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落ちているはずが、登ってしまっていた少女

 蝶になりたかったのか。花になりたかったのか。私は一体何者なのだろうか。生きてきたのはたったの十五年だけで、それなのに、私は、産まれてから、今のように、死んでしまうまでの記憶を、すべて、昨日見た夢や昨日食べた料理や昨日聴いた音楽のように思えてしまう。

 大きなトラックに轢かれたんだ。私はそれを覚えている。黒い猫が走っていたんだ。それも覚えている。小さい頃、指に登ってきたカマキリに噛まれたことも、それがとても痛かったことも、何もかも覚えている。しかし、トラックに轢かれた記憶と、カマキリに噛まれた記憶は、決して、昨日と今日との間にはとても大きなラグが発生している。それでも、私の記憶は、まるでどちらも昨日の記憶のように思い出してしまうのだ。

 私は死んだ。朝、目が覚めた時、はっきりと覚えている夢のような内容だった。頭には天使の輪がついているような気がして、そういう気がしてくると、本当についているような気がしてきた。実際に、私の頭には天使の輪が付いていたのかもしれない。今いるところも、天国かもしれないし、天国じゃないかもしれない。目の前にはこたつがある。今は春でも秋でもなく、冬でもない。その上にはたくさんの書類が乗っていて、十数年も前のパソコンも置かれている。少し目を右にやると、二十インチ程度のテレビが置かれていて、パチンコの番組が放送されている。左にやると、赤色の腰掛がそこにはある。さっきまで誰かが座っていたのだろうと、確かに分かることのできる馨りが残っていた。天井から吊るされている電球は煌々と煌めいていて、まるで、ここが天国であるかのように思えてきた。カーテンの隙間から見えるのは、ピンク色の無地のティーシャツと、そびえ立つ調整豆乳のような色のビルだった。こちからかあちらまでの隙間からは、陽の光が差し込んでいた。ベランダを出てすぐ左手にドラム式の洗濯機があるのを私はなぜか知っていた。

 ここは天国なのだろうか。それとも、誰かが住んでいるのだろうか。

 水の流れる音が聞こえた。トイレの音だ。誰かが存在しているのだ。その事実に、私は心臓をドキリとさせた。冷たい氷を乳首に当てられたような感覚だった。トイレの流れる音が聞こえたという事は、誰かが用を足したという事だ。足した用が流れると、今度は清潔な水が流れるはずだし、実際に流れている音はこの部屋まで聞こえてくる。座椅子の向こう側には引き戸があり、そこは開かれていて、別の部屋に繋がっている。私が今座っている場所からでは、向こうの部屋の状況といえば、視線の行き着く所に冷蔵庫があるくらいだ。そこの部屋が台所なのであろうという予想も、その部屋の雰囲気をなんとなく汲み取った結果の予想で、決して正解という訳ではないが、消去法を取らせていただけるのだとすれば、やはり、そこは台所なのだろうという予想に行き着く。

 水の音が止んだ。誰かが歩きはじめる音がした。足音だ。その足音は三度聞こえ、四度目で、向こうの部屋の、私の視界の中に入ってきた。白色の髪の毛の美少女であった。私はまるで驚いた。頭には天使の輪を浮かばせている。絵の具のグリーンとイエローを混ぜたような瞳を持つ少女だった。ベランダに干されていたティーシャツと同じものだろう。オーバーサイズであるため、果たして少女がパンティーを着用しているかどうかは、シュレディンガーのようなものだった。


「……起きましたか。おはようございます。貴方は今まで眠っていたので」

「はい、おはようございます……」


 私がこの少女について知っている事と言えば、例えば、この部屋で暮らしているという事や、天使なのではないかという疑惑が浮いているという事や、その程度だ。それ以外の、天使を彷彿とさせる、カールのかかったセミロングの髪の毛や、風呂上がりであると宣言しているような、プラカードの代わりに首から掛けている、何やら四字熟語のようなものがプリントされているハンドタオルなど、見ただけでは到底判断できない、いわば正体不明の少女であることに変わりはない。

 そもそも、私はなぜここにいるのか。まずそこからである。名も知らない少女の名を知るよりも先に、私が何故ここにいるのかという説明をもらいたい。


「心中お察しします、アーメン。さて、貴方は死にました。理解はできているはずですが」

「は、はい……」


 軽く、胸の前で十字架を切るそぶりを見せた後、痛みや情熱や憎しみや愛や悲しみや絶望を一切知らない、それらが全くもって微塵も干渉の余地がなくなるまでに、冷めきったような、枯れた砂漠のような、一反木綿のような、能面のような表情の少女が、向こうの部屋、恐らく台所からこちらの部屋、私が今座っている部屋へと入ってきた。


「ここがどこだと思いますか?私は誰だと思いますか?貴方が今どのような状況に置かれているのか、それについて知りたいんですよね。結構な事です。ただひたすら甘受するだけよりかは、遥かにマシです。私は今、とても驚いているのです。こんなところに来るような人間であるのに、その程度の思考はまだ残っているのだという事に」

「あ、あの……」


 どこで息継ぎをしているのかが分からないペースで、濁流のような言葉と情報を浴びせられた。一句一句を頭の中で分解している隙に、少女は別の言葉をまた別の形で浴びせてくるものだから、私の頭はタコ足回線のようにこんがらがってしまった。


「さ、質問をどうぞ。残念ながら、質問を無しに私は何一つも答えられませんから」

「あ、あの、では……」


 質問をしてくれと言われたのだから、私が今一番気になっている事から、順序に紐解いていこう。ここは何処なのか?貴方は誰なのか?


