03.帰るはずの場所
今回はちょっとシリアスです。
目覚めた日に感じていた不安はどこへ行ったのか。僕のフリントとしての振る舞いは誰にも怪しまれることはなかった。
怪しまれることはなかったが、シリカだけは二人で居る時に敬語を使わないように言ってきた。もしかして、フリントとシリカは気安い仲だったのかもしれない。
半月が経った頃。生活様式も文化も今まで見たことの無いものが多く、僕はここが本当に地球上の場所ではないのだと理解してきた。ここでは、月は2つ浮かんでいるし1日は24時間ではない。
最近になってようやくカルチャーショックを受けることがなくなってきた。必死になってこの世界について調べ回る日々もようやく一段落ついたところだ。この世界に適応してきたと言ってもいいのではないか。
しかし、周囲は部屋から出て他人と会話をするフリントに慣れていない様子だった。特にフリントの父親の動揺は凄まじかった。
これは庭を散策しようとした時のことだ。廊下を歩いていると、僕を見つけたフリントの父親が信じられないものを見るような目で走り寄り、僕の肩を掴んだ。
「フリント、フリントなのか!?」
「は、はい」
「外に……出れるのか?」
「はい。これから庭に出て花の鑑賞でもしようかと」
フリントの父親の目から涙がツーッとこぼれた。そして、ブルブル体を震わせ、おいおいと声を上げて泣き始めた。
「ああ……っ!フリント!すっかり元気になって!」
顔を合わせるたびにこのようなやりとりがあるのだ。最近になってまともに会話が成り立つようになったが、時々涙ぐんでいる姿を見かけることもある。
今日は屋敷の書庫の前で偶然出会った。僕が最近ここで本を読んでいることが多いと執事から聞いて、足を運んで来てくれたのだという。僕が目覚めたあの日から、この世界について調べる時にこの書庫の書籍を読んで知識を身につけていたが、静かな書庫は心地良かったので調べ物が無くともよく訪れる場所になっていたのだ。
すれ違うことがなくて良かった、と思いながら彼の半歩ほど後ろを歩く。しばらく廊下を歩いてから、彼がようやく話し出す。会話が始まるまでのただ黙って歩く時間は、彼がフリントと話すための心の準備時間のようなものなのだろう。
「フリント。最近お前は熱心に勉学に励むようになったな。屋敷の書庫に興味を持つことなんて今まで無かったのに」
「この屋敷の書庫には興味深い書籍が数多くあると、最近になって気付いたのです」
気難しい顔をして話すフリントの父親だが、息子との距離感を測りかねているのだと何となく感じる。
「なんだ、今度は部屋ではなく書庫に籠るつもりなのか?」
「ハハハ、程々にするつもりですよ。知識はいくら積み重ねても足りないくらいですからね。とりわけ、我が家が代々治めるこの町の歴史からは学ぶことが多く、歴代の当主の政治手腕に驚くばかりです」
それは冷たい言い方に聞こえたが、彼が口に出した後に「やってしまった!」と言いたげな表情で振り返る。もちろん、彼に傷付けるような意図は無いと分かっているのでそのまま会話を続ける。
「……おお、立派なことを言うじゃないか。この調子で続けるといい」
「はい。これからも励みます」
「では、儂は執務に戻る」
「父上、午後からもお仕事頑張ってくださいね。それでは、また後で」
曲がり角の向こうに去ったはずのフリントの父親が、ツカツカと歩いてこちらに戻ってくる。そして僕の肩を掴み、揺さぶる。
「9年ぶりにまともに顔を合わせて話しているが、昔のように変わらずお前が父と呼んでくれるなんてなぁ……!」
「ち、父上」
今日もフリントの父親は厳しい顔を崩しておいおい泣き始めるのであった。
部屋に戻り、抱えていた本をベッドサイドテーブルに積み上げる。脱いだ深い緑のジャケットをハンガーに掛けてクローゼットにしまってからベッドに寝転がる。そして、目を閉じて考える。
この世界に来てしまってから2週間が経った。今の状況を日常と思える程に僕は、人間は、どんな環境にも順応できてしまうものだ。自分自身のことについて頭が働く程には、余裕が生まれてきたのだろう。
「僕は……何かを忘れているような気がする」
声を絞り出して唸るように呟く。一人になると、ぼんやりとそんなことを考えるようになっていた。
窓に打ち付けられた板の隙間から差し込む日差しが暖かい。僕は穏やかな昼下がりがもたらした睡魔に抗うことなく眠りに落ちた。
「うわっ!?」
ベッドから転がり落ちて目が覚めた。打ち付けた背中がヒリヒリ痛む。毛足の長い絨毯の感触を頬に感じて転がっていると、ベッドの下になにか光る物を見つけた。
「ステッキ?いや、杖か?」
