ギルドマスター・カタリナ
カタリナ・フォーンゴーンは齢七十六になってもしゃんと伸びた背筋と豊かな髪を持ち、若いころの美貌を想像させる、ドゥーナの街のギルドマスターである。
頭も冴えており、歩くのに杖など必要としない。組織運営では不正を許さず、かといって頑迷ではなく、柔軟な思考を併せ持つ。
部下を上手く登用し、万事において、つつがなく冒険者ギルドを回している。
そのカタリナは、頭を悩ませていた。
悩みの種は先ほど一つ、解決した。
この街の冒険者ギルドに所属する貴重な十一等級である、自分の義理の娘が無事に生きて帰ったことだ。
それは素直に喜ばしい。
だが、持って帰った報告があまりよくない。
曰く、中堅パーティの研修で同行したダンジョンに、自分も敵わない存在がいたこと。
これは、事前調査が甘かったことを示す。今回のダンジョンの難易度設定は、以前にギルドが行ったものである。誰が事前調査を行ったか確認し、責任の所在を定めなければならない。
曰く、そのダンジョンの最奥で、十一等級が、どこにも所属しない武闘家に助けられたこと。
所属する冒険者の実力はその冒険者ギルドの実力も示す。権限を付与されるような立場の冒険者が、あえて悪く言えば、どこの馬の骨とも知れぬ人物に助けられては、ドゥーナの街の冒険者とはその程度か、と見くびられる原因にもなる。
曰く、ドゥーナ所属の冒険者パーティが、依頼人に狼藉を働いた。
以前から疑惑の目を向けられていたパーティだ。今回、決定的な場面に遭遇し、やっと捕縛することができた。ギルドの自浄作用が正しく働いたのは良いことのように見える。が、実際に事が起これば、多方面に頭を下げなければならない。特に、実害を被ったジェガンニの村には、ラドニーが謝罪をしたとは言えど、それで済ませることはできず、何らかの補償を行わなければならないだろう。
曰く、捕縛したパーティと討伐したサーベルボアは背負い袋に収納して運んできた。
これについてはさっぱり意味不明だ。カタリナは娘が幻でも見たのではないかと疑ったが、ならば証拠を見せる、と言われて一旦引き下がられた。背負い袋は命の恩人の持ち物なので、その人物を連れてくる、と言われたのだ。
「詐欺師に騙されるような子でもないが、やけに熱心に話したねぇ……」
報告と言いつつ、娘がカタリナに語った内容は、命の恩人アイゼンの人物評が五割、実際の報告が五割というものだった。
やれ人格は尊敬に値する、やれ戦闘技術を学びたい、自分はとても敵わない、など。
「まるで恋する乙女のようじゃないかい……」
いつもは無口で不愛想でぶっきらぼうな娘が、頬を染めながらやたら多弁になる様を思い出して、カタリナは今回一番の悩みを感じて額に手を当てる。
それ自体は、生きて帰ったことと同じく、大変喜ばしい。
だが、それはその変化の原因が、至極真っ当だった場合に限る。
「最悪、医者に連れて行く必要があるかもしれないね」
それも、今から出会う人物を評価してからの話だが。
「ラドニー様とお連れ様がいらっしゃいました」
案内役――いざという時の護衛役も兼ねている男性――が部屋に入ってきて、来客を告げる。
「通しておくれ、カロロフ」
「はっ」
短く返事をした護衛役のカロロフは、言われた通り、客間にラドニーと、その後についてくる人物を通す。
その男が客間に現れてカタリナの視界に入った時。
「……っ!」
思わず、カタリナは立ち上がった。
挨拶をするためではない。身体が勝手に最大級の警報を発して、逃げる体勢を取らせたのだ。
「カタリナ。この方がアイゼン様だ。……どうした、カタリナ?」
ラドニーは、昔から義理の母親を名前で呼ぶ。どこか遠くから響いてくる馴染みの声に、ようやくカタリナは茫然とした状態から復帰することが出来た。
「ああ、いや、なんでもないよ」
そう返すのがやっとではあったが。声が震えるのは何とか抑えた。同じく震える膝を隠し通せているかどうかは分からない。
「アイゼン様。ギルドマスター、カタリナです。そちらは護衛のカロロフです」
「アイゼンだ。よしなにな」
「カタリナだよ。楽にしとくれ」
護衛役のカロロフは、アイゼンの挨拶に軽く目礼をするのみであった。無表情で、何を考えているかはうかがい知れない。
アイゼンとラドニーが並んでソファに腰掛ける間、カタリナは何とか我が身を振り返ることでいつもの調子を取り戻そうとする。
さりげなくハンカチを取り出して、額に浮かぶ汗を拭いた。気が付けば、背中も同じようなものだった。いやな汗が止まらない。
(なんだい、こいつは。あたしの「解析」がまったく意味をなさない。さっぱり内容が分からないのに、圧倒的な何かだけが分かる。龍? 悪魔? 分からない。ラドニーは、なんて奴を連れてきたんだい……!)
