころか、きちんと毎日お手入れお掃除、欠かした事はございませんよ」
「そ、そうなのか?」
胸を張るヘルマに、目を丸くするラドニー。それも当然だ。そんな行為、自分だったら虚しくてとてもしていられない。
それを、まさか二年近くもしていたというのか。
「……そうなのか。すまない。もっと、早く帰ってくるべきだった」
「もう、何度も言わせないでくださいましな。こうして帰って来てくださっただけで、満足ですとも」
「……そうか。ありがとう、ヘルマ」
にこにこと朗らかに笑うヘルマに、胸が詰まるラドニー。感謝の言葉しか出てこない。
「ちゃんと、お着替えも用意してありますよ?」
ヘルマばかりが感謝されるのは我慢ならない、とばかりに、ターニャが前に出た。また抱きつかれるのか、とラドニーが少々後ずさってしまったのは仕方がないことだっただろう。
「着替え? いや、二年前のものだろう? さすがに入るわけが」
「いえ、今のお嬢様のサイズのお着替えです」
「は? どういうことだ?」
意味が分からない。いつの間にか採寸でもされていたというのだろうか。
「遠目に見たお嬢様のお姿と、この私が散々抱きしめて覚えたお嬢様から推測して、最適のサイズの着替えを取り揃えております」
「なんだか怖いな!?」
建物の影に隠れて自分を凝視しているターニャの姿を想像して、寒気がしたラドニーだった。それは一体、いつからなのか。十一等級ともあろう者が、全く気付かなかった。思わず、両腕を擦ってしまう。
だが、当のターニャは、そんなラドニーの反応にお気に召さないようだった。頬を膨らませて抗議する。
「ひどいです。頑張ったんですよ?」
「あ、ああ、ありがとう」
言ってから、ここは感謝するところなのか? と思ったのは秘密だ。だがラドニーの返答は正解だったようで、ターニャは目を細めて笑った。
ゴームレットが進み出た。
「ケニックもお褒め下さい。彼も、いつかお嬢様が返って来た時のために、庭にお嬢様がお好きな季節の花を植え、手入れを欠かしておりませんでした」
「そ、そうなのか? けれど、わたしは好きな花なんて教えた事は……」
「直接は聞いたことがないそうですが、お嬢様は時々、お庭においでになったでしょう? その時の様子で、興味のある花かどうか、ケニックには分かったようですよ」
「すごいな、みんな……」
よく見ていたこと。思われていたこと。様々な思いが、ラドニーの胸に去来する。
ラドニーはゴームレットを見た。
ヘルマもターニャもケニックも、自分のために色々なことを考え、してくれた。
だが、それらには時間もお金もかかっただろう。それらは、一切の業務や資産を取り仕切る執事であるゴームレットの許可がなければなりたたない。
つまり、ゴームレットもラドニーのことを思ってくれていた。
「ゴームレットも、ありがとう」
そんなラドニーの考えが伝わったのか、ゴームレットは一瞬見張った目に、涙を浮かべた。眼鏡を外して、その涙を拭う。しかし、次から次へと零れ落ち、間に合わないようだ。
「……こ、光栄に、ございます……!」
「いや、もう泣くな。ほら、ヘルマとターニャまで泣き出したじゃないか」
ゴームレットの肩に手を置いて、尽きない涙を見て、ラドニーは思う。
(でも、そうか。これは、わたしをことを思っての涙か。馬鹿だな、わたしは本当に。昔も、今も。本当に、大馬鹿者だ)
けれど、それもここに来なければ、ずっと気づかなかっただろう。
ずっと待っていてくれた保証なんてない。いつかは、どんな気持ちも枯れ果ててしまっていたに違いない。
(間に合ってよかった)
ラドニーは、心からそう思った。