フォーンゴーン邸の夜
「確かに、いい湯だった」
「だろう、アイゼンの旦那?」
アイゼンは勧めに従った入浴施設で、十分に旅の疲れと汚れを洗い落とした。
今はフォーンゴーン家が用意してくれた軽装に身を包み、身軽になっている。元着ていた衣服は、肩にかけている背負い袋の中だった。
フォーンゴーン家の入浴施設は広く、十人ほどが一度に入ってもまだ余裕があるほどだった。
故に、ちゃっかりケニックも同時に入浴し、それどころか酒まで持ち込んでいた。
施設内で、ケニックは遠慮なくアイゼンに酒を勧め、アイゼンもまた遠慮なく飲み干すという、小宴会状態となった。
そうして、湯と酒を堪能してから施設を出て、ケニックに客間に案内されている。
「しかしあんた、大したもんだな! ドワーフ特製の火酒を、あんなに一気にあおっちまうとは!」
「火を噴くかと思ったがな。だが、あの腹を焦がすような感覚は悪くない」
「そうそう、それがいいのさ!」
ケニックはすっかりアイゼンを気に入っていた。
ドワーフが打ち解けるきっかけは酒でもあるが、それ以上に、その堂々たる様が特に気に入っていた。
(カタリナ様からは十六歳とか聞いていたが、とてもそうは見えねえな。ま、そこはどうでもいいか。また酌み交わしてえ御仁だが、本題次第だな)
ケニックにとっては、今後も付き合いたいかどうかは、そこにかかっていた。
「で、お嬢とはどういったご関係だい?」
「関係とは?」
「とぼけなさんな。お嬢があれだけ頼りにしてるんだ、ただの旅の仲間ってわけでもないんだろう?」
目を細めて笑顔で聞くケニック。だが、その瞳の奥には、隠しきれない真剣さが見えている。
「もう寝たのかい?」
「くくっ」
堪えきれず、アイゼンは含み笑いを立てた。
いつの間にか二人は立ち止まっていた。
拳を握りしめ、真顔のケニック。下手な返答をすれば、この拳を叩き込んでやる、と言わんばかりだ。
その拳からケニックの真剣な表情へと、視線を上げるアイゼン。
「ラドニーは、よほど大事にされているらしい」
「おうよ。あんたがどれだけ腕が立つか知らんが、お嬢に何かしてた日にゃ、容赦はしないぜ?」
「それは怖いな。だが、安心するといい。俺はラドニーに何もしていない」
「それで納得すると思うかい?」
「さてな。俺としては、本当に何もしてはいないのだが」
言って、アイゼンはラドニーとの出会いからこれまでを振り返った。
そうして、思ったことを言ってみる。
「最初はダンジョンで出会った。そこを脱出し、ここまで短い旅を共にしてきた。その途中、ラドニーにはよく助けられた。ケニックは先ほど、ラドニーが頼っていると言っていたが、そんなことはない。俺こそ頼って来たと思う。ラドニーは誠実で真面目で、知識と教養を持ち合わせていて、頭の回転も速い。知識を伝えるのも上手だ。人を思いやる気持ちもあり、時折、愛くるしい姿も見せる。総じて、好ましい人物で、俺はラドニーを得難い友人だと思っている。あちらはどうだか知らないがな」
「わかった、納得したぜ!」
ケニックは、歯を見せて裏表のない顔で笑った。
「うん? よくこれで納得できたな?」
「できねえ訳がねえ! あんた、よく見てるじゃねえか! そこまでお嬢を褒めてくれる御仁を疑ったとあっちゃあ、俺が怒られちまわあ! 信じる、あんたは偉え御仁だ!」
「極端な態度だな」
「覚えておきな。ドワーフは気分屋なのよ」
陽気になったり、真面目になったり、また陽気に戻ったり。その態度に少々呆れを含んだアイゼンの声に、ケニックは不器用なウインクで返した。
頷くアイゼン。
「勉強になった。覚えておこう」
「あんた、お嬢と同じく勤勉だな! わはは!」
再び二人は歩き出し、程なく一階の部屋の前にたどり着いた。
