灰色の世界『白詰詞』
――day.1――
世界には、私の嫌いなものが至るところに広がっていました。
それは、人間の英知である言葉です。
本来、言葉自体には何の力もなく、使う人間の影響を受けやすいだけ……
それを理解していながら、私は言葉というものが怖かったのです。
原因はわかっています。私の周りで、言葉を凶器や暴力として使う人が多すぎたのです。
だから私は、言葉に埋もれてしまいそうなほど、言葉と人が溢れる場所が大嫌いでした。
『次は、奏森~奏森~、お出口は右側です』
ゆらゆらと体が揺られ、不安定な足取りとなり、他人に挟まれてしまいます。
ここはすし詰め状態の満員電車。通学通勤の学生や社会人が、知り合い同士でお喋りをしています。
「昨日食べたケーキが映えるし、チョ~おいしくってぇ~、しかもスイーツアクセも売っててさぁ」
「ヤバいね、ソレ~」
「今日の午後にある企画会議なんですが、資料に不備がないか心配で……」
「わかった。昼休みに一緒に確認しようか」
他愛ない会話のはずなのに、言葉を使われているというだけで私の体はすくんでしまいます。
「昨日の吹雪先生、いくら無謀でも生徒の夢をゴミ扱いするなんて、教師失格だよな」
「確かに言い過ぎだった!」
自分に向けられた言葉ではないとわかっていても、自分にも同じ言葉を使われてしまいそうで怖いのです。
周りの言葉から逃げるため、いつものように本を開きました。
私への言葉が含まれない、夢や希望で造られた、優しい優しい童話の世界。
他人と関係を築くのが怖い私は、お菓子のように甘い言葉の世界に酔いしれていました。
電車が駅に停車し、降車の人波に流され、扉の側まで追いやられてしまいます。
人に肩がぶつかり、慌てて身を引きますが、相手は私に気づいていなかったようです。
恐る恐る顔を覗くと、それは見覚えのある人物でした。
私より頭一つ分高い身長に、丸まった背中。いつも寝癖が付いている、隣のクラスの暦日灰杜さんでした。
整った顔は女子を惹き付けそうなのですが、いつも独り言を呟いており、周囲からは異質だと気味悪がられています。他クラスの私でも知っているほどの有名人なんですよね。
耳を澄ませば、ポツリポツリと声が聞こえてきました。
「そうやって他人と関係を作らないから、君はいつまで経っても変われないんだよ」
胸を抉るように刺さった言葉。それは私の核心を突いたものでした。
慌てて本の世界へ戻ります。
「君はどうして、目を背けるんだい? 本当は声が聞こえてるんだろう?」
囁かれるような言葉に、鼓動がどんどん速くなってきます。
心の奥底まで見透かされているような恐怖感に襲われ、思わず本を落としてしまいそうになりましたが、ギリギリのところで理性が感情に打ち勝つことができました。
怖いはずなのに、彼に目を奪われてしまうのは何故でしょうか。
「うるさい」
まるで自問自答しているかのような口振り。それにより私は、言葉の本当の意味がわかりました。
この人にとっての戒めは、自分自身に向けた自分の言葉なんですね。
自分への言葉ではなかったからこそ、聞き耳を立てたことに対する罪悪感が湧き上がってきました。
「ご、ごめんなさい」
聞いてはいけない言葉。自分にかけられる言葉が、少しでも優しい声音をしていると思った時点でおかしかったのです。
悶々と自分の不甲斐なさを噛み締め、気分は段々と沈んでいました。
ただでさえ人混みで狭まった視界が、どんどん言葉で埋め尽くされ、息苦しさまで感じます。
「何、あの人……」
「気持ち悪りぃ」
「他の車両移動しようかな」
溢れ続ける言葉はとどまることなど知りません。
「アイツ頭イカれてるんじゃね?」