カタリナの能力は、相手の力量を見通す解析である。
これを持って、今まで人材を最適な場所に割り振って来た。もちろんそれだけでは組織は動かない。カタリナは解析に自信は持っていたが過信はせずにあくまで補助と割り切り、それ以上に自信を持つ組織運営力で、これまでを乗り切ってきた。
だが、やはり解析には頼っていたのだ。今、その目に映るのは。
瞳以外が、すべて赤く塗りつぶされているなにか。
その黒い瞳だけが輝き、カタリナを睥睨してくる。
それを認識した瞬間、カタリナは解析の能力を切った。とても見ていられなかった。
解析なしで見れば、そこにいるのは黒髪と黒い瞳を持つ、年若い男である。特筆すべきは、その堂々とした態度であろう。それがより、若さではなく貫録を感じさせた。
そう認識できれば、冷静にアイゼンと言う男を観察できた。
じろじろと見てみたが、それに対しても何も言わず、むしろ目が合ったなら見つめ返してきた。その瞳は年齢からは考えられないほど深い黒をしていて、カタリナですら飲み込まれそうになった。
ラドニーが目を細めてカタリナを見やる。じろじろとアイゼンを見るカタリナに対し、「失礼だろう?」と言わんばかりだ。
確かにそうだったので、カタリナもソファーに腰掛けて、アイゼンとやらに改めて相対した。背中が汗で濡れて気持ち悪かったがそこは押し殺した。
「あんたがラドニーを助けてくれたんだって? ここの長として、礼を言わせてもらうよ」
「礼はラドニー本人から受け取ったのでもう不要だが……どういたしまして、と言っておこう」
「で、あんたはどこから来た何者だい? 随分と腕が立つようだけれど」
「山で修業した世間知らずの武闘家だ」
アイゼンを横目で見ているラドニーは思う。
(アイゼン様、嬉しそうだな。せっかく考えた設定を公開出来て、嬉しいんだろうなあ)
もう慣れたラドニーはしみじみ思う。なんだかこの自己紹介も懐かしさすら感じる。
「ふうん」
気のない返事をしたカタリナとしては、もう少し情報が欲しいところだった。その自己紹介はラドニーからも聞いていて、あまり意味がない。なぜか嬉しそうに言うのは気にかかるが。
「で、この子から、あんたの背負い袋にサーベルボアやパーティ一組が入ってるって聞いたけど、その与太話は本当かい?」
「ここで出すか?」
「ま、待ってください! 部屋が壊れます!」
ラドニーは慌ててアイゼンを止めた。パーティはともかく、あの大きさのサーベルボアをここで出すと部屋に収まりきらない。下手をすると、ここにいる全員が飛び出したサーベルボアに押されて圧死しかねない。そんな状況でも、アイゼン様は平気なのだろうな、とラドニーは思ったが。
「……なら、試験場で出してもらおうかね。空いてるね、カロロフ?」
「はい。念のため、人払いもしておきましょう」
ラドニーの慌てように、内心カタリナも、半信半疑にまで考えが傾いた。
冒険者たちの昇級試験などに使用する、冒険者ギルドの裏手の試験場に、カタリナはアイゼンとラドニーを案内した。カロロフも一緒である。
案内された先は、分厚い壁と天井で囲われていた。広く、複数のパーティが戦闘行動を行えそうである。