「えーっと……」

「…………」


 少女は、表情こそ冷え切っているものの、その瞳は、何かを、誰かを、確実に確定的に蔑む、下に見る、馬鹿にするといった類の感情を含むものになってきた。


「あ、ここ、どこなんでしょうか?」

「普通ですね。いいでしょう、答えてあげます。ここは私の家です」

「い、いや、そうじゃなくて……」

「住所ですか?ニッポントッシ県県庁所在地ノスタルジック町三丁目十一の三葵マンション」

「え、なんですかその住所……」

「そうです、ここは貴方の住んでいた世界ではありません。国如きの問題ではないですよ、当然ですが。世界規模です。貴方はあちらの世界からこちらの世界へと引っ越してきたのです。確かに、この国の名前はニッポンですが、貴方の知っているニッポンとは相当な違いがあります。そこの、玄関から簡単に外に出られますよ。相違については、口頭で説明してもキリがありませんので」

「は、はぁ……」


 私の求めていた答えとはほんの少しだけ違うが、もっぱら、求めていたものとそう違いはない。ここは、私が今まで過ごしてきた世界とは別の世界。別のニッポンだという事だろう。私は死んだのだ。つまるところ、死後の世界とでもいったところだろうか。何故わざわざニッポンで死んだのに、死後もニッポンで過ごさなくてはいけないのか。もっと野原の広がる国で過ごしたかったものだ。


「じゃあ、次に……、その、あ、貴方は、誰ですか……?」

「見てのとおりですけど」


 答えになっていない。


「神様です。貴方の担当の神様です」

「私の……?」

「正確には、貴方のような困ったさん担当の神様です。会社感覚で言えば総務部です。学生気分で言えば生活指導員です」

「困ったさん……ですか?」

「はい、困ったも困ったですよ。本当にろくでもない人生を歩んできたんですね」


 その言葉を聞いて、私は少し、昔の、生前の記憶について思い出してみることにした。しかし、それが、うまく思い出せなかった。何故だろうか。蝶になりたかったのか。花になりたかったのか。なにが好きで何が嫌いだったのかも覚えていないし、どのような場所でどのような生活を送っていたのかも定かではない。ただ、陽の光の当たる学校のようなところの教室のようなところの隅のようなところの机のようなところにある椅子のようなものに座っては、遠くを見つめていたような気がしなくもない。そこまで、曖昧なのだ。


「困ったさんです。貴方、どうなっているか知っていますか?」

「何がですか?」

「死んだのに、普通、こういう所に来ると思っていましたか」

「……もっと、こう、天国的な所を想像していました」

「違います、貴方は地獄に堕ちる予定だったのです。天国に行けるとでも思っていましたか?貴方のような人間が?これですかね、ゆとりというのは」

「はぁ……」


 地獄行きだったのか、私は。そもそも、天国や地獄というのは、本当に存在していたことに、まずは一握りの衝撃だ。この少女が言っていることが嘘である可能性だってもちろん存在はしているが、到底嘘とは思えない。それは、リンゴが落ちることを疑えないのと同じ理論だ。


「しかし、貴方は軽すぎた」

「軽い……?」

「分かっていると思いますが、体重の話じゃありませんよ。分かっていると思いますが。貴方の魂の話です。前世では一体何をしていたのですか?と調査が入るなんて特例中の特例なのですよ。管理局にも久々の大仕事だと張り切っていたものです。いいですか?もう死んでしまっているあなたに対してこの助言という物は非常に、ニンジンの皮くらい、使い道のないものかもしれませんが。経験を積むことの一番のメリットは、他人との会話のとっかかりとなる事なのです。人生が豊かになるなんて、そんなものは何のメリットでもありません。かなくそです。人生を豊かにするという事は、積んだ経験を元に、他人と会話をするという事なのです。他人との会話こそが、人生の豊かさの指標となるのです。貴方はそれを全くしてこなかった。酔生夢死とはまさにこの事です。貴方が死んでしまい、一体何人の人間が葬式に参列したのでしょうか。家の宗教がキリストなのかどうなのかは知りませんが。経験の薄さ、人生の透明さ、すべてが最高峰ですよ。空気が薄くて死んでしまうほどです。とにかく、貴方の人生があまりにも薄っぺらすぎたので、地獄に堕とすことが出来なかったのです。なので、一時的にこの世界に来てもらいました。この世界でとびっきり濃ゆい第二の人生を送ってもらい、再び死んだとき、地獄に堕ちてもらう事になっています。分かりましたか?」

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