「ここが旦那の滞在先。隣が俺の部屋だ。なにかわからないことがあったら声をかけな。後、お嬢の風呂が終わったら夕食の予定だから、それまでゆっくりしとくといい。ああ、わかっていると思うが、覗こうなんて思うなよ?」
「わかっている」
「わはは! 真面目に返すこたぁない! 硬いな、旦那!」
豪快に笑いながら、強い力でアイゼンの背中を叩くケニック。それに、アイゼンは微動だにしない。
まるで大木の幹でも叩いたかのような感触に、ケニックは瞳を瞬かせた。
「風呂でも思ったが、鍛えてんだな、旦那」
「それほどでもない」
「そうか、それほどでもないか! こいつはいいや! わはは!」
何がそこまでおかしいのか、ケニックは笑い続ける。
「ドワーフは笑い上戸でもあるのか?」
「そうかもしれねえな! じゃあ、また後でな!」
今度は下手な鼻歌を奏でながら、ケニックは通路を戻っていった。まだ仕事があるのだろう。
「ふむ。本でも読んで、時間をつぶすか」
ひとり呟いて、アイゼンはしばらく世話になる滞在先に足を踏み入れた。
「わぷっ」
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない。目に石鹸が入った……」
「あらあら」
ラドニーはアイゼンたちと入れ替わるようにして、風呂に浸かりに来ていた。
ターニャも一緒で、髪を洗われている。
「大分傷んでますね。せっかくの長い髪が、もったいない。ちゃんとお手入れしていましたか、お嬢様?」
「あんまりしてないな」
「まあ、それはいけません。素敵な殿方が現れた時に、後悔なさいますよ?」
「そんなことを考える暇も、相手もいなかったしな……」
「今もいらっしゃいませんか?」
「いないが?」
当然のように返すラドニーに、ターニャは髪を洗う手を止めずに首をかしげる。
「変ですね。今日、お嬢様がお連れなさった方がそうかと思いましたのに」
「ふわっ!?」
思いがけないことを言われ、頭を洗われている最中だというのに、反射的にラドニーは振り返った。
「な、なな、タ、ターニャ、な、な、なにを……!」
「ふふ」
ラドニーの動揺ぶりに、満足といった風のターニャ。
「ち、違うぞ!? アイゼン様は、そんなのじゃ……!」
「まあ。まだ、愛の言葉を囁いていませんの?」
「ア、アイ……!?」
泡だらけの頭で後ずさるラドニー。深い笑みを浮かべながら、にじりよるターニャ。
「お嬢様は、まんざらでもないご様子でしたよ? いっそ、お嬢様からやってしまえばよろしいのに」
「は、はあ? や、やる? な、何を?」
さらに後ずさるラドニー。さらににじり寄るターニャ。
「それはもちろん、アレ、ですよ」
「あああああれ? なな、なんのことだ?」
「ですから。男と女と言えば、のアレですよ」
「おお、男と女? アレ? いや、まて、ターニャ、違うんだ……!」
さらにさらに、後ずさるラドニー。さらにさらに、にじり寄るターニャ。
「あ、お嬢様、危ない」
「へ?」
ラドニーは後ろ向きに、頭からどぼんと湯舟に落ちた。
「ごばっ!?」
「あらあら、石鹸塗れで湯舟に浸かってはいけませんよ?」
「ターニャが落としたんだろうが……!」
口元をぶくぶく言わせながら、湯舟の中でぼやくラドニー。湯に浸かったからか、全身が真っ赤だった。ターニャに恨みがましい視線を向けている。
「まあ、怒らないでくださいましな」
「ふんっ」
ラドニーは泳ぐようにして、湯舟の端に寄った。膝を抱える様にして、ターニャに背中を向ける。その背中は、ターニャにとって、随分と懐かしいものだった。
「うふふ」
ターニャは石鹸を洗い流してから、湯舟に浸かる。そうして、ラドニーのすぐそばまでゆるりと近づいた。
「怒ってしまいました?」
「……怒った。アイゼン様のことを、あまり適当に言わないでくれ。お願いだ」
そこに真摯な声音を感じて、ターニャはしゅんとした。
「申し訳ありません。こんなやり取りができるのが嬉しくて、つい、調子に乗ってしまいました」