カタリナは胡散臭そうな態度を隠しもせず、試験場を指示して促した。
「さ、ここなら大丈夫かね? とっとと出しな」
言われ、アイゼンは背負い袋の口を振るった。
すると、カタリナの目の前に大きな山と見違えんばかりのサーベルボアが現れる。
「おお……!?」
声はカロロフから上がった。
目を見開き、身体を仰け反らせている。
カタリナは言葉も出なかった。人生で初めて、顎が外れる、という事態があるのだと知った。
「あいつらもお願いします」
「分かった」
ラドニーの言葉にアイゼンが頷くと、背負い袋から今度は、どさどさと四人の人間が吐き出される。
その四人は全員が気絶していた。
ここに来て、ようやくカタリナは認めざるを得なかった。義理の娘が言っていたことは、本当だと。
思わずカタリナがラドニーを凝視すると、彼女は胸を張っていた。
「どうだ。言った通りだろう?」
声を出そうとして、自分の顎がまだ開きっぱなしだったことに気づいたカタリナは、何とか両手を使って顎を定位置に戻した。
「まさか、本当だとはね……! なんだい、その背負い袋は!?」
「亡き師の遺品で、仕組みは知らん。便利なので重宝している」
「それは便利だろうね……!」
遺品の話もラドニーから聞いていた。結局、カタリナの質問は不発に終わった。
ラドニーが自慢をほどほどにしてカタリナに向き直る。
「それはともかく、カタリナ。こいつらを拘束してくれ。放っておいたら目を覚ましてしまう」
「だったら、考えなしに出すでないよ。人手を呼んでからにしな」
「顎が外れる人間を量産したいか?」
「……確かにね。カロロフ」
「はっ。人手を集めてまいります」
人手を求めて、試験場の奥に消えていくカロロフ。
それを尻目に、カタリナはサーベルボアを見上げた。
「こいつはまた、でっかいサーベルボアだね。こいつを、アイゼンが討伐したって?」
「ラドニーと一緒にだが」
(ラドニーと一緒に! なんだか甘美な響きだな!)
「わたしが手を出さなくても、同じだったと思います」
緩む頬を押さえつけて、確信を込めて頷くラドニー。実際、自分の手出しは不要だったと思う。
カタリナは、アイゼンの首にかけられているタグに気が付いた。
「さっき登録したばかりかい?」
「そうだ」
「そうかい。順序が逆なら、昇級条件を満たせただろうに」
「のんびりやるから構わん。昇級が目的で冒険者になったのではないのでな」
カタリナの言葉に異議を唱えようとしたラドニーの行動は、アイゼンの発言に止められた。
ラドニーの瞳は、アイゼンの横顔に惹きつけられる。
(そうか。そうだったな。アイゼン様は……)
そんなやりとりをしている間に、カロロフに連れられてきたギルド職員たちによって、「烈火の牙」のパーティメンバーは連行された。
よほど意識が深く刈り取られていたのか、半ば引きずるように連れていかれたのに、一向に目覚める気配がなかった。
「けれどカタリナ。このサーベルボアは引き取ってくれるだろう?」
気を取り直して、ラドニーはサーベルボアに手を添えながらカタリナに言う。頷くカタリナ。
「ああ。これだけ大きくて状態のいいサーベルボアは、滅多にない。色を付けさせてもらうよ」
「やったっ」
