紫色の花弁『白詰詞』
――day.2――
カーテンの隙間から射し込む朝陽に目を細めながら、私は久しく憂鬱な朝を迎えました。
昨日私は暦日さんの失望の言葉を耳にした途端、目の前が塗り潰されていきました。周囲の声が可視化され、言葉だけではなく、様々な感情の色が視界を埋め尽くしたのです。
色は混じり合い、どんどん暗い色へと変色していきます。
そして私は、真っ暗闇の中で意識を失いました。
どうやって帰宅したのかはわかりませんが、病室ではなく自室で目覚めたことから、きっと私の事情を知る誰かが居合わせたのでしょう。
トントンとノックの音が響き、部屋のドアが開きました。
「おはよう、いい夢は見られた?」
ドアに背を預けてそう尋ねてきたのは、私を引き取ってくれた伯母さん、玲奈さんでした。出勤前に様子を見に来てくれたのか、キャリアウーマンらしいカッチリとしたスーツ姿です。
布団に隠れながらおずおずとした態度で「はい……」と返事すると、玲奈さんは安心したように微笑んでくれます。
「無理するくらいなら欠席するといいわ」
「いえ、学校には行きます」
玲奈さんにとって予想外の発言だったようで目を見開かれました。
今までの私ならば迷わず家に閉じ籠っていたことでしょう。けれど、いつまでも自分の弱さに甘えてはいられません。
私が変わらないと、暦日さんを変えることは出来ないのです。
「話さないといけない方がいるんです」
「そう……」
いつもならば私の安否を案じ、休養を勧められるのですが……
「なら、悔いの無いよう、全力でぶつかってきなさい」
複雑そうな表情を浮かべ、引き下がってくれました。
「玲奈さん?」
沈んだ様子の玲奈さんに声を掛けると、玲奈さんは襟元に隠れていたペンダントを取り出しました。雫型の透明な宝石が、細やかなカッティングによって虹色に光輝いています。
「……まだ心葉が小学生の頃、時哉達と一緒に、私の大切な人も亡くなったの」
「あ」
クリスマスの朝、お父様とお母様は玲奈さんに私を預け、プレゼントを買うために出掛けました。その道中で、車が追突事故に巻き込まれたのです。その時に車を運転していた玲奈さんの好きな人も、亡くなったと聞いています。
当時の私は自分の泣き声に埋もれながら、毎晩目を真っ赤に腫らせていました。
玲奈さんも辛かったはずなのに、私を安心させるため、涙一つ見せることはありませんでした。
玲奈さんは私を育ててくれた、もう一人のお母様なのです。
「私はね、彼とはお互いに愛し合っているとわかっていたけれど、二人で居られればそれだけで良いと思っていたの」
好きな人と結ばれることで幸福になる人がいれば、好きな人の側に居られるだけで幸福だと思う人もいます。
考え方や捉え方は人それぞれ、価値観も理想も十人十色ということなのでしょう。
「失って初めて、生きている間に想いを口に出して伝えなかったことを後悔したわ」
「どうして相手に伝えなかったんですか……?」
玲奈さんは絞り出したようなか細い声で、顔を伏せながら呟きます。
「相手に伝えられることを、当たり前に思ってしまっていたのよ」
「当たり前……」
「ええ。人生は長いから、いつでもいい。想いが通じあっているなら、わざわざ口に出すことはないと甘んじていたの」
「告白は、信頼の証でもあるんですね」
自分で発したその言葉は、私の胸に重々しくのし掛かりました。
私はまだ、暦日さんに全てを晒していません。利用しようとしていると疑われても仕方がなかったのです。
「玲奈さん、私……」
言葉を紡ぐ前に、私は玲奈さんの腕の中にいました。
愛情溢れる暖かな抱擁は、安心感と自信を分け与えてくれているようです。
「行ってらっしゃい、詞」
「はい。いってきます」
☆☆☆
意気込んで出掛けたものの、何もできないまま時間は過ぎ去っていました。
もう昼休みの時間になってしまい、反省しながら中庭の隅で縮こまります。
バクバクと心臓が喧しく鳴り、心を落ち着かせるため、まだ読みかけの本を開きます。
何度も勇気を振り絞り、暦日さんに話しかけようとしました。ですがすぐに言葉が周囲を埋め尽くしてしまい、視界が閉ざされるのです。
私はいつものように、本の世界という幻想に閉じ籠っていました。
ふと、視界の端にズボンの裾が見えました。読んでいた本にも影が落ちます。
「詞さん、こんなとこで何やってんすか?」
ズズーという耳触りな音へと目を向けると、そこには中性的な顔立ちの一年生が立っていました。
