緑色の若葉『紫蘭祷』
――day.1――
僕は昔から、人に忘れられやすい体質だった。
「おはよーさん!」
朝の挨拶。毎朝かかすことなく、クラス全員に声をかけて回る。
「えーっと……」
「あいつ、誰だっけ?」
「知らない。そもそもうちのクラスだったか?」
疑心の目を向けられても、もう動じたりしない。
小学生の頃から、忘れられることには慣れている。
「やだなぁ、忘れちゃったんすか?」
「ごめんごめん、忘れてなんか……」
これは単なる記憶力の問題じゃないってことは、もうわかってる。だからこそ僕は自分を偽るために、明るくて親しみやすい人の仮面を被ってるんだから。
みんな僕の存在を感じていながら、誰だか認識しないんだ。
だからこそ、白詰さんと会話したことが、僕にとっては奇跡の始まりだったのかもしれない。
☆☆☆
「さっき何を話してたのよ」
放課後、突然うちのクラスにやって来たのは、男女問わず人気を誇る高嶺の花なお嬢様。『孤高の百合姫』こと、館花閖さんだった。
立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花という言葉がぴったりと当てはまるほどの絶世の美女だった。
艶やかな日本人形のように雅な雰囲気を醸し出しているものの、口を開けば残念な性格だという噂もある。
基本的には誰かとつるまず、むしろ一人でいることに誇りを感じているという話から、孤高。百合姫というのは本名の閖から名付けたんだとか。
他クラスの生徒がうちのクラスに足を踏み入れるのは、本日二度目だったかな。一度目は白詰さん。
あっ、でも館花さんは青いタイだから、他のクラスどころか先輩だった。
「ねぇ、聞いてるの?」
誰かに話し掛けているけれど、誰に向けての言葉なのかわからず、クラスのほぼ全員がキョトンとしていた。
唯一動いたのは暦日だけ。とはいえ下校しただけだけど。
少なくとも暦日はスルーしてるのだから、他の人間に用があるってことかな。
一体誰に用事があるんだろうと不思議に思っていると――
「そこの貴方のことよ! 紫蘭祷!」
「えぇっ!? 僕のことっすかあぁぁっ!?」
予想の斜め上すぎて度肝を抜かれた。
まさかあの百合姫ともあろう人が僕に用事なんて……。
しかも、高校に入って教員以外に始めて名前を呼ばれたわけだし、驚きを隠すほうが難しい。
有名人に名前を呼ばれ、クラス中の注目の的になるかと思ったけれど――やっぱり僕は僕だ。
「ねぇ、あいつ誰?」
「紫蘭? ……って、もしかして」
クラスメイト達は僕の存在を始めて知るどころか、名前も初耳という反応だ。
幼少期から繰り返し幽霊と同じ『居ないもの』という扱いを受けていたため、僕は落胆すらしなかった。
ヘラヘラと何事も無いかのように笑い、心の傷を悟られぬよう仮面を付ける。
――でも、どうして館花先輩はそんな僕に声をかけたんだろう?
じーっと館花先輩を見つめていると、未だに質問に対して答えを返していなかったため、イラついているみたいだった。
恐る恐る、逆撫でしないように問い掛ける。
「あのー、さっきっていつ頃のことっすか?」
ノーヒントで理解できるほど、頭の出来は良くない。つい質問に質問で返してしまう。
館花先輩は溜め息を一つ。組んでいた腕を解いた。
「昼休みに白詰さんと二人で話してたでしょう?」
「あ、なんだ。それのことっすか」
険悪な雰囲気だから物騒な話をされると警戒していたけれど、どうやら勘違いだったらしい。
自分にはそれほど関係無さそうな内容で、ホッと胸を撫で下ろす。
「白詰さんが人を呼んでほしいって言ってただけっすよ」
館花先輩は眉間に皺を寄せ、鋭い視線を僕に投げ掛けた。
「本当に、それだけでしょうね?」
気迫に気圧され声が出なかった。やむ無く首肯を答えとする。
しばし思考した館花先輩は、残念そうに肩を落とした。
「何よ、見当違いだったっていうの……?」
静観していたクラスメイト達は僕らの話から面白味を見出だせなかったのか、黙々と下校の準備を進めていた。
「それじゃあ僕も帰りたいんで――」
異様な力強さでカバンを掴まれ、教室を出られない。しかたなく足を止め、館花先輩の様子を窺うことにした。
館花先輩は俯きがちにブツブツと何やら苦悩しているようだ。
「…………人違い? じゃあ、あれは?」
なんとなーく嫌な予感がする。
こっそりと手を外そうとすると、逆の手も掴まれてしまった。
「このあとお暇かしら?」
館花先輩の表情はニコリと笑っている――だけじゃなく、背後からメラメラと炎のようなオーラが放出されていて、殺気は野性動物が獲物を捉えた時と酷似していた。