「わたしだって、ターニャと軽口を叩けるようになって嬉しい。けれど、アイゼン様のことは……違うんだ」
ラドニーは十六歳、ターニャは三十二歳。ちょうど倍の年齢差だが、ターニャは使用人でありながらも、常に姉のように振る舞ってきた。
ラドニーは以前は不愛想だったから仲の良い姉妹というわけにはいかなかったが、それが変わらぬ昔からのターニャのスタンスである。
そのターニャからして、妹がいい人を連れてきたのだから、からかいたい、という気持ちもあった。
だから、こんな風にラドニーが言葉を選ぶのを、少々失敗したか、と思いながらも聞く。
「あの人は、不思議な人だ。出会いも不思議だったけど、その振る舞いも、あり方も。わたしより強くて、いつだって悠然としていて、動じることがない。自由が好きで、人と話すことが好きで、知識欲旺盛で、収集癖があって、素直で。食べ物をいつも美味しそうに食べる。お酒も好きで強い。いつだって優しくて、時々厳しくて、それがいつもわたしの背中を押してくれる。今日だってそうだ。全部、アイゼン様がお膳立てしてくれたようなものだ。わたし一人だったら、きっと帰ってこれなかった。アイゼン様は恩人で、とても大きな人で、わたしがいつか追いつきたいと思っている人で、ずっとそばにいたい人で、温かくて、わたしの殻を壊してくれた。そんな人なんだ」
「……まあ」
ターニャは、ここまで饒舌に語るラドニーを見たのは初めてだった。だからこそ、アイゼンとの仲をからかったことを、改めて軽率だと感じた。
ラドニーの思いを、容易く一言にまとめることはできただろう。けれど、それはしてはいけないように思えた。ラドニー自身がそれに気づくまで、大切にするべきだと。
ターニャは、ラドニーの背中にそっと肌を合わせた。
「いい出会いをなされたのですね」
「……そうだな。わたしも、そう思う」
(アイゼン様は、わたしのことをどう思っているのだろう。少しは、親しみを感じて下さっていればいいのだけれど)
「アイゼン様。お食事のご用意が整いました」
「わかった。すぐに行く」
ノックと共に扉越しに告げられたターニャの声に、アイゼンは読みかけの本に栞を挟むと立ち上がった。
部屋を出るとターニャが待っていて、一階の食堂まで案内される。
その途中、二階から降りてきたラドニーと鉢合わせた。
「あ、アイゼン様」
「ほう。まさしく、お嬢様という感じだな。見違えたぞ」
ラドニーは若草色のワンピースタイプの服を身にまとっていた。いつもは頭頂部でまとめられている赤い髪は首の後ろでまとめられ、自然に流されている。その髪は入浴前とは違って艶々と輝き、服とのコントラストが映えていた。
そのワンピースは腰のあたりで絞られ、鍛えられた身体を清楚に見せることにも成功していた。
「え、あ」
不意打ちで褒められた当のラドニーは、言葉を失って礼も言えずに赤面するしかなかった。
着た時には、すべてのサイズが計ったようにぴったりで、ターニャの眼力に怖気を感じたものだったが。
そこで、にこやかな笑みを浮かべたターニャがラドニーの後ろに回ると、肩を押してずずいとアイゼンの方へラドニーを近づける。
「いつものお嬢様もよろしいですが、このようなお嬢様もまた愛らしいでしょう? ちなみにこの衣装は私が厳選したものです」
「愛らしいとは、その通りだな。ターニャは大した目利きをしているようだ」
「お褒め頂き光栄でございます。次回もまた、お楽しみになさってください。色々と取り揃えておりますので」
「期待しておこう」
アイゼンとターニャの会話に、こらえきれず顔を覆ってしまうラドニー。耳や首筋まで赤くなっているので、大して隠せてはいないが、本人は気づけない。
(愛らしい!? 期待している!? 凄く嬉しいけど、凄く恥ずかしい! なんだこれ、なんでわたし、こんな辱めを受けてるんだ!?)