前髪をピンで留め、パーカーを羽織っているため、軽薄な印象を受けます。
紙パックのジュースを啜りながら、お日様のような明るく眩しい笑顔を浮かべていました。
「お久しぶりっすね!」
「ひなた……くん……?」
「そうっすよ。廊下歩いてたら中庭の隅っこで体育座りしてんのが見えたんで、来てみたんす」
私の本を広げる姿を見ただけで、陽君は状況を把握したようです。
隣にしゃがみ、妹の雪ちゃんにするような優しい手つきで、頭をくしゃりと撫でられます。少しくすぐったいです。
「ユキが詞さんに会いたがってたんすけど、よかったら放課後時間あったりしないすか?」
放課後……本当は部活がありますが、部員は私一人。あってないようなものです。
「大丈夫です。私も、雪ちゃんに会いたいと思っていました」
「なら授業が終わったら、いつもの公園で待っててくれないすか? 今日はオレがユキの迎えに行く日なんで」
「はい」
陽君は同じ学校なのでたまに会いますが、雪ちゃんとは数ヵ月ぶりです。楽しみで声がキラキラと輝いて感じます。
ふと、光の粒が溢れているのが見えました。目で辿ると、陽君のイヤホンから出ているようです。
「何を聴いているんですか?」
「へ?」
一瞬キョトンとしたものの、陽君はイヤホンが繋がれた音楽プレイヤーの画面を見せてくれました。
「『アステリズム』?」
「最近流行りのアイドルの曲っすよ。ユキが大ファンなんで、オレも聴いてるわけっす」
眩い音はまるで暗闇に隠れた誰かを照らすかのように、鮮やかに散っていました。
耳と目が癒やされる歌声に酔いしれていると、どこかから別の歌声が流れてきました。
「……この声って」
上の階を見上げれば、風に揺られるカーテンの隙間から、陽君が聞いていたものと同じ光が零れ落ちていました。
浮かび上がるシルエットに目を凝らしていると、カーテンが翻ります。
その向こうにはどこかで見たことのある、華のように気高い雰囲気の女性が立っていました。
「あ、館花先輩っすね」
「知っているんですか?」
「学校じゃかなり有名っすよ」
陽君の笑顔が苦いものに変わります。
私があまりにも噂に疎いので呆れてしまっているようです。
「金鈴高校の三年生で、性別の垣根無く魅了する美しさと、お嬢様としての気高さを兼ね備えた、いわゆる高嶺の花ってやつっすね」
陽君より一年も長く在学しているのに、全然知りませんでした。
お嬢様という単語に、胸がズキッと痛みます。
「成績優秀でスポーツ万能。秀才兼備な存在感から、付いた異名は『孤高の百合姫』って聞いたっすよ」
「すごい方なんですね……」
対して私は何も持っておらず、肩書きだけのお嬢様です。
影が薄くて、言葉の海に溺れてしまう……まるでローレライの歌をなぞっているようです。
「そういや兄貴のこと見てないっすか?」
「お兄さん、ですか?」
陽君は物悲しそうに目を伏せました。
お会いしたことがあるのに忘れてしまうなんて、失礼ですよね。
怒るのではなく悲しむところが、なんだか陽君らしいとも思ってしまいます。
「……詞さんも、忘れてるんすね」
「ごめんなさい」
「いや、いいんすよ! みんな同じっすから」
自分の事のように心を痛める陽君。私はそんな風に共感してくれる人がいなかったから羨ましいです。
「でも兄貴が、詞さんのことを心配してたってことだけは、知っておいてほしいっす」
「私の、ことを……?」
予鈴が鳴り響き、陽君と別れて教室へと向かいます。慣れというのは恐ろしいもので、意識せずとも自然と足は動いていました。
☆☆☆
放課後、私は電車に揺られながら、いつもより少し先の駅で降りました。
何度も歩いた河川敷沿いの道を進みながら、陽君と雪ちゃんと一緒に遊んだ日々を思い起こします。
泥だらけになるまで芝生の上を転げ回ったり、かけっこの最中に雪ちゃんが泣き出してしまったり、陽君と不器用ながらも花冠を作って雪ちゃんにプレゼントしたり……
想いを馳せると浮かび上がるのは、他愛のない日常が、キラキラと宝石のように輝いていたあの頃。
そういえば、一度だけ雪ちゃんが迷子になったことがありました。
あれは桜舞うお祭りのある日、お二人の親御さんに同伴してもらい、露店を見ていた時のことです。
好奇心旺盛な雪ちゃんはあっちこっちの店を巡り歩き、いつの間にかいなくなっていました。
当時は誘拐事件が多発していたので、親御さんはもちろん、私と陽君も大慌てで人波をかき分け探していました。