手を伸ばして取り出したそれは、細い木製の棒だった。息を吹きかけて埃を落とすと、棒にわずかな凹凸状のすり減りを見つけた。まるで何度も握って使い古されたかのような跡だ。
棒の凹凸に合わせて握ると、不思議と手に馴染む。気が付くと、僕は目の前のグラスに向かって自然と杖を振っていた。
「おお……」
小さな光の粒がグラスの中で生み出され、ゆらゆら揺れる。夕暮れのオレンジにかき消されそうな儚い光が部屋を照らした。
「小さな光を創る」という、ささやかな超常現象。これがフリントの魔法なのだろう。
「綺麗だ……」
美しい。特に、電球や炎、太陽光のどれにも当てはまらない神秘的な光の揺らぎが。目の前の新たな光源が、窓からの光で作られていた家具の陰影を侵食して生き物のように照らす。僕は、まるで燃える小さな星を見ているかのような高揚を感じていた。
パチンと音を立てて消えたグラスの中の光を名残惜しく見て、ため息をついた。それから、もう一度杖を振ろうとして腕を伸ばした時。
「……?あれ?」
ふと思う。指揮者のように杖を振る、この体に染み付いた動作。これは僕の知らない、フリント自身の習慣的なものだ。何故かこれに胸の奥から湧き上がるざわめきを覚えている。しかしこの感情の正体が、名前が見つからない。
胸騒ぎを感じ、フリントの父親の執務室の方に早足で向かう。昼間とは違い、屋敷中の雰囲気が重々しい。こっそり耳を澄ませると、執務室の中からはフリントの父親と女性の声が聞こえた。
「ソーダライム卿!どうか、もう少しだけ待っていただけないでしょうか!」
「私もそうしたいのは山々なんだけどねえ……。君の町、赤字経営続きだろう?君の家が財産を切り崩してなんとか保たせているのも知ってるよ」
「それは……そうですが!」
「ここ、『輝きの町』を隣町に吸収合併する。君の家は統治権こそ失うが、お家取り潰しってわけじゃあない。何が不満なんだい?」
「それも知っているはずでしょう!隣町の奴ら、この町の晶石業を馬鹿にしているんですよ!」
「それは……まあ。特にあの令嬢の晶石業に対する態度は有名だからね」
晶石業。それは、魔力が微量に含まれている石、晶石を加工する伝統的な産業だ。魔晶石とされる基準を満たせない魔力量しか含まれていない石が晶石であるので、魔晶石の製品と比べるとやや軽視されがちな一面もある。それでも、晶石は含まれている魔力が微量であるため、魔道具ではなく日常製品に組み込むなどの棲み分けはできているはずだ。
「はぁ。分かった。あと1年だ。経営が黒字に回復したらこの話は無かったことにしてもいい」
「ありがとうございます……っ!」
「ただし!無理だったら有無を言わさず吸収合併だ。いいね?」
「承知しております……」
フリントの父親の涙声ではない弱々しい声は初めて聞いた。
「この町が無くなっちゃうのかしら……?」
「嫌よ、隣町に『輝きの町』が奪われるみたいで」
執務室から屋敷中に漏れ聞こえる声を聞いて使用人がひそひそ話す。
奪う。その言葉が聞こえた時、カチリと全ての歯車が合うように今まで感じていた胸のざわめきの答えが現れた。
吐き気を感じ、その場を離れて自室に向かう。三面鏡を開き、目の前にいる自分の姿を見て嘔吐した。
そうだ、今まで忘れていた。いや、考えないようにしていた。僕はフリントではない。僕はトオルだ。
「元の彼はどこに行ってしまったのだろう」
そんなことは考えないようにしていた。いつか元の体に戻るから、なんて考えて目を逸らしていた。
僕が目覚めたあの日の乱れたシーツや散らかった机を思い出す。自分ではない誰かがほんの少しまで生活していた痕跡だ。本来は、あの日に目覚めてここに立っているべきは自分ではなく彼のはずだった。
「僕は、奪ったのか?この場所で生きていた彼から」
それはあまりにも理不尽ではないだろうか。行き場のないやるせなさに涙が溢れる。
「理不尽に失われるものはあってはならない」。幼い頃から抱いていた信念にヒビが入る音がする。
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……」
謝る相手はもういないのに謝罪の言葉が延々と口からこぼれ出る。すっかり日が落ちた頃、暗い部屋でふと気付く。
「彼は今、帰る場所すら……っ!」
フリントが生まれ育ったこの町が無くなろうとしている。もしもフリントがこの体に戻った時、この町が無くなってしまっていたらどれほど悲しむだろう。果たして、彼は元いた場所に帰ってきたのだと心から思えるのだろうか。
僕がこの町を守らなくてはいけない。いつか僕が彼に戻るまで。それが僕のやるべきことだ。