「さ、先に行ってます!」
顔を覆ったままの混乱したラドニーが選択したのは逃亡だった。
「あ、お嬢様、前にお気をつけ頂かないと」
ターニャの忠告は遅く、ラドニーは曲がり角の壁に額からぶつかった。衝撃にふらついた後、また駆け出した。否、逃げだした。
「あらあら」
「どうやら、よほど空腹のようだな、ラドニーは」
「あらあら」
ころころと笑うターニャ。改めてわかった。
(このお二人は、急かしてはいけませんね。もっと楽しませていただかないと!)
内心、そんな邪な考えが浮かぶターニャであった。
空腹で待たせては申し訳ないと言うアイゼンの申し出を受け、少し早歩きで先導するターニャ。
本気でそう思っているアイゼンが少しおかしく、ターニャの表情が緩む。先導しているので、アイゼンにはそれを見られていないからできることである。
食堂には長テーブルが設置しており、すでにラドニーはそこにいた。ただ、痛む額を抑えているのか壁の方を向いている。実際には、赤い顔を周りに見せたくないだけなのだが。
「大丈夫か、ラドニー?」
「だ、大丈夫です。お構いなく……!」
話しかけられて、びくり、としたラドニーは、顔を覆うのをやめて、アイゼンに向き直った。
依然として顔は赤かったが、こほん、とラドニーは咳払いで取り繕うと、恐る恐ると言った態度で、アイゼンを上目遣いで見やる。
「あ、あの、アイゼン様。お願いがあるのですが」
「なんだ?」
「久しぶりに、みんなと一緒に卓を囲みたいと思っておりまして。よろしいでしょうか?」
「構わんぞ。俺も、そういう方が好きだ」
「ありがとうございます」
ラドニーはほっとしたようだった。
せっかく帰って来たのに、みんなと食卓を囲めないのは嫌だ、というラドニーの要望は、アイゼンに素直に受け入れられた。
フォーンゴーン家は下級貴族だ。通常、貴族が使用人と食事をすることはない。
が、フォーンゴーン家では使用人たちと一緒の食事が常だった。
それはカタリナの方針で、彼女自身が格式ばった席を好まないということもあるが、養子として迎えたラドニーが食卓で寂しくないように、という配慮でもあった。
使用人たちとの食事があまりにも普通だったので、ラドニーが後に通常の貴族の食事風景を知った時は、軽くショックを受けたものである。
「それでは、まずはご着席をお願いいたします。半ば無礼講ではございますが、最低限のマナーは守らせて頂きたく思います」
アイゼンにゴームレット、ラドニーにターニャが背後につき、椅子へと招き入れる。
主賓と主催という扱いだからそうなったのだが、そこでラドニーは、はたと気づいた。
「ゴームレット。カタリナは?」
「夕食は外で済ませる、とご連絡がありました。どうも、予期せぬ事態が起きたようで、ご帰宅は夜になるとのことです」
「そ、そうか。残念だ」
気落ちするラドニー。彼女としては、久しぶりの家での食事だから、全員揃ってがよかったのだ。
それを慮ったように、アイゼンの静かな声がテーブル上を流れた。
「またの機会があるのではないか?」
「そ、そうですね。ゴームレット。食事を運びこんでくれ」
「かしこまりました」
ゴームレット、ターニャ、ヘルマ、ケニックがそれぞれ食事を運び込んでくる。
アイゼンが思わず、「ほう」と感心してしまうほどの品数と色彩豊かな食材が用いられ、酒も運び込まれてくる。
「美味しそうだ」
思わずアイゼンが唸った。
「たんとお食べくださいませ。まだまだありますからね」
アイゼンの反応に気をよくしたヘルマが満面の笑みを浮かべる。
配膳はアイゼンとラドニー以外の前にも並べられていく。グラスに酒が注がれ、全員が着席した。