先程からダラダラと冷や汗が止まらない。しかも全身から噴き出していて、断る権利なんて無いんだなぁと諦めざるをえなかった。
人生諦めが肝心ってのは、今までで嫌ってほど理解してるからね。
やれやれと肩を竦め、言われるがまま館花先輩に同行することにした。
☆☆☆
連れてこられたのは学校の側にある、デクテットという名前のファミレスチェーン店だった。
個人的にはよく来るが、お嬢様がこんな庶民の溜まり場に来るとは意外だったため、驚きを隠せないでいる。
それにしても、よりにもよって今日とは間が悪い。店内を見回し、館花先輩に視線を戻す。
「……何よ、あたしだって庶民の嗜みくらい知ってるわよ」
「え? あ、うん。意外だった……」
不意を突かれたせいで仮面を付けるのも忘れ、思わず素がポロリと出てしまった。
「ふーん」
面白いおもちゃを見つけた子供のように、館花先輩の目がキラリと光ったような気がした。
「と、とりあえずドリンクバーとポテトでも頼んでいいっすかね~?」
動揺して声が裏返ってしまい、顔から火が出そうだ。クスクスと笑われてしまっては、火照りはすぐには消えないだろう。
羞恥を隠すため、呼び出しベルを鳴らした。手早く注文を済ませたい。
だが、オーダーを取りに来た店員は、僕がよく知る人物だった。目が合い、気まずさですぐに逸らす。
「えっと、ドリンクバー2つと特盛ポテトでお願いします」
「紫蘭先輩が女の子と一緒なんて珍しいっすね」
ニヤニヤと面白がって笑う店員の正体は、後輩の布瀬陽だった。僕を記憶している数少ない人物の一人だ。
明るく染めた髪と崩れた口調から、初対面だと不良と勘違いされることが多いけど、本当は実直で誰にでも優しい。
バイトに入ることで家計を支えているのはわかるけど、毎日のようにシフトを入れているため、つい心配で様子を見に来てしまう。
「ヒナ、バイト中にお客さんと話しててもいいの?」
「そう言われても、こんな面白いこと放っておくことはできなかったっす……!」
悔しそうに拳を握るヒナ。面白がらずに仕事をしてほしい。
まあ僕が誰かと一緒にいること自体が珍しいことは否定しないけどさ。
ヒナは他の店員の視線を感じたのか、すぐに意識を切り替えた。
「ではご注文を繰り返させていただきます」
仕事にすっかり慣れており、ハンディターミナルというオーダー専門の機械で手際よく注文を入力していく。
「ドリンクバー2つと特盛ポテトフライっすね! かしこまりました!」
ヒナが去ったと同時に、館花先輩が興奮を抑えられずに机に乗り出してきた。
「ドリンクバーってあれよね! 好き勝手に飲み物を混ぜる儀式よね!」
お嬢様の好奇心が庶民的なものに向けられているのは嬉しいけど、誰がこんなデマを教えたんだろう。
「前に執事に教えてもらったわ!」
間違った知識で胸を張っていて、お嬢様の中の一般常識が不安になってしまった。絶対に執事に遊ばれてると思う。
それでもキラキラと眩しい笑顔の前では、そんな不安もキレイに吹き飛んでしまう。
「ドリンクバーはおかわり自由ってだけで、必ずしも混ぜる必要はないっすよ」
「そうなの?」
「混ぜるなら自分が飲めるくらいを限度にした方がいいっすね」
僕のアドバイスの甲斐あってか、館花先輩はオレンジジュースとサイダーを混ぜるくらいに留めたみたいだ。
熱々揚げたてのポテトも届き、グラスのコーラを口に流し込むと話を切り出す。
「それで話ってなんなんすかね? 僕は本当に人を呼んであげただけっすよ?」
早く帰宅したいとは思いつつも、館花先輩が白詰さんに執着する理由は気になっていた。
「白詰さん、今日は祷以外にも誰かと話していたでしょ?」
初対面で早速呼び捨て……先輩だから別にいいけどね……。
「暦日のことっすよね?」
「こよみ? 変な名字ね」
いやいや、それは思っても言っちゃダメでしょ。
「下の名前は?」
「確か灰杜っすね。灰色の『もり』……あ、常用じゃなく、木に土って書くほうっす」
「暦日灰杜、ね……」
フムフムと館花先輩はメモ帳に名前を控えたようだ。
どこからか入手してきた名簿と照らし合わせ、暦日のことを特定する。顔写真つきの生徒資料なんて、普通は学校関係者じゃなきゃ入手できないんじゃないかな。
「確かにあたしの白詰さんを奪った泥棒猫だわ」
泥棒猫……暦日に猫耳と尻尾が付くのを想像してしまい、なんとも言えない気分になる。
というか、『あたしの白詰さん』ってことは、もしかして館花先輩って……
「白詰さんとの関係を教えてもらいたいんすけど」
「何故祷に話さないといけないのかしら?」