「さっさと降りてくれないかしら」
「最近の若者は本当にうるさいのう」
「SNS で呟いちゃう?」
悪意と邪推の言葉が視界に写る全てを食い荒らし、海のように波打ち、うねっています。
言葉に溺れてしまいそうになった瞬間、空を切り裂く稲妻のような絶叫が車内に木霊しました。
当然ながら、一瞬にして車内には静寂が訪れます。私も唖然とその姿を見つめていました。
暦日さんは呼吸が荒れ、今にも倒れてしまいそうなほど混乱し、膝をついていました。
周囲にいた人達との心の距離は、ハッキリと目に取れるほど離れています。それこそ異質なモノを見るような視線で、言葉に対する私と同じように怯えていました。
「君は、本当に弱いね……」
胸がズキンと痛みます。否定するような言葉を浴びせるのは、またしても暦日さん自身です。
無理矢理息を整えているところで、電車が駅に停車しました。
『福住町~、福住町~』
学校の最寄り駅に辿り着き、覚束ない足取りで下車する背を追いかけます。
ドアが閉じる音を背に、私は暦日さんへと頭を下げました。
「あの、ありがとうございました」
顔を上げると、無表情のまま私を瞳に写しているのが目に入りました。
「……は?」
私の中で思考し、結論を導いたのですから、当然ながら暦日さんにわかるわけがありません。
けれども私は、自分を見つめ直そうと思えるキッカケを貰えた気がしていたのです。
「あなたのおかげで、私は余計な言葉を聞かずにすみました」
私は自分に向けられたものではないと理解しながら、言葉の矛先は自分に向いていると錯覚していました。言葉の荒波にもまれたことで、方向を見失ったのです。
そんな批判の声を当事者の声が一掃したことには驚きました。
結果的に私は救われ、暦日さんに感謝しているのです。
けれど何も伝わっていないようでした。人に伝えるのはとても苦手なのです。
言葉を紐解いていけば伝わるでしょうか。
「言葉とは、その人自身の心ですから」
「あっそ……」
とても冷たくあしらわれ、胸がチクリと痛みます。
目で訴えてみるも、逆に相手の視線が刺さります。
「…………」
「…………」
無言で見つめ合っているのが小っ恥ずかしくなり、つい目を伏せてしまいました。
鏡のように映すだけで、打てば響くということはありません。
「……俺が怖くないのか?」
――ないと、思っていました。
ボソリと呟かれた言葉は無意識だったようで、顔を上げると目を逸らされてしまいました。
「怖くなんて、ないですよ……」
誰にも届かないような小声で告げました。そして、暦日さんへと反論します。
「あなたの言葉は、一見するととても怖いものですが、人ではなく自分への戒めです。だから私は、あなたが怖くありません……!」
満面の笑顔で、安心させるように語りかけます。
暦日さんは無表情のままでした。
言葉の意味が分からないのは当然のこと。他人の言葉に怯える私が一番よく知っています。
自分が精神的に耐えられない内容には、必要以上に鈍感になってしまうのです。
「私の名前は白詰詞です。今度ゆっくりお話させてください」
焦らず、ゆっくりと関わればいいんですよね。
きっと暦日さんも人と関わるのは苦手で、困っているでしょうから。
軽く会釈をすると、すぐに学校へ向かうために駆け出しました。
授業の時間割表をチェックします。
「そういえば、同じ学校だと伝えるのを忘れてましたね……」
自分の失態に気づいたものの、時間は遅刻寸前。昼休みに改めてお話に行くことに決めました。
☆☆☆
昼休み、暦日さんのクラスに向かうと、暦日さんはまだ昼食を食べていないようでした。
「あ、あのっ!」
近くを通りかかった人を呼び止めます。