「では、お嬢様。どうぞ」
「あ、わ、わたしが音頭を取るのか?」
「他にどなたがいらっしゃいます?」
「う、うわあ……」
ゴームレットの言葉に逃げ場を探すも、誰も目を合わせてくれなかった。
いや、アイゼンは合わせてくれた。
「俺がやろうか?」
「い、いえ、さすがにそれは……!」
意地悪をしているわけではなく、気遣いから本気でそう言ってくれることはアイゼンらしく嬉しかったが、主賓にやらせるのはどうかしている。
結果、ラドニーは普段は使わない語彙をひねり出した。ただ、それは深く考えなかったが故に、心根に正直な言葉となった。
「え、ええい! で、出会いと再会に! 乾杯!」
「乾杯」
「乾杯!」
「かんぱーい!」
声が唱和する。それぞれ、落ち着いていたり、涙ぐんでいたり、陽気な声だった。
ラドニーは自分の発言に羞恥心を刺激され、やけになってグラスを一気に煽った。
「いい飲みっぷりだ」
感心したアイゼンが、ラドニーのグラスに次の一杯を注ぐ。
「あ、あわわ。申し訳ありません」
「酒の席だ。遠慮するな」
「あ、ありがとうございます」
「そういう旦那も、グラスが空いてるぜ?」
「すまんな」
「まあ、ケニック! それ、火酒じゃないか! アイゼン様に、なんてものを出すんだい!」
ヘルマの一喝が飛び出すが、ケニックは飄々としてアイゼンのグラスに火酒を注いだ。
「固いこと言うない。それに、旦那はもうこれがお気に入りだってよ」
「ま、まさか、それを飲まれたことがあるのですか?」
ゴームレットは目を丸くするが、その先にいるアイゼンの表情は期待の色に染まっていた。
「先ほど、風呂でケニックに勧められた。なかなかの攻撃力だった」
「ケニックさん、どこで何をやっているんですか……」
火酒の香りがきつすぎるのか、眉間にしわを寄せたターニャが顔の前で手を仰ぐ。
火酒に口をつけ、ごくりと一口飲み下すアイゼン。それを、ケニック以外の周りは緊張感を持って見守る。
「ふむ、やはり悪くない」
熱のこもったため息を漏らすアイゼン。その表情は満足そうで、嘘を言っているようには見えない。
ラドニーは尊敬の瞳でアイゼンを見つめて、呆然と呟いた。
「わたしも酒は強いですが……それを口にした瞬間、わたしは火を噴いて倒れたそうです」
伝聞形式なのは、気を失って後から人に聞いたからだ。昔、クエスト中に立ち寄った村で、好奇心から口にしてしまったのだ。
「ドワーフ用だからな! 人間には、ちときついかもしれんのに、大したもんだ!」
「少しは静かにおしよ、ケニック。はい、アイゼン様。お酒ばかりではなく、料理も堪能してくださいな」
「している。美味い。食べたことがないくらいだ」
「まあ、嬉しいお言葉で!」
照れて赤くなるヘルマ。その彼女の横で、ゴームレットは、はて、と内心、首を傾げた。
ゴームレットの視線の先にあるのは、アイゼンの手元である。
(アイゼン様は、テーブルマナーを嗜んでおられるようだ。お嬢様の例もあるし、いずこかの、やんごとなき身分のお方なのかもしれないな)
執事たるもの、主人がお迎えした客のことをあれこれ詮索するのは以ての外だが、ご満足いただくためには情報収集は欠かせない。
アイゼンに関してはもうないとは思っているが、客がなんらかの事情で不審な行為を働くこともある。そういう意味で、ゴームレットの観察眼は、主人であるカタリナに勝るとも劣らぬものとなっていたのだ。
その観察眼で、そうとはわからないように、ずっとアイゼンを観察し続けている。
(私たちのお嬢様に、何かをしでかさないとも限らないしな……! だが、お嬢様が望まれているときはどうする? どうする、ゴームレット……!)