履き慣れない下駄の鼻緒が切れ、素足のまま駆け回っていると、雪ちゃんを見つけてくれた人達がいました。
楽観的な子、大人びた子、快活な子の三人組でした。もう顔も名前も覚えてはいませんが、印象的な言葉だけはハッキリと覚えています。
そういえば、あの言葉の雰囲気はローレライの歌に似ているような……あの三人は、今どうしているんでしょうか。
待ち合わせ場所にたどり着き、いつものように本を開きました。
けれど本に集中することはできません。
暦日さんのために、私は何ができるんでしょうか。
少しでも心休まる居場所があれば、前へと進むお手伝いができるかもしれないと思っていましたが、お節介だったのかもしれません。
でもどうしても共感できてしまうから、私は放っておけないのです。
物思いに耽っている私の耳に、パタパタと地面を蹴る音が届いてきます。
顔を上げると、陽君と同じお日様のような眩しい笑顔を浮かべた、雪ちゃんの姿がありました。
「コノちゃ~んっ!!」
細い腕を千切れんばかりに大きく振り、ランドセルを中身ごと揺らし、真っ白い肌は頬がほんのり色づいていました。
意味もなく開いていた本を閉じ、脇に置いていたカバンへ片付けます。
次の瞬間、私の胸に小さな身体が飛び込んできました。
「あのねあのねっ! ユキ、今日ね、バイクでびゅーんって、学校行って――」
雪ちゃんの人懐っこい声と笑顔が、少しずつ私の周りの言葉を溶かしてくれます。
雪ちゃんから聞いた世界は、いつもキラキラと光り輝いていて、私もそんな風に世界を見られたらと考えてしまいます。
「ありがとう、雪ちゃん」
まるで雲間に差した光のように、雪ちゃんは私の心の迷いを払ってくれました。
「? コノちゃんが元気ならいっか!」
雪ちゃんは自分のことのように、無邪気な笑顔で喜んでくれます。
「あっ! ヒナ君おそいよ~!」
「悪かったっすね」
雪ちゃんの視線を追うと、陽君が立っていました。
その後ろには見知った姿が一つ。
「詞さんにお客さんっすよ」
もう二度と口を利いてくれないと思っていた人が、そこにいました。
「暦日、さん……」
「これ」
無表情に反して感情的にクシャクシャに握られた紙には、何やら文字が書かれています。
「汚れてるけど、受け取ってくれ」
ぶっきらぼうに渡されたのは、私が渡した入部届でした。
一方的に押し付けたことは、自己満足と言われても仕方のないことだと覚悟していました。
受け入れてもらえるのは、この上なく喜ばしいものですね。
「それと、もう一枚くれないか?」
「え?」
言われるがままに入部届をもう一枚渡しました。一体、誰の分なんでしょうか?
抱いた疑問は、知らぬ間に口から零れていたようです。
「……友達。同じクラスの紫蘭祷」
「え、マジっすか?」
「イノリちゃん、コノちゃんとおんなじところに入るのっ?」
驚きの声を洩らしたのは、陽君と雪ちゃんでした。
どうやら二人の知り合いでもあったようです。
「……あいつ、自分のことを他人の記憶に残らないって言ってたけど、お前らは覚えてるんだな」
「オレらが覚えてるのは当然のことっすけど、暦日先輩こそどうして覚えてるんすか?」
「さあな」
暦日さんは何事もなかったかのように淡々と呟いていましたが、陽君は混乱しているようです。
雪ちゃんはといえば、「遊びに行ってもいいのかなっ!」と楽しそうに聞いてきます。
イノリちゃんと呼んでいましたし、仲良しなのかもしれません。
「じゃあな」
「あ、はい!」
目的を達成した暦日さんは、どこか清々しい様子で去っていきました。
「雪、オレらもそろそろ帰るっすよ」
「えー、もうちょっとコトちゃんとおはなししたい!」
「これ以上遅くなったら、バイトに遅刻するんすよ」
「……わかった」
困った様子の陽君のために、しょんぼりしながら頷きます。
雪ちゃんは家族の方が代わりばんこに学校へ迎えに行っています。
過保護ではなく、きちんとした事情があることを知っているので、陽君の心配は痛いほどよくわかりました。
「私が送って行きましょうか?」
「いや、大丈夫っすよ。女の子二人だけで夜出歩くなんて危ないすから」
車を出してもらえればよいのですが、実の娘ではない手前、自分でできることは自分でしなければいけません。
事情がわかっている陽君に紳士的に断られては、こちらが折れるしかありません。
ふと、公園のすべり台が目に入りました。子供が滑るところと階段の間を屋根のある家に見立てて、おままごとをしています。
「それなら、お泊まりしに来ませんか?」