ラドニーは喜色を浮かべて小さくガッツポーズを取った。自分とアイゼンの成したことが正当に評価されて嬉しかったのだ。
(なんとまあ。こんな表情が出来たのかね、この子は)
以前に顔を合わせたのは二週間ほど前だった。それまでというか、出会ってからこれまでに、こんな表情を見たことがあったかどうか。
内心、カタリナは嫉妬した。義理とはいえ娘だ。愛情もかけてきたつもりだ。なのに、これまでの苦労を一足飛びにして、こんなに感情を豊かにされるとは。
(気に食わないねえ)
その一言に尽きる。
(貴重な十一等級。あたしの娘。本人は、自分の感情に気づいていないようだけど……)
「アイゼン様。サーベルボアの報酬は全額差し上げますね。少ないかも知れませんが、お礼として」
「礼は存分に受け取っているから、もういい。二人で討伐したのだから、二人で山分けでいいのではないか?」
「二人で……! そうですね、そうしましょうか……!」
尻尾が生えていればぶんぶんと振っていそうな娘と、その瞳を独占しているアイゼン。
それを見れば、一目瞭然であろう。
(アイゼン。見極めないと、いけないねえ。さっきの解析の結果なんて知ったことか。こんなに気に食わない事なんて、本当に久しぶりだよ)
「これで、報告は終いかね。で、アイゼン。あんた、この街でずっと活動するつもりかい?」
「この街で冒険者登録したから、この街が拠点になると思うが」
「別に、登録自体はどこでも出来るから、どこを拠点にしようが自由だよ」
「そうなのか」
腕を組んで考え込むアイゼン。そこで内心、慌てたのはラドニーである。
(アイゼン様が、どこかに行ってしまう? え、いやだ。でも、わたしが何か言える立場でもないし……!)
ここに至って、ようやく思い知る。
自分とアイゼンには、同じ冒険者と言う以外に何の繋がりもないのだと。
この街までは自分の帰還に付き合ってくれただけ。それはアイゼンが親切だったからだ。
自分は命の恩人だと思っているが、それで今後も自分と行動を共にしてくれるわけではないし、アイゼンが自分をどう思ってくれているかも分からない。
戦力という観点でも、アイゼンは単独で何とでもなるだろう。
アイゼンが自由を好むことも知っている。どこへでも単身、赴くだろう。
(いやだ。離れたくない)
思うのは、それだ。
なぜここまで強く思うのかは、自分でも分からない。
けれど、それが正直な気持ちだった。
アイゼンの返答を、危機感から鼓動を激しくする胸を押さえて待つラドニー。
そのアイゼンは、視線をラドニーに転じた。
いつも通り、真っすぐな瞳がラドニーを射抜く。
びくり、とラドニーは我知らず、全身を震わせた。
「ラドニー。しばらくは、この街で経験を積む方がいいか?」
その声と瞳は、ラドニーに対する信頼に満ちていた。
熟練の先輩冒険者に意見を求める姿勢。
今まで、何度かしてきたやり取りだ。
だからだろうか、ラドニーの鼓動は落ち着いていく。
「……この街は初心者向けのクエストも数ありますし、それが妥当かと」
「分かった。しばらくはこの街で経験を積むとしよう。シズルもそのようなことを言っていたしな」
(え、シズル? どうしてそこで、その名前が出てくるんだ?)