内心の歯噛みも、表面に出さないのがゴームレットという、一流の執事であった。
「……うん、美味しい。ヘルマの料理だ……」
噛みしめるように料理を味わっているのはラドニーだ。
自分の部屋に入った時と言い、何度も帰って来た実感はあったが、ヘルマの料理はひとしお、それを感じた。
優しい味付けで温かい料理に、心が満たされるのを感じる。酒が入っていることもあって、気分がふわふわする。
(ああ、嬉しい。本当に、帰って来たんだな……)
改めて一つ一つ味わっていると、ヘルマの顔が視界に入った。
ヘルマは目を細めて、温かなまなざしで、ラドニーを見つめていた。
「な、なんだ? 人参はちゃんと食べているぞ?」
昔のやり取りを思い出して、ラドニーが言い訳するように訴える。
「それはなによりです。冒険者たるもの、身体が資本と言いますし、たんとお食べくださいな。あ、玉ねぎも美味しいのでどうぞ」
「わ、わかっている」
ぎくりとして、皿の端に追いやっていた苦手なやつらを一息に頬張るラドニーだった。
そんな光景を、アイゼンは満足そうな瞳で眺めやっていた。
夕食後、ラドニーはアイゼンを部屋まで送った。
それはターニャの役目だったが、ラドニーがどうしてもと今日だけは譲ってもらったのだった。
アイゼンの部屋の前まで来て、ラドニーは深々と頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました、アイゼン様」
「顔を上げろ。なんのことだ?」
言われ、顔を上げるラドニー。目の前には、疑問顔のアイゼンがあった。
「わたしを家に帰してくださったことです」
「……何かした覚えもないが」
それは本気で言っているようだった。
くすり、とラドニーの口元に笑みが浮かぶ。
「アイゼン様にとっては、そうかもしれません。でも、わたしにとっては、アイゼン様が静かに見守ってくださったことが、なによりの支えでした」
「そうか。ラドニーの助けになったのなら、それはなによりだ」
頷くアイゼン。
それに対して、ラドニーも頷きを返す。
「このご恩は、何かの形で、いずれお返しいたします」
「気にするな……とは言っても、ラドニーは覚えていそうだな。ならば、期待しておくとしよう」
「はい」
「ラドニー」
「はい?」
「見事だったぞ」
ラドニーの胸が詰まった。鼻の奥がつんとして、なにかが込み上げてくる。波が、堪えていたものを押し流しそうだった。
(駄目だ。まだだ。まだ、駄目なんだ)
胸にあてた手で押さえつける。
押し返せ。絶対に、泣いちゃだめだ。どんなことがあっても、駄目なんだ。
「ラドニー?」
「……いえ。ありがとうございます。お休みなさい、アイゼン様」
「……ああ。お休み、ラドニー」
アイゼンは、何かを感じ取ったようだった。だが、いつものように、何も言わない。
その代わり、気遣わしげな瞳で、挨拶を交わし、そして扉の向こうに消えた。
その場にぼうっと佇むラドニー。
(……最後、変になってしまったな。きっとわたし、笑えてなかった)
俯き、目を手で覆う。
(褒められて、嬉しかったのに。それを表に出さないなんて……いやなやつだ、わたしは)
そこで、アイゼンの部屋の扉が目に入った。
(行かないと。いつまでもここにいたら、アイゼン様の邪魔になる)
気配を察することに長けたアイゼンのことだ。おまけに、そこにいるのが様子のおかしくなった自分と来ては、気にするだろう。アイゼンとは、そんな人物だ。
重い足を引きずるラドニー。
一歩一歩進むごとに、意識が切り換えられていく。それは、ラドニーが密度の濃い冒険者生活で培った、半ば自動的に行える技術だった。