「あれ? 白詰さんじゃないっすか!」
「えっと……?」
どこかで見たことがあるような気がするものの、誰だかさっぱり思い出せません。誤魔化すように暦日さんを指差します。
「あの、暦日さんを呼んで頂けますか?」
「了解っす」
男子さんは暦日さんに話しかけてくれたようです。少し会話した暦日さんは、私が待っているのと反対のドアから出ていってしまいました。
呆れたように見送った男子さんは、わざわざ私の所まで戻って謝ってくださいました。
「ごめんなさい、暦日はいつも人を避けてるんすよ」
「大丈夫です。ありがとうございます」
そうしてすぐに暦日さんの後を追いかけようとしましたが、手を掴まれてしまいます。
振り返ると、男子さんは俯き、先程までの明るく陽気な雰囲気は消え去っていました。
まるで仮面を剥ぎ取られたかのように、不安に押し潰されそうな表情を浮かべています。
「やっぱり僕のことはわからないんだね」
「えっ……?」
寂しそうな言葉の真意を聞く前に、手は放されていました。
「思い出してくれるように祈ってる……」
悲しげな笑顔の裏側に、どんな本心が隠れていたのかわかりません。
けれど、訊ねる前に背中を押されてしまい、私はやむ無く食堂へと向かうことにしました。
「僕は、どうしていつも…………」
悲痛な声が背中越しに聞こえた気がして振り返るも、すでに人の姿は無く、ひんやりとした風が吹き抜けていました。
揺らめく髪を一房耳に掛けると、踵を返して食堂を目指します。
昼食を食べ終えた生徒たちとすれ違いながら、暦日さんも別の場所にいるかもしれないと焦りを隠せずにいました。
あの人は、私と似ているようで違う人。少しの勇気を出せば克服できてしまう私とは違い、もっと心の根本的な部分が歪んでしまい、不安定になっているように思うのです。
放っておくと、この世界から消えてしまうような曖昧な存在。それはまるで夢幻のような、一息で消える蝋燭の火のようなもの。
心配とは裏腹に、暦日さんはまだ食事を取っていました。ポツンと孤独に過ごす向かいに、ちょこんと座ります。
食べたくもないカレーライスを口に運び、こっそりと様子を窺います。
例え無言でも、人が近くに居るというだけで、冷めた料理がとても美味しく感じました。
今までは得ることの出来なかった新しい発見です。
心は自然と暖かくなります。春の木漏れ日のように、とても心地よいものです。
その心地よさは口を滑らせる原因となってしまいました。
「暦日さん、朝はありがとうございました」
チラッと私を見るも、暦日さんは定食を黙々と食べ進めます。
私が気に障ることをしてしまったというより、一人で居たいから無視しているのでしょう。
私も人と関わることに恐怖しているからわかります。
ふと嫌な記憶が甦り、途端に心は冷たく凍り付いていきました。
「ご、ごめんなさい」
余計だと、出過ぎた真似だと理解していても、私はこの人を救いたい。
暦日さんを救うことで、私も過去から抜け出せる気がするのです。ただの自己満足にしかならないとはわかっています。
食事を終え、席を立つ暦日さん。止めることは出来ません。
一人残され、孤独感が際立ちます。
食欲はもうありませんでした。
先ほどまでは美味しかったものが、今は無味でしかありません。
味覚がおかしくなった。……そんな身体的な話ではなく、精神的なことが原因なのです。
人から拒絶されることには慣れていたはずなのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのでしょう?
私に対して、あえて批判的な言葉を使わないからでしょうか……?