アイゼンの滞在が確定して安堵と思いきや、いきなりギルドの女性職員の名前が出てきた事に、別の意味で焦るラドニー。
「ア、アイゼン様? シズルとはどのようなお話を……」
「冒険者登録の時に世話になった。色々教えてくれたぞ」
「あの時ですか!? シズルめ……! それはわたしの役割だというのに……!」
「そうなのか?」
「そうなんです!」
「そうなのか」
そのやりとりを観察しているカタリナ。
(ラドニーがかろうじて手綱を取れている感じかね。実力は破格のようだが、見る限り危険思想などはなさそうか。どちらにしても、やはり目を離しておくわけにはいかないねえ)
カタリナは一つ頷く。それを見ていたのは、護衛のカロロフだけだった。
「アイゼン。あんた、宿は決まっているのかい?」
「いや、まだだ。これから決めるところだ」
「なら、あたしん家に滞在しな。しばらく面倒を見てやるさね」
「カタリナ?」
思いがけない提案に驚くラドニー。それを尻目に、ふん、とカタリナは鼻を鳴らす。
「娘の命の恩人だ。それくらいの手間はかけさせな」
「娘?」
その発言に、ラドニーとカタリナに視線を往復させるアイゼン。
「そうだったのか」
感想はいたって簡潔だった。
「それでカタリナの気が済むなら、そうさせてもらおうか」
「そうしな」
「え、あ……」
あっという間に決まってしまう事態に、やや呆然とするラドニー。
「ラドニー。案内してあげな。ついでに、あんたもたまには家に顔を出しな」
「いや、わたしは……」
「家の連中も、行方不明になったあんたのことを心配してたよ。元気な姿を見せておやり」
「……分かった」
渋々頷くラドニー。
「家には連絡しておくよ。用意が必要だから、しばらくしてから向かいな」
ラドニーは、大きくため息をついて、険しい視線をカタリナに向けた。カタリナはそれを向けられても何も気にする様子がない。
「分かった。用はもうないな? 行きましょう、アイゼン様。街を案内いたします」
「頼む。それでは失礼する」
その場を後にするアイゼンとラドニー。
試験場には、サーベルボアの死体と、その傍にたたずむカタリナとカロロフのみが残る。
「よろしかったのですか?」
「仕方ないね。内に猛獣を抱え込むようなもんだが」
アイゼンがいなくなったことで、ようやく深いため息をつけるカタリナ。
「しかしまあ、随分と懐いたもんだ」
ラドニーのことである。
彼女への影響がないならば、冒険者ギルド所属として行方を追い、動向を見張ることは出来よう。
カタリナが見る限り、アイゼンとはそれほどの要注意人物だ。
だが、あの有様では、アイゼンが他の場所へ行くと言いだした場合、ラドニーはそのまま着いて行きかねない。それはそのまま、ドゥーナの街から貴重な十一等級が失われることを意味する。
また、一方では大事な娘がどこかへ行ってしまうことにもなる。
ならば、彼女への影響を残したままでも、アイゼンごと抱え込んだ方がまだましである。
苦肉の策だった。カタリナからしてみれば、吉と出るか凶と出るかどころではない。腹を食い破られるかもしれない賭けだ。
「で、カロロフ。あんたはアイゼンをどう見た?」
「挑めばあっさり死にますな。命を賭しても、毛ほどの傷もつけられないでしょう」
「それほどかい」
「半面、性質は穏やかに見えます。敵に回さないことが賢明ですな」
「やっぱり、そうかね」
敵に回してはいけない、それはカタリナも同意見だった。
顎をなでつけ、一つため息をつく。
「頭の痛い話だ」
「補佐は致します」
「頼りにしてるよ。とりあえずは、このデカブツの対応だね」
カタリナは、アイゼンの被害者であるサーベルボアを、しげしげと眺めやったのだった。
「まったく、勝手だ、カタリナは……!」
試験場を出たところで、ぼやくラドニー。
歩く際にも力がこもり、早足になりそうになる。
「ラドニー? 迷惑なら、今からでも断ってくるが」
「あ、いえ、そうではなく……!」
アイゼンから見れば、ラドニーはカタリナの娘で、ということはカタリナの家はラドニーの家でもある。そこに押しかけられるのが迷惑かと思うのは、アイゼンの思考としては自然だった。
アイゼンの言葉でそれに気づいたラドニーは、慌てて否定して手を振った。しかし、後の言葉が思いつかず、もごもごとした物言いになってしまう。
「いえ、その。わたしが家に帰りにくいだけ、なのです」
「そうか」
それを聞いたアイゼンは立ち止まり、踵を返した。
「やはり断ってこよう」
アイゼンが滞在しなければ、ついでとばかりに切り出されたラドニーの帰宅も立ち消えになるからだ。
「ま、待ってください!」
「む?」
思わずラドニーはアイゼンの腕にすがりついた。
すぐ近くにアイゼンの顔があるのに気が付いて、頬が一気に熱くなるラドニー。
(な、なにをしているんだわたしは!? こんな、はしたない……!)