(今日は、まだやることがある。変な顔は見せられないぞ。それに)
ラドニーは、廊下の曲がり角の前で立ち止まり、先ほどまでの気分を押し出すようにため息をついた。
心配をかけないように、表情を取り繕った。
「……そこにいるのはわかっているぞ、ターニャ」
「あら、ばれてしまいました」
悪びれもせず、ターニャが姿を現した。
「まったく、ヘルマと言い、ケニックと言い、悪趣味な。いつからうちの使用人は、盗賊じみた行為に手を染めるようになった?」
「申し訳ございません。お嬢様が心配で」
「アイゼン様がなにかするとでも? そんなわけがないだろう」
そこに込められた絶対的な信頼に、ターニャはつい、温かい笑みを返してしまう。
「いえ、お嬢様が何かしでかさないか、心配で」
「ターニャは、わたしをどういう目で見ているんだ……!?」
アイゼンの部屋が近いので、声を小さくして怒鳴るラドニー。
「あと、カタリナ様がお帰りになられましたことをお伝えに」
「それを先に言ってくれ!」
ターニャを置いて、半ば駆け出すラドニー。
ターニャとの会話のおかげか、心は随分と軽くなっていた。
カタリナの部屋は、フォーンゴーン邸の二階にある。
そこは書斎と一体になった部屋で、屋敷で一番大きな部屋だ。
その書斎の机の前の椅子に腰かけ、カタリナは自分で肩を揉んでいた。
「あいたた。年かね。忌々しいこった」
ただでさえ忙しいギルドマスターとしての仕事に横やりが入り、先ほどまで冒険者ギルドにいた。
やっとの思いで帰って来たのだった。
「まあ、ラドニーが顔を出したようでなによりだったが。それだけが朗報かね」
最後の最後に引き返してくることも想定していたのに、そうはならなかったらしい。
それどころか、自分が思っていたより、随分といい結果になったようだった。
ゴームレット、ヘルマ、ターニャの報告からも、それがわかった。ケニックだけは、酔いつぶれて眠ってしまっていたので、何も聞けなかったが。
「ドワーフを酔いつぶしたって、どんな人間だい」
アイゼンと競い合うように飲んで、先につぶされたらしい。戦闘力と同じく、酒豪という表現では言い表せない酒の強さだった。
その時、カタリナの部屋の扉がノックされた。
「誰だい?」
「カタリナ、ラドニーだ」
「おや、珍しい」
扉の向こう側に聞こえないように、声を潜めたカタリナだった。
「入んな」
「失礼するぞ」
部屋に入って来たラドニーは、トレイを携えていた。トレイの上には、サンドイッチ、ワインで満たされたグラスが置いてあった。
「忙しくて食いっぱぐれたと聞いてな。差し入れを持ってきた」
「おや。珍しいこともあるもんだ」
今度は、ラドニーに聞こえる様に言うカタリナ。意外で、声を潜めるのに気が回らなかったのだ。
「言うな。わたしだってそう思っている」
真面目腐って答え、ラドニーは机にトレイを置いた。
「あんたが作ったのかい?」
「そんなわけがない。ヘルマだ。わたしは持ってきただけだ」
「そうだろうね」
カタリナも本気でそう思って聞いたわけではないが、少々失望した。いい加減、料理の一つでも覚えてほしいものだ、と内心ぼやく。
カタリナの内心に気づかず、座る場所を探すラドニー。書斎の机の近くには本や資料が積み上げてあって、幼いころはそこに腰掛けることもあった。
一瞬そうしようと思ったが、本好きなアイゼンの顔がよぎった。いい顔はされなさそうで、また、今の体形で座ったらひっくり返りそうだったから、それはやめておいた。
代わりに、背が届かない時のための踏み台が目についたので、それをカタリナの傍に持ってきて腰掛ける。
その動きにカタリナは、ぱちくり、と瞳を大きくした。
(おや。雑談でもしていくつもりかい? これはまた、本当に珍しい)