この胸の痛みを知りたいという欲求は強く、気づけば暦日さんを追いかけ、服を引っ張っていました。
周りでは囃し立てるような歓声が広がります。目立つつもりは無かったのですが、思春期の高校生としては当然の反応だったのかもしれません。
「ごめんなさい」
つい口癖となっている言葉を洩らしてしまいます。
暦日さんは背を向けたままでした。
「俺に構うな……」
またも聞こえた本音のような言葉。歩き去る姿はとても見ていられるような物ではなく、自分の命に価値が無いと思っているような痛々さがありました。
当然放っておける筈などありません。
「ま、待ってください!」
気づけば教室までついてきてしまっていました。けれど追いかけたことや注目されることより辛かったのは――
「何?」
人の姿や光を写さない人形のような虚ろな瞳。そしてさらに氷のような冷たさを孕み、突き刺さるような視線でした。
びくりと身がすくんでしまいます。
それでも逃げてはいけないという気持ちが強く現れていました。
「私は白詰詞です」
「はぁ……」
そっぽを向いて溜め息を吐かれてしまっても、迷惑がられたとしても、私はこの意志を曲げたくありませんでした。
「私とあなたは似ています……」
他人や自分に期待せず、孤独なまま人生を送るだけの日々……
「だから、私はあなたを助けたいんですっ!」
つまらない日常でも構わない。私は言葉に怯えず、人と関われるようになりたい。
そして、私と似ているこの人を、側で支えてあげたい。
周囲では様々な憶測が飛び交い、私と暦日さんの有る事無い事を噂として話していました。
ガタガタと身体が震え出し、まるで心にポッカリと穴が開いたようでした。
声が増えるにつれて不安が膨らんでいき、言葉が、声が、私の目の前埋めていきます。
言葉の海に溺れる恐怖が頭を過るものの、私は私の意識をたった一言で繋ぎ止めました。
「ごめんなさい……」
暦日さんはもちろん、誰にも聞こえないよう、私自身に暗示をかけるように呟きます。
この言葉により、言葉の海はバラバラと崩れ去り、視界はクリアになりました。
「誰かの言葉に縛られたあなたの時間を、私が一緒に刻みます!」
プロポーズにも似た言葉に、羞恥心が込み上げてきました。
けれどこれが私の心からの言葉。
あの頃とは比べ物にならないほど、私の心を、気持ちを表した言葉。
「気持ちが、少しだけ揺らいでいるのかい?」
また暦日さんは、自分に語りかけていました。まるで別人が乗り移っているようです。
「どうしてそこまで言ってくれたのか、彼女に興味を持ったんだね」
自分へ良いイメージを抱かれていることがわかり、私はホッと胸を撫で下ろしました。
『それでいい……いや、そうでなくては困るんだ……』
不意に耳をついた声に周りを見回しますが、明らかにクラスの人ではありません。
……でも、それでは誰の?
「おい」
私達と同い年くらいの、女の子の声。どこかで聞いた覚えがあるような――
「白詰っ!!」
疑問を抱き考え込んでいると、思考の渦を先生が断ち切りました。
いつの間にか教室にいた生徒は全員着席しています。
「もう授業だ」
「あっ」
ふと我に帰り、私は慌てて自分の教室へと戻りました。
☆☆☆
放課後、私が帰ろうとしていると、校門に寄り掛かる暦日さんの姿が目に入りました。
「どう、して……?」
実に退屈そうに、欠伸をしながら空を見上げています。
ボーッと立ち尽くしていると、暦日さんと目が合いました。
つかつかと歩いてきたと思えば、小さな花柄のハンカチを差し出します。
「落ちてた」
受け取りを確認するとただそれだけ呟き、暦日さんは背を向けました。
「……何?」
無意識にも、帰宅しようとする暦日さんの手を引いていたようです。
虚ろな瞳には鏡のように私の姿が映し出されています。
「あ、の……」
震えた声音は私が何を望んでしまったのか、それがどれだけ我が儘で自分勝手な内容かに気づいてしまったからでした。
それでも、私は僅かな可能性に賭けます。
カバンから取り出した用紙を、暦日さんが受け取ってくれます。
「あの、私……文芸部にいて……」
言葉を続けることは出来ませんでした。
暦日さんから失望に近い拒絶の色が窺えたからです。
グシャリと用紙が握り潰されました。
「勧誘、か」
ざくりと刺さった言葉は心を抉り取るようで、
「……っ!!」
声にならない声が漏れました。
「断る」
その場から逃げ出すように、暦日さんは去って行きました。
「私はただ……居場所を作りたかった、だけなんです……」
けれどそんな言い訳じみた自分の言葉ですらも、私を沈めるには充分でした。
重石となって、言葉で埋め尽くされた海の底へと落ちていきます。
ただ助けたいと願い、祈っただけだというのに、神様はなんて意地悪なんでしょう。
あまりにも深い海に飲み込まれ、私の意識はそこで途絶えました。
もしも、私の他にも彼を救いたいと思う人がいるなら、どうか助けてあげてください。
言葉の海に溺れる私のように、刻まれる時の中で停滞する、暦日さんのことを……