館花先輩は首を傾げ、核心には踏み込ませないように壁を作っていた。
そんなわけで自分で推測するしか無さそうだ。
「えーと……先輩が白詰さんと知り合ったのは高校入学後のはずっすから」
「どうしてそれを知っているの?」
テーブルを乗り出さんばかりの勢いで食い付かれ、びくりと身体が跳ねた。
「え、いやあ……白詰さんと同中なんすよ。もし先輩が同じ中学なら、噂を聞かないわけないっすもん」
手をガッシリと両手で握られる。それこそ親友と呼べそうなほど距離を縮められた。
人との距離が極端に近い人って感じかな。
「……あの愛くるしい姿に怯えるような表情、読書という一人の世界に浸る健気さ……あたし、白詰さんの事が大好きなのよ!」
なんということでしょう。『孤高の百合姫』という名の通り、恋愛観が百合だったらしい。
名前が閖なのと美しき容姿を百合の花に例えた異名が、まさか本人と合致していたとは……。
僕は同性愛に偏見を持っていないから、館花先輩が白詰さんに好意を寄せたところで態度を変えるつもりはない。
世間一般の常識が必ずしも間違ってるわけじゃないけれど、恋愛に関して言えば、他人に迷惑をかけるわけじゃないし、完全に個人の自由だと思う。
当人同士のいざこざについてはさておきって感じだけど。
「ぜひ中学生時代の白詰さんのことをじっくりとお聞かせ願いたいわ!」
「まあ、今日は遅くなるって伝えたんでいいっすけど……」
話が長くなりそうだから夕飯も注文しておくかな。
この調子だとすぐにボロが出て、小学生からの知り合いだとバレるのも時間の問題。根掘り葉掘りと訊かれるんだろうなぁ。
窓から煌々と街を照らす月明かりを見上げながら、僕は久しぶりの対話に頬が緩んでいることに気付いた。
「懐かしいな」
こうして家族以外の誰かと会話するのは何年ぶりだろう?
それこそ幼い時、大好きだった人の後ろをついて回っていた頃以来かもしれない。
……彼はもう、僕のことは覚えていないだろうけれど……仮面をくれた想い出は、僕にとって一生の宝物だ。
感慨深い小学生時代を想起しながら、僕は話を切り出した。
「さて――」
――day.2――
館花先輩に白詰さんの過去話を語った翌日。長話の疲れもあって、授業中に堂々と登校した。
存在感の無さのおかげで教員に注意されることは無かったけど。というか、見て見ぬふりだった気がしなくもない。
休み時間になると一つ前の席の観察を始めた。
座席に居るのは暦日だ。今はいつものようにブツブツと呟きながら隣の席を睨み付けている。耳を澄ませば独り言を聞き取れた。
「……どうしてあいつは、俺の居場所なんて」
居場所という単語に胸が痛んだ。僕にとっても憧れの対象だ。
「白詰詞。彼女は信頼できるはずだよ」
――僕と同じく孤独なヤツだと思ってたのに、白詰さんに見つけてもらえたんすよね。ずるいなぁ。
独り言や錯乱などのせいで異端とされ、クラスで浮いていた暦日。僕はそんな彼に親近感を抱いていた。
何度か接触を試みたけど、その度に名前を聞かれたっけ。まあいつものことなんだけど。
「……はぁ? 後ろのヤツ?」
暦日はぐるりと振り返り、そのまま視線を僕に固定させる。
「な、なんすか?」
突然のことに戸惑い、声が震えた。
「お前、白詰のこと知ってるか?」
「えーと?」
「白詰のことを知っているのか?」
ただ淡々と繰り返された言葉だけど、明らかに暦日は変わっていると感じた。
具体的には、高校に入って初めて他人に興味を持っている姿を見た。
淡々と授業を受けて、放課後は真っ直ぐ帰路につく。そんな当たり障りの無い日常を過ごしている印象だった。
昨日白詰さんと話していたことにも驚いたけど、まさか自分から話し掛けてくるなんて……
「家が近所だったんで、小学校から一緒っすけど」
「頼む、白詰のことが知りたい」
暦日が僕に頭を下げる。
あまりにも思わぬ展開に、ポロリと手元からペンが落ちたが、すぐに暦日が拾ってくれた。
「あ、ありがとう」
戸惑う僕を暦日は不思議そうに見てくる。突然話しかけられたにしても、挙動不審すぎるもんね。
「……なんで僕に気付けたんっすか?」
自分でもおかしな質問だとは自覚している。けれど昨日の館花先輩といい、傍観者でしかない僕の存在に気付くなんて、今までは家族くらいだったのに。
「あれだけジロジロ見られりゃ、気付かないわけないだろ」
視線を送り続けていても、僕のことは誰も見つけてくれなかった。でも君は見つけてくれるんだね。
嬉しさに胸が高鳴る。
「まぁ、桜が教えてくれたのもあるけど……」
少し言葉を濁したのはなんでだろうか?