会話と言えば、ギルドマスターと冒険者としての事務的なそれが大半だというのに、それ以外をしていく気配だった。
「帰りが遅かったが、緊急事態でも起きたか?」
それが発生したならば、自分にも影響があるかもしれない。そう思ってのラドニーの質問だった。
「……ああ。まあね」
ギルドの内情だったが、取り立てて秘密にすることでもないか、と思い溜息をつくカタリナ。
「バトゥが捕まってね。その後始末にかかっていたのさ」
「バトゥが? とうとう、何かやらかしたのか」
「あたしもそう思ったがね。なんでも、貴族街で不審な行動をしていたらしいよ。それを問い詰めた衛兵から逃げて、最終的には捕まったってさ」
「なにをしているんだ、あいつは……」
前々から粗暴な振る舞いがある男だと思ってはいたが、まさか捕まるところまで行くとは。
その貴族街が、自分の住む区画のことだとは思いつきもしないラドニー。
「貴族街でなにをしていたんだ?」
「どうも、そのあたり要領を得なくてね。あいつのせいだ、とか、重要な任務が、とは言いはするが、それ以外は頑として口を割らなかったとさ。結局、実際に何か犯罪行為をやらかした訳じゃないから無罪放免とはなったが、そんな態度だったからあたしらギルドの上層部が呼ばれるはめになったのさ」
「確かに不審だな……」
明日からどう接すればいいのか、さっぱりわからないラドニーだった。
「おかげで、こんな時間になっちまったってわけさ。うん、やっぱりヘルマの料理は格別だねえ」
言いながら、サンドイッチに手をつけるカタリナ。
ラドニーは、カタリナが食べ終わるのを静かに待っていた。
やがて食べ終わり、ワインをちびちびと味わうカタリナ。
そこまで待ってから、ラドニーは神妙な口調で話し出した。
「ありがとう、カタリナ」
「なんだい、急に」
「わたしがいない間、わたしの部屋を綺麗に保ったり、庭を整えてくれたり。カタリナが許可を出してくれたんだろう?」
「ああ。あいつらが、あんまりうるさいからさ」
いくらゴームレットが資産を管理しているとはいっても、そこから捻出するためには当主であるカタリナの許可が必要となる。ならば、カタリナも協力していたということだ。それは、容易に想像がついた。
「それに、今日、顔を出せと言ってくれただろう?」
「いい加減におしよ、と思っていたらね」
「本当に。いい加減にするべきだった。みんな、待っていてくれたんだな」
何度も思う。もっと早くに帰って来るべきだったと。
これから言うことを想像すると、顔が紅潮してくる。あまりに照れくさくて、カタリナの顔を見られない。
「ありがとう、カタリナも。ずっと待っていてくれて」
ギルドマスターともあろうものが、言葉を失った。
だが、ラドニーは返事を期待していなかったようで、慌ただしく立ち上がると、扉へと向かった。
「用はそれだけだ! おやすみ、カタリナ!」
扉の閉まる音。
それが耳に飛び込んできて、ようやくカタリナは我に返った。
「あ……」
ようやく椅子から立ち上がりかけたが、追いかけるには遅いと気づいて、そのまま、すとんと尻を落とす。
カタリナはため息をついた。それは、長い間溜め込んでいたなにかが吐き出された瞬間だった。
「……なんてこった。まさか、こんな日が来るとは」
なにがなにやら。
それがカタリナの正直な感想だった。
一日の終わりの衝撃としては、とびっきりのものだった。
ラドニーを変えたきっかけとして、思い当たるものは一つしかない。
「アイゼン。あんたの仕業かい?」
笑うべきか、訝しむべきか。どう対応するべきか。
ギルドマスター、カタリナ・フォーンゴーンは、判断に迷った。