断られたのは、遊んでからお家に送り届けることです。
お泊まりなら朝早くにお家へ送ることになるので、暗い夜道は歩かなくて済みます。
「いいのっ!?」
「えっ」
喜びのあまり、尻尾をブンブンと振る雪ちゃん。
陽君は私らしからぬ案が出たことに、唖然としていました。
「迷惑じゃないすか? 詞さんの家ってことは……」
「むしろ玲奈さんは、雪ちゃんや陽君が最近遊びに来てくれないことに拗ねていましたから」
そうは言っても週の中日です。当然陽君は渋っています。
「う~ん……」
「ユキ、ちゃんとコトちゃんのゆうこときいて、めいわくかけないよっ!」
透き通るような雪ちゃんの瞳が潤み、陽君は項垂れました。
バイトの時間が迫っていたのもあり、自分が折れたほうが良いと考えたようです。
「今言ったこと、絶対に守るんすよ?」
「うんっ!!」
バイトへと向かう陽君を見送り、一度雪ちゃんの家に寄った後、二人で私の家へと向かいました。
一晩中雪ちゃんが話してくれたのは、陽君以外の、もう一人の家族のことでした。
――day.3――
雪ちゃんが泊まった翌日、私はとあることが気が気でなく、ごはんも喉を通りませんでした。
昼休みに中庭の隅に座り込み、震える肩を抱きます。
春のうららかな陽射しの下だというのに、うすら寒くすら感じました。
「雪なら大丈夫。さっき目を覚ましたよ」
顔を上げた先に立っていたのは、陽君ではありませんでした。ネクタイの色からして同学年の男の子のようです。
雪ちゃんのことについては知っているつもりでしたが、いざ目の当たりにすると取り乱してしまいました。
彼は早朝にも関わらず、落ち着いた様子で雪ちゃんのお迎えに来てくれたのです。
「白詰さん、いつもここで泣いてるよね」
花のように柔らかい声音は、どこか懐かしさを感じました。
男の子は自身が手にする白い紙を、見せつけるようにヒラヒラと揺らします。折り畳まれて中身は見えません。
「不思議な人ですね……」
「ん?」
目の前にいるはずなのに存在を疑うのは、まるで掴みどころのない雲のような感覚だからでしょう。
「あなたが紫蘭祷さんですね」
一瞬にして、萎れるように顔を曇らせてしまいました。
「…………うん。そうだよ」
昨日、雪ちゃんから聞いた通りです。
傷だらけで今にも枯れてしまいそうなほどに衰弱していても、仮面を被って咲き誇り続ける一輪の花。
笑顔を絶やさない様は、灰色の大地に根を下ろしながらも、周囲を鮮やかに彩ろうとしているようです。
今の私は、彼を記憶できていたことに一安心していました。
バラバラに散ったパズルを埋めるように、ピースとなる質問を一つ一つ投げ掛けます。
「雪ちゃんと陽君の、お兄さんですね」
「うん」
「暦日さんの、お友達ですね」
「う、うんっ」
「同じ小学校のクラスメイト、なんですよね」
「……うん」
「私を、助けようとしてくれた――」
「それは違うっ!!」
否定されたことで、口にした言葉が崩れ落ちるような錯覚を覚えました。
「助けたかったけど、僕は何もできなかった。ただ見ることしか、できなかったんだよ…………」
悔恨の念を嘆く紫蘭さん。ですが、私はそうは思わないのです。
「私を助けようと思ってくださったのは真実でしょう?」
「そうだけど、ただ思うことしかできなかった」
ゆっくりと首を振り、否定します。
「私は貴方を認識できていませんでした。差し伸べられた手を払ったのと同義です」
「僕は別に」
「お互い様ということで、お互いに気にするのはやめましょう」
論としては苦しいですが、紫蘭さんが昔から見守ってくれていたと知り、私は心から感謝していたのです。
言葉が溢れる教室の中で、一人の優しい言葉が救ってくれた記憶はありましたが、それが誰なのかはわからないままでした。
きっとその言葉をくれたのが彼なのでしょう。
「それに、私に出来なかったことを、貴方が成し遂げてくれたんです」
「ん? 暦日が変われたのは白詰さんのおかげだよ」
「いえ、私はキッカケを作っただけですから」
無力さを噛み締めることしか、私にはできませんでした。
暦日さんの心の拠り所となった紫蘭さん。私が彼に向ける眼差しは、羨望に満ちていました。
長い沈黙が続き、先に口を開いたのは紫蘭さんでした。
「僕も暦日と一緒に、白詰さんの部活に入ってもいいかな?」
「はいっ! こちらこそお願いします!」
「それと、もう一つお願いがあるんだけど……」
私は渡された入部届を、宝物のように優しく抱き締めました。