見れば、身体が密着寸前にまで近づいていたのだ。
ラドニーは火照る身体に戸惑いながら、そっと離れた。
「……待ってください。少し、話を聞いてください」
「聞こう」
アイゼンはラドニーに向き直った。きちんと聞く姿勢になったのだ。
ラドニーは、アイゼンのこういう些細なところがすごいと思う。
自分は果たして、今までどうだっただろうか、とも思う。
けれど、今考えなければならないことはそれではない。
「……アイゼン様は、わたしとカタリナの歳が離れていると思われませんでしたか?」
「それは思ったが、そういう家庭もあるだろうと特に気にしなかった」
「……わたしは養子なのです」
とつとつと話し出すラドニー。
「十年ほど前に、とある事情で引き取られました。ただ、わたしはその頃からずっと不愛想で無口で」
アイゼンからしてみれば、ラドニーはよく話す印象があるので、意外に感じた。
「家のみんなは良くしてくれましたが、当時のわたしはそれが煩わしく、あまりいい態度を取っていなかったと思います。独り立ちできる年齢になると、冒険者として家を出て、ろくに帰りもしませんでした」
憂鬱そうにため息をつくラドニー。
「帰るのは、二年ぶりぐらいになるでしょうか。なので、どんな顔をして帰ればいいか、分からなくて」
「やはり断った方がいいと思うが」
「いえ、そうではなく……!」
もはや、何を言いたいのか自分でもよく分からないラドニー。二人がいる通路に人通りがないのが唯一の救いであった。そうでなければ、こんな話を切り出してはいなかった。
「……久しぶりに家に顔を出せ、と言われて、以前の振る舞いを謝れる機会を得た、と思いました。いえ、ずっと謝らなければ、とは思っていたんです。でも、そのタイミングを勝手にカタリナに決められてしまって」
自分はなぜ、ここまで話してしまったのだろう、と今更ながらにラドニーは思う。こんな事、今まで誰にも打ち明けた事はなかったのに。
「……心の準備もできておらず、ただただ、気まずい、のです」
「ならば、ラドニーが決めるといい」
「え?」
「ラドニーを困らせるのは俺の本意ではないし、元はと言えばカタリナの提案に乗っただけの話だ。ラドニーが否と言えば、俺はそれを断るだけだ。俺は何も困らん」
カタリナは困るが、それはアイゼンの与り知らぬところである。
(わたしが決める? アイゼン様が、家に滞在するかどうかを?)
ラドニーにとって、これまでとは違う性質の質問が投げかけられた。今までは経験を買われて質問され、最適と思われる答えを出してきた。しかし今は、自分の感情を問われている。
しかもそれで左右されるのはアイゼンの行動。ラドニーにとっては、恐れ多い、という思いが首をもたげてくる。
そこで、はたとラドニーは気づいた。
(ん? わたしの家に、アイゼン様が来てくれる?)
その事実を吟味するラドニー。
(来てくれるというか、滞在してくれる? しかも、割と長い期間? え、わたしもそこにいたら、ずっと一緒にいられるって事? 一つ屋根の下で?)
ラドニーの胸がときめいた。
(一つ屋根の下! なんだ、この語感は! とてもいい! これを得るためには、まずわたしが家に出向かなければならないが……!)
覚悟が決まった。
(いくらでも頭を下げてやる! その天国を実現するために!)
「滞在をお願いします、アイゼン様!」
「分かった」
加熱するラドニー、淡々と承知するアイゼン。文字通り温度差はあったが、話は決まった。
意気揚々と、ラドニーは歩き出す。
「では向かいましょう、わたしの家に!」
「街の案内をしてくれるのではないのか?」
「そ、そうでした……」
ラドニーは盛大に肩透かしを食らわされた。