それはそれとして、僕の中で答えは決まっていた。
「僕が知ってる限りのことでよければ、いいっすよ!」
快く承諾すると、暦日はどこか安心したように見えた。無表情は変わらないけど、なんとなく雰囲気が柔らかい。
あまり人に関わらないから、ちょっとした頼み事でも人より緊張しやすいのかもしれない。
「昼休みに屋上でいいっすかね?」
「わかった」
暦日は不器用だから表情に出せないだけで、本当は色鮮やかな感情を秘めているように思えた。
「やはり気になるんだね。周りの言葉に心揺れることは、君には無いことだから」
今のは僕に向けられた言葉なんだろうか?
教師が入ってきたことで暦日はすぐに前を向き、聞くタイミングを逃してしまった。
確かに僕は周りの言葉に影響されない。
仮面とは自分を隠し、弱い心を偽るためのもの。被っている間は例え孤独であろうと自然と振る舞うことができる。
誰とも関わりを持たずに孤立していた暦日が、白詰さんのことを自発的に調べようとした理由。知りたくないと言えば嘘になる。
白詰さんも……こんな暦日だから惹かれたのかな……?
僕は傍観者。仮面を被ったとしても、決して誰かに肩入れすることはできない。
いつもいつまでも、ただ見ているだけしかできなかった。
それは白詰さんの時も例外じゃない。
――でも、だからこそ誰かを救う手助けをしたい。
暦日に倣って、僕も変わりたいと思った。
☆☆☆
昼休み、屋上へ向かう途中で僕は足を止めた。
廊下の窓から、中庭で踞る白詰さんを見つけたからだ。隅っこで顔を隠すように本を読んでいる。
明らかに何かあったみたいだ。
「……僕じゃダメだろうな」
小学生の時から見ているから知っている。白詰さんが隅っこで本を読んでいる時は、嫌なことがあって沈んでいる時。
でも厄介なことに、話かけるのは逆効果になってしまう。
疑心暗鬼は人とまともに会話できる状況なんかじゃない。
「どうしたもんっすかね……っと」
よそ見しながら歩いていたせいで人にぶつかってしまったようだ。バラバラと楽譜や教科書、筆記用具なんかが散乱する。
「すんません」
頭を下げていると、相手は慌てた様子で落ちた荷物を拾っていた。
「あ、いえ……こちらこそよそ見していて……」
眼鏡をかけ直し、三つ編みを揺らして頭を下げてくる。
「煌空! 早くしないと置いていくわよ!」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこに立っていたのは館花先輩だった。
次の時間は移動教室なのかな。
「あら? 祷じゃない」
「昨日ぶりっすね」
「一体何を見ていたのかしら?」
館花先輩は僕の視線を辿ると、澄んだ瞳を曇らせた。
「……白詰さん、また言葉に溺れているのね」
窓辺に近寄って中庭を覗き、苦い表情を浮かべた。
館花先輩は白詰さんの過去を知ってしまったからこそ、声をかけるのを躊躇っているみたいだった。
あの状態の白詰さんには、大人の言葉が一番鋭く刺さってしまう。先輩という立場が大人と子供のどちらに分類されるかはわからない。
けれど、傷をさらに広げることになるくらいなら、触れない方がいいんだろうな。
「行きましょう」
「待ってよゆりりん!」
館花先輩は見守る選択肢を選び、友達と共に去ってしまった。
「本当は僕が助けてあげられればいいんだけど……」
僕の言葉は届かない。あの時もそうだった。
きっと今は素直で純粋な子供の言葉が必要なはずなんだ。特に、あの子の言葉が救いになる。
「でも、僕ができることもある」
スマホを取り出すと、ある人物へとメールを送った。
白詰さんのために僕が今できることは、信頼できる存在と巡り合わせることくらい。
でも白詰さんが心惹かれた暦日の言葉なら、深い深い海の底まで言葉が届くかもしれない。
光で照らし出し、救うことができるかもしれない。
僕の力で救えないのは歯痒いけれど、今度こそ他人からの言葉を克服してほしい。
どうか同じ過ちを、もう二度と繰り返しませんように……。
神に願いを乞うように、僕は空に祈りを